信長公の連枝、小田井織田藤左衛門家

 尾張の虎、器用の仁と呼ばれた織田信秀は、最晩年の一、二年、女たちに手を付け、多くの子供を産ませました。手をつけた女の一人が、嫡男信長公の乳母大乳ちの方でした。

天文20年(1551)信秀と大乳ちの方の間に、後に「小田井の方」と呼ばれる娘が生まれます。俗名は伝わらず、法名を栄輪院と言われるそうです。


彼女が「小田井の方」「小田井殿」と呼ばれるのは、尾張小田井城の城主夫人になったからですね。彼女の夫は、織田藤左衛門家の当主織田信直です。


信直の父親は織田信張。

信張の父親は織田寛政(寛故)です。その寛政の兄が、初代下尾張守護代になった織田大和守敏定であるとされています。

彼は初代小田井城の城主だったと言われており(諸説あり)、つまり少なくともこの当時、織田大和守家の屋敷はこの小田井(織田井、於多井)にあったということになりますね。

当時の小田井城は、平地の続く尾張にあって、やや気持ち小高い土地に築かれた、庄内川を天然の堤防とした東西54,54m、南北94,55mの内外二隍(堀、特に空堀)(『西春日井郡誌』)に囲われた平城だったようです。

形としては、勝幡城によく似ていたでしょう。


また近くには天正年間に信長公によって整備された、岩倉街道(道に柳が植えられていた為柳街道とも)と呼ばれた街道が通っています。

熱田を発した美濃街道(稲生街道)とここで分かれて、九ノ坪から岩倉へと通じるこの道は、更に石仏を経て、生駒氏の居城のある小折、それから安良、力長、柏森から犬山城下へと続き、犬山街道とも呼ばれました。

この街道は、当時は整備はされていませんが、戦国以前から存在していたそうです。


小田井城を出て、美濃路を西に行けば尾張守護所別廓の清州城。そこから北へ5キロほど上がると、岩倉城の近くに当時の守護所下津城がありました。

更に小田井城を東に出て、先ほどの後の岩倉街道で庄内川を渡れば今川氏の那古野城、北東には、後のことになりますが、天文年間に斯波氏家臣の井関城主佐々成宗(のちに勝幡織田氏に転仕、佐々成政の父)が対清州守護代屋敷のために築いた比良城があります。


 応仁の乱を経て勝軍となった敏定は、大野家出身の斯波義寛を推戴して尾張守護所清州城に入城しました。

それを受けて寛政は、清州の支城である小田井城に入りました。正室には、兄の主君である斯波氏の娘、玉堂殿が輿入れしました。玉堂というのは第5代武衛斯波義将(1350〜1410)のことですので、彼にゆかりのある女性なのかもしれません。この義将は大変な人格者で、斯波武衛家の最盛期を築いた方です。

小田井城主にしかすぎない寛政に、縁者かもしれませんが、斯波氏が娘を嫁入りをさせるのは、敏定のおかげで武衛になれたからとはいえ、破格な対応ですね。


さてここで織田伊勢守家から、その家臣の大和守家に「尾張守護代」の役職が移動しました。

しかし両織田家の確執は凄まじく、当時の尾張に大きな影響力を持っていた美濃守護代家の補佐をしていた斉藤妙椿の仲介で、尾張を上下にわけて統治することになりました。


初代下尾張守護代織田大和守敏定は、嫡男寛定の正室に、斎藤妙椿の家老石丸利光(斎藤利光)の娘を頂いていました。

しかし、妙椿が亡くなると石丸利光と妙椿の養子妙純との家督争い「船田合戦」に巻き込まれてしまいます。

その戦で妙応4年(1495)敏定は討死します。更に嫡男寛定も、妙純に付いた岩倉織田氏の連枝木之下織田氏に討ち取られます。

そこで急ぎその弟の寛村が家督を継ぎ、岩倉方と和睦をしたと言われています。

寛村の文書は妙応9年(1500)で途切れるため、その跡を寛定の嫡男である達定が守護代職をとったようです。


ところが大和守家を継いだ達定は、永正10年(1513)、斯波氏に対して謀反をおこして切腹を申し付けられたとされています。今川氏が斯波氏の領国である遠江(守護代は斯波氏の筆頭家老甲斐氏)を襲い、斯波義達が兵を出そうとするのに反対したためという説もあります。

大和守家は達定の弟と言われる達勝が跡目を継ぎました。


その2年後。今川氏との戦に大敗した斯波義達は隠居し、わずか数えで3歳になったばかりの義統に家督を譲る羽目に陥りました。

とはいうものの、義達のやる気と影響力はそこまで衰えたわけでもなかったようです。


永正13年(1516)に妙興寺文書に出てくる「織田筑前守良頼」が、実は船田合戦で亡くなった初代下尾張守護代敏定の父ではないかという説もあり、そうなると大和守敏定と小田井織田藤左衛門家の寛政の姉妹が、織田弾正忠信貞の正室いぬゐということになります。

上守護代岩倉織田氏が斯波氏に頭を下げた折に、従属の印として重臣織田弾正が転仕し、下守護代の娘を輿入れさせたという形になるでしょうか。


大永4年頃(1524)津島が大和守家に対して反乱を起こし、その鎮圧のために織田弾正忠信貞が津島を焼き、近くに居住することになりました。


その後信貞は勝幡に築城し、達勝は娘を弾正忠家嫡男信秀に嫁がせました。

また津島に対し、信秀の生まれたばかりの娘くら姫を津島大橋家に輿入れさせることにしました。


天文元年(1532)になると、達勝は藤左衛門家と共に、勝幡織田氏に対して事を構え、敗北してしまいます。

この頃、信秀は水野家、櫻井松平家、犬山織田家(信貞、信康、信時)、岩倉織田家と同盟関係にあり、それを尾張守護斯波氏(前武衛義達)が支持しているように見えます。その勝幡織田氏に、小田井織田氏は従属することになりました。


 さて小田井織田氏の寛政の家督は永正17年に正室玉堂殿との間に生まれた寛維になります。残念なことに数えで23歳の秋、天文11年(1542)に亡くなってしまいました。

この時、大永7年(1527)生まれの次男の信張は数えで16歳です。彼を当主に立てて、寛政が後見をするという手もあったでしょうが、寛政自身が再び当主として立ちました。その後、寛政は天文19年(1550)に亡くなっています。


この信張は、「清州移城ののちに開催された津島盆踊り」として『信長公記』に書かれている津島盆踊りのメンバーの一人です。あのメンバー構成は非常に興味深く、太田牛一が何かを意図してわざわざ書いたのではないかとも考えられます。

信張が割り振られている役は、初期から最後まで信長公を支え続けた方々で構成されています。


それを考えると一度戦をしている関係もあり、小田井織田氏が勝幡織田氏に従属したおり、次男である信張を証人あかしびと(現代で俗にいう人質)として、天文3年(1534)生まれの勝幡織田氏嫡男信長公の御伽(近習)として出仕させた可能性もあります。

身内が近習、或いは上級侍女として殿や嫡男の側に侍っていることは、当時の武将家としては、コミュニケーションの問題があり、とても大事なことでした。

ですから小田井織田家としては、流石に他の家とは違い御一門衆になる小田井織田氏の当主では、近習を続けることは無理だったでしょうし、まだ若い次男を当主にして直に勝幡織田家に当たらせるより、腹芸のできる寛政の影響力を保持させる形を取ったのかもしれません。


この信張の正室は、信秀の弟の信康の娘と言われています。信康は側室の息子ですから、立場上は連枝という名の信貞の家臣です。


その後、天文15年(1546)に、信康の娘を母として織田信直が生まれています。嫁取りの時期がちょうど桶狭間のあたりですから、信直と5歳違いの妹を正室に采配したのは信長公になりますね。


ところで信長公の兄弟たちのほとんどは、父の居城だった古渡、末盛にいたでしょう。

那古野城を与えられて後信勝が亡くなるまでの間、異腹の兄の信時(秀俊)が父親の死後犬山から帰り、手元(城下)にいたくらいかと思われます。

(長兄信広のはっきりとした記述はない為分かりませんが、信秀の城下にいたかもしれませんね。しかしその後は安祥城を任され、別に城を任されていたと思われます。)


拙作では、信秀が乳母殿に手をつけた経緯を、病床の枕元で昼夜違わず、信頼できる人に経文をあげてもらうという、当時の風習からのものだったと考えられることから、信秀を末盛から那古野に引き取っていたのではと考察しています。

そう考えると、この小田井の方は、乳母の子であることもあり、もしかして生まれた頃から嫁ぐまで、信長公と共住みしていたかもしれません。


そうなると手元で育った数少ない妹であり、自らの乳母の子という、二重の意味で縁が深い姫君を嫡男に嫁がせるのですから、信張には一門衆の中でも目をかけていたことは間違いありません。


信直と信長公妹の間には、二男一女が育っています。

残念ながら、天正元年(1573)23歳の若さで、妹姫は亡くなってしまいます。更に翌天正2年、伊勢長島の戦いで信直も討死してしまいます。


藤左衛門家の跡目は、嫡男の信氏がとっています。

弟の忠辰が元亀3年(1572)生まれですし、前年亡くなった小田井の方の年齢を考えると、大きくとも10歳になっていたか、なっていなかったかほどの歳だったでしょう。


幼くして父母を亡くした甥姪たちを不憫に思ったのでしょうか、信長公は信氏に3万6,000貫の知行を与え、更には天正9年(1581)京都御馬揃えでは連枝衆として引き立てています。

この辺りも、初期からの忠臣である信張への配慮かもしれません。


話は前後しますが、この頃信張は清州城代を任じられており、近江坂本の日吉大社から大山咋神と摂社二十一社を勧請した(天正8年)と言われています。この頃、坂本城主明智光秀が、比叡山焼き討ちで丸焼けになった日吉大社の再建をことごとく断っており、もしかするとそれに心を痛めたのかもしれませんね。


信氏は本能寺の変を免れ、その後は祖父の信張と共に信雄につきましたが、彼も長くは生きることなく、本能寺の変の2年後の天正12年(1584)6月2日に亡くなりました。息子が小さかったことから家督は、弟忠辰が取りました。


息子、孫息子、そして信長公を見送った信張は秀吉の再三の誘いを断り、文禄3年(1594)に、安土から上洛の入り口にあたる近江の大津で没しています。


忠辰は秀吉によって城を追われた後、許され秀頼たちに仕えましたが、豊臣政権が滅びると、池田恒興の息子である輝政に声をかけられて池田家に出仕し、その家臣として小田井織田氏の血を残したようです。


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