信長公の姉妹・名簿
信長公の姉妹の簡単な名簿です。
諸説あり、正しくない部分はあると思います。
ご使用される場合は、各自の判断でお願いします。
【長女】
くら姫 おくらの方
生年 大永3年(1523)前後 信秀13歳頃
没年 不明
享年
母 不詳。侍女
夫 奴野城主 大橋清兵衛重長(津島)
津島と和平の為、嫁ぐ。婚約後、婚姻はしばらく後だったかと思われる。
婚姻 大永4年(1524)
子供 大橋長将、織田勘七郎信弌(本能寺の変討死)
居城 勝幡 奴野
【二女】
斎藤道三側室
生年 天文初期
没年 不明(道三死亡時には既に亡くなっていたと思われる)
享年
母 不詳
夫 斎藤新九郎秀龍(斎藤道三)
婚姻 天文17年(1548)
敵対していた家同士の婚姻の為、重縁にするために嫁す。
子供 左門
居城 勝幡、那古野、古幡、末盛、稲葉山
【三女】
苗木勘太郎室
生年 天文10年前後か
没年 不明
享年
母 不詳
夫 遠山勘太郎景廉
美濃岩村城主遠山景前三男。天文21年(1552)遠山景徳の養子として阿寺城、続いて苗木城を築城、苗木勘太郎景廉を名乗る。
婚姻 天文21年(1552)頃か
子供 龍勝院(永禄9年(1566)頃信長公養女として武田家嫡男勝頼に嫁す。永禄10年11月嫡男信勝を出産、元亀2年(1571)9月16日死去)
居城 勝幡 那古野、古幡、末盛、苗木城
【四女】
犬山殿
生年 天文10年前後か
没年 不明
享年
母 不詳。
夫 犬山城主織田十左衛門信清(従兄弟)
父親信秀の弟、信康の長男。
婚姻 永禄元年(1558)より少し前。永禄5年(1564)離別
子供 津田長益、娘
居城 勝幡、犬山 清須、小牧、岐阜、安土、岐阜
【五女】
市姫
生年 天文16年(1547)
没年 天正11年4月24日(1583年6月14日)
享年 36歳(数37歳) 自刃
母 不詳。土田御前説もあるが側室の可能性。
夫 浅井長政
婚姻 永禄10年9月(永禄7〜11年諸説あり)
子供 茶々、初、江与
夫 織田家宿老柴田勝家
婚姻 再嫁 天正10年(1582)8月20日
居城 古渡、末盛、清須、小牧(永禄6)、岐阜(永禄10)、小谷、尾張守山(伯父、織田信次)、岐阜、越前北ノ庄
別名 小谷殿 小谷の方
【六女】
栄輪院 小田井の方、小田井殿
生年 天文20年(1551年)
没年 天正元年(1573年)
享年 22歳(数23歳)
母 池田恒利の妻、養徳院(信長公乳母)
夫 織田藤左衛門家 又六郎信直(天文15年〜天正2年)
婚姻 永禄3〜6(1561〜64年)頃 本人死亡
子供 織田角蔵信氏(竹千代)、備後守忠辰(虎千代)元亀3年(1572)生
居城 那古野、清須、小牧、岐阜、小田井
【七女】
小幡殿
生年 天文20〜21年(1551〜52)
没年 不明
享年
母 不詳 側室
夫 織田信光嫡男、津田市之助信成
天正2年9月29日(1574年10月13日)伊勢長島攻めで討死
婚姻 永禄6年前後、死別(天正2年)
子供 不明 正信、光徳院
居城 末盛、清須、小牧、岐阜、尾張小幡
【八女】
いぬ姫
生年 天文20〜21年(1551〜52)
没年 天正10年(1582)本能寺の後死亡
享年 30歳前後
母 不詳。
夫 尾張大野城主佐治八郎信方(為興)
(天文22年〜天正2年9月28日伊勢長島攻討死 22歳)
婚姻 永禄11年(1568)頃 死別、(天正2年)
子供 佐治與九郎一成(永禄12年(1569)生 正室お江与の方、継室信長公娘振姫)中川久右衛門秀休(佐治氏、織田熊之丞)
夫 室町幕府34代管領細川晴元嫡男、細川吉兆家当主、細川六郎昭元
(天文17年(1548)〜
再嫁 天正5年(1577)
子供 秋田実季室円光院、娘
居城 末盛、清須、小牧、岐阜、知多大野、岐阜、山城槙島
【九女】
津田出雲守室
生年 天文20〜21年(1551〜52)
没年 不明
享年
母 側室
津田出雲守と名乗っているのは、4〜5歳上の兄長益になります。
何らかの事情があって、兄の元に身を寄せたか、子供達が婚姻したかなど、情報が錯綜したのでしょうか。九女は出雲守の室になったというのが定番のようなので、記載しました。
【十女】
とく(小林殿)
生年 天文20〜21年(1551〜52)
没年 文禄2年(1593年12月18日)没
享年 42歳頃
母 不詳
夫 牧与三右衛門長清(或いは義清)
斯波氏傍流、牧長義と叔母である長栄寺殿の息子。(斯波義銀の従兄弟)
婚姻 永禄13年2月15日(1570年3月21日)死別
子供 不詳
居城 末盛、清須、小牧、岐阜、前津小林城 岐阜
【十一女】
乃夫殿
生年 天文20〜21年(1551〜52)
没年
享年
母
夫 津田九郎次郎元嘉 (元秀)
子供
(注意)兄の織田信治が野夫城主をしている。
【十二女】
神保殿、稲葉殿
生年天文20〜21年(1551〜52)
没年
享年
母
夫 神保安芸守氏張(京在住) 天正七年以降に離別
子 主膳氏長
夫 稲葉貞通(稲葉一徹嫡男、継室)
子 三男二女
【不明】十女とも伝わる
飯尾殿
夫には諸説あり。
1、飯尾隠岐守尚清(信宗)
享禄元年(1528)生〜天正19年没、
父、定宗は信秀の従兄弟。斯波氏庶流飯尾氏の養子となった。桶狭間で討死。母、細川晴元の娘
尚清との年齢差と、尚清の嫡男茂助敏成(本能寺討死)の正室が、信長公兄織田秀孝の娘七条である為、尚清に嫁した場合、継室と見られる。
2、尚清の末弟「長清」であるという説もある。飯尾長清は、家系図になく重宗のことか?
夫 奥田城主 飯尾彦三郎重宗
天文9年(1540)〜元和2年(1616)没、本能寺後剃髪 草庵と名乗る。
子 永沼俊隆(早世)、娘(星合具泰室)娘(庄林隼人室)娘(不明)、永沼左之助(左馬之助宗敏)(兄の息子、家督)
牧長清の間違いかとも思われますが、飯尾氏に信秀の娘が嫁いだというのが、通説としてありますので、小林殿かどなたかが、離別、死別後、嫁いだのかもしれませんし、記録に残っていない娘が嫁いだのかもしれません。
信長公姉妹を頂いたという話が、あちこちに残っています。
1、死別、離別した娘を再嫁させた。
2、信秀の姪を養女にして、嫁がせた。
3、家臣の娘を養女として、別の家臣に嫁がせた。
の他に……
拙作「深読み信長公記」でも書かせていただきましたが、ご覧の通り最晩年の1551から2年にかけて、信秀の子供が突如大量発生しています。
当時病の床にあると、一日中耳元で菩薩戒を、そして死の床にあるとされた場合は、これまでに行った作善を賛嘆してしてもらうことになります。
乳母と寵愛深い小姓の姉妹。
那古野城で信長公と同居しているはずの二人の女性に手をつけられている。
しかも養徳院の娘小田井の方はお市の方の次の娘、つまり初期の子供、また岩室殿の息子長利も唯一のこの年の男児である。
このことから、信秀は最晩年、那古野城に引き取られ、賛嘆してくれている女衆に手を出し、周りは慌てて対処をしただろうと考えました。
上記の表にまとめたのが記録に遺っている娘達ですが、男児を含め他にもいた可能性はあると思われます。また岩室殿以外に息子が確認できていないのは、男児だった場合、家臣に下げ渡されていたのだろうと思います。
流石に幕臣家の子女で、信長公の若衆の姉妹の岩室殿ですから、側室にあげて形式を整えたでしょうが、他の女性に関しては、実家に戻すか、万事言い含めて嫁に出したかしたかもしれません。
病は悪霊や因果の回ったものであり、死が近づくと生霊や死霊が競い立つとされた当時、父親が死の床で作った子供というのは、不吉なイメージがつきまとうので、特に戦の勝敗がかかる男児には厳しい状況だったと推測します。
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