信長公の伯父伯母・名簿

【父親】家督(信長公祖父)

織田三郎信貞

生年 

没年 天文7年11月2日(1538年11月23日)

享年

主君 清須織田氏→岩倉織田氏

父  織田敏定?

母  京極持清娘(京極氏の史料にはない)

妻  正室いぬゐ(織田藤左衛門良頼娘)側室 月静院(墓所 岩倉誓願寺)など

兄弟 信長公後見玄蕃秀敏など

本城 清須、勝幡、木之下、犬山


【正室】

いぬゐ(信長公祖母)

生年

没年 大永7年6月24日(1527年7月22日)

   含笑院殿茂涼茂大禅定尼


父 藤左衛門家当主 織田筑前守良頼 

本城 小田井城

母 不詳

兄弟 織田藤左衛門寛維(家督)

子供 信秀、信光など

菩提 海東郡土田含笑寺(現清須市)

享禄元年(1528年)開山 清岩法英(天台宗)。三世(三代目)に、腹違いの息子である大雲永瑞(大雲禅師、織田家菩提寺萬松寺開山)の弟子、愚庵道黠(曹洞宗)を迎え(法地開山)、四世として、息子信秀の甥にあたる助南佐公を迎えた。


【側室】

月静院

生年

没年 天文14年10月24日(1545年11月28日)

月静院殿高誉性岸貞春大禅定尼

菩提 岩倉誓願寺 娘秋悦院の夫である岩倉織田氏、伊勢守信安の手で開山




【長男】(嫡男、家督)[信長父親]

三郎信秀

生年 永正7〜8年(1510〜11)

没年 天文21年3月3日(1552年)病死

享年 41歳(数42歳)

母  正室 いぬゐ(織田藤左衛門娘)

妻  正室織田達勝娘、継室土田御前 、伊勢守敏信娘など

子供 信広、信時(秀俊)信長、信勝、秀孝、信包など

本城  勝幡、那古野、古幡、末盛

官位 備後守、三河守(どちらも正式な官位)



【次男】

与次郎信康

生年 永正8年〜12年(1511〜15)[功績を考えると、永正9年頃]

没年 天文13年9月22日(1544年10月8日)病死?

享年 33歳頃(数34歳)

母  側室

主君 勝幡織田氏、織田信貞(父)→犬山織田氏、信貞(父)→犬山織田氏、信時(養子)

妻  不詳

子供 (養子)兄の次男である信時。

信清(嫡男)、広良、娘(藤左衛門室)

居城  勝幡、木之下、犬山

備考)犬山織田氏の家督は、父信貞から養子信時に移ったと思われる。


【三男】(嫡男)

孫三郎信光

生年 永正13年(1516)

没年 弘治元年11月26日(1556年1月7日)家臣による斬殺

享年 40歳(数41歳)

母  正室 いぬゐ(織田藤左衛門良頼娘)

主君 勝幡織田氏(父信貞)→勝幡織田氏(兄信秀)→勝幡織田氏(甥信長)

妻  正室 松平信定娘(同盟の為、妹と重縁の婚姻)

婚姻 大永6年(1526年)頃

子供 小幡城主、市之助信成(幼名市助、正室信秀七女小幡殿)四郎三郎信昌(信実の養子に入る)仙千代(助南佐公)

別名 津田孫三郎信光

居城 勝幡、尾張守山、那古野 


【四男】

四郎次郎信実

生年 永正14年〜(1517〜)

天文11年(1542)の小豆坂の戦いで活躍していることから、1520年前後には生まれていると考えられる。

没年 天文19年(1550)

享年 30前後

母  側室

主君 勝幡織田氏(父信貞)→(兄信秀)→(甥信長)

妻  不詳

子供 信昌(兄、信光次男、別名津田与左衛門長義、娘が福島正則の正室)

別名 津田四郎三郎信実

居城 勝幡 不明


【五男】

孫十郎信次

生年 天文元年(1532)

没年 天正2年9月(1574年) 伊勢長島攻め討死

享年 41歳(数42歳)

母  正室 いぬゐ(織田藤左衛門良頼娘)と言われているが、それ以前にいぬゐがなくなっているため、生年がちがうか、いぬゐの腹であるかのどちらかが、間違っていることになる。


妻   

子供 

別名 津田孫十郎信次、右衛門尉

城 勝幡、木ノ下、犬山、尾張深田 尾張守山 流浪 尾張守山 

兄信光と甥信長公に助け出される人生。

甥秀孝を家臣が誤射して殺し、市姫と娘たちを保護していたことで有名。


【庶子?】

津田掃部頭信正

楽田城主


不明な人物で、楽田城は元々は岩倉織田氏の持ち城だったので、年代的に信長公の兄弟なら考えられるが、信秀の弟説は薄いと思われる。


また信長公と、村井氏に下げ渡された塙氏娘(ばん直之姉妹)との間の長子説もあるが、当時の風俗慣習を考えると、信長公の子供であることが証明できない関係性であったことが分かる。

詳細は公の息子の名簿へ。



娘(信長公のおばさんたち)


【長女】

櫻井松平清定室

生年 永正15年(1518)頃?

没年 

享年 

母  正室いぬゐ(信秀、信光の妹と伝わる)

夫  松平内膳正清定(櫻井松平家、当主松平信定嫡男)(織櫻同盟の為の婚姻、兄織田信光との重縁)

婚姻 大永6年(1526年)頃

子供 内膳正家次(永禄元年(1558)品野城戦で織田軍と戦う)

居城 三河櫻井、尾張品野、三河岡崎、尾張守山



【二女】

岩倉殿、秋悦院

生年 大永3年(1522)前後?

没年 不詳 (1629)?

享年 

母  側室 月静院(天文14年10月24日(1545,11/28)

夫  織田伊勢守信安 正室として嫁ぐ

(上尾張守護代家)(?〜天正19年(1591)10月24日諸説あり)

下尾張守護代清須織田氏の傍流、或いは傍流の出の母を持つ次男以下の生まれ。

生年は1519〜25年頃(守護代就任時数18〜13歳)


尾張守護斯波氏傍流に、父親の代より近習として出仕。

天文6年(1537)上尾張守護代就任。弘治2年(1556)家督を家臣たちに迫られ嫡男信賢に譲った。その後に勝幡織田氏の後押しを受けて彼と争う。しかし敗れて岩倉を追い出され、信長公所領美濃白金に住まう。

安土城総見寺の二代目住職。

通説とは違い、勝幡織田氏との同盟関係は最後まで維持し、終生信長派だったと思われる。

(詳細は「上尾張守護代 織田信安」)


婚姻 天文6年(1537)

子供 伊勢守信賢(嫡男)、因幡守信家(永禄12年、前田利家元服時の烏帽子親を引き受けて、家の偏諱を与えると伝わるが、年代的に合わない)新十郎正盛(徳川幕府に家を存続させる)、剛可正仲(安土城下総見寺開山、初代住職)、女子二人

居城 岩倉城 白金 安土



【三女】(末娘という説もある)

艶姫

生年 

没年 天正3年11月12日(1575年)処刑 

享年 

母  不詳

夫  遠山左衛門尉景前

婚姻 天文9年(1540年)以降 死別

子供 遠山家左衛門尉景任、苗木左近助直影(正室信秀娘)織田勝長(養継嗣、信長息子)


夫  武田氏家臣秋山善右衛門虎繁

婚姻  再嫁 元亀4年(1573)2月下旬


別名 於つやの方、岩村殿、岩村御前、修理夫人、於なおの方

城  美濃岩村城(城主)


 夫景前は弘治元年(1555)死亡、嫡男景任が、元亀3年(1572)8月14日継嗣が無いまま死亡。

勝幡織田氏としては、美濃と甲斐との狭間に位置する遠山との縁を繋ぐ必要があった為、艶姫を戻させず、養継嗣、坊丸(信長公息子御坊、織田勝長)を送り込む。坊丸が幼かった為に、艶が後見として女城主となる。

しかし、武田勢の猛攻に遭い、信廣が援軍に駆けつけるが、落城。遠山氏は武田方に降り、武田家家臣秋山虎繁に再嫁。坊丸を武田家に送る。

これを織田家への裏切りと見られ、のちに処刑される。磔と伝わるが、信長公に呼ばれ、斬られたともいう。



【四女】

長栄寺殿

生年 

没年 

享年 

母  側室か

夫 牧長義 継室

父は斯波14代当主斯波義統の弟津川義長。母は、斯波氏11代当主斯波義廉の四男牧左近義次の娘。この牧姓を名乗った。(家は継いでいない)

婚姻  

子供 牧与三右衛門長清(信秀の娘小林殿が嫁ぐ)長正。

彼らは、桶狭間の折、丹下砦の城将を務めた真木与十郎、宗十郎兄弟であるとされている。

城 尾張川村北城(前正室の父の城)、天文17年(1548)前津小林城築城


最初、尾張川村北城に住したが、天文17年、織田家の要請で、鎌倉街道の要所、小林に築城し移る。


川村北城は、後に信長公の姉妹、小幡殿が嫁ぐ、守山城南東に位置する城。そこから、まるで廃城になる末盛城の代わりのように、那古野城に城壁を連ねる場所に築かれている。

後に信長公の姉妹が嫡男の正室に入っている事から、家督争いに悩まされていた時代の信長公にとって、重要な一族だったことが分かる。


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