信長公の兄弟4 織田喜六郎秀孝


・五男、喜六郎秀孝

天文9〜10年(1540から41)生〜弘治元年6月26日(1555年7月24日)

母 側室

妻 不明


美形の家系である織田家でも、当時、随一の美貌の持ち主だったそうです。

太田牛一は、白粉を塗ったような色白の肌に、丹花たんかの花のような赤い唇、柔和な姿の容色美麗さは、言葉を尽くしても、語れないとしています。


the美少年で、美少年大好きの上杉謙信と出会えていれば、養子にしてもらったりして、乱世の世を揺るがす、とんでもない縁組になったかもしれません。


諱から考えると、身分の低い側室の腹ではないかと思われます。

秀孝は 八男と言われていますが、弘治元年(1555)、亡くなった時、「秀孝、十五、六ほど」、と『信長公記』には記されています。

正室の三男である信包の生年月日がわかっており、彼はこの時13歳(満で12)になります。

つまり、信包よりも歳上ということになります。


男児の場合、母親の身分で、扱いが上下しますので、八男というのは、それによるのかも知れませんね。


また、喜六郎秀孝と、次兄喜藏秀俊とが、名前が混同されている時があります。

通過儀礼をキッチリと行なった嫡男とは違い、嫡男でない子供たちは曖昧になりがちなので、確かなことではありませんが、例えば、喜六郎秀孝の元服と喜藏秀俊の改名が同じ時期で、この時の当主が「母が鍋だから、酌」の信長公なので、似た名前になって、後に記憶が混乱したということも考えられます。



 もし、父の居城で生まれ育ったのなら、生まれた時の城は那古野城。数えで5歳前後で古渡城へ移り、8歳を迎える頃に末盛城へ移ったことになります。


しかし、当時同じ城にいた上下の兄弟が嫡男候補たちで、自分だけがそうではないというのは、どうなんでしょうね。


 残っている史料から、彼の人間性などに迫ってみましょう。


当時の武家の息子としては、常識外れである、単騎で馬を走らせるという行動で、誤射されていますので、激しい性格だったのでしょうし、どこか鬱屈しているところがあったのかもしれません。


というのも、たまたまその日だけ、単騎で走らせていた可能性は、かなり低いと思うのです。


 秀孝が亡くなった時に、信勝が激怒していること、「信長公の弟」ではなく、「信勝の弟」との表現から、信勝が手元に置いていた弟と読めます。

すると、信勝が城主を務めている末盛城の、二郭か三郭あたりに住んでいたでしょうが、そこから一人で厩に行って、馬を引き出して、虎口を抜け、武家屋敷、町屋を抜け、城門を飛び出すわけです。


それは具体的にどういうことになるか、というと、最低でも、二人一組で常に側にいる小姓を撒いて、近くをウロウロしているはずの馬廻や奥女中の目を掻い潜り、同じ郭内に住む人々の目を引きつつ、馬番を無視し、口取りの小者だけを引き連れた姿で、郭の虎口を抜け、町屋や武家屋敷に住む人々の横を駆け抜けて、城門の左右に立っている門番たちの制止を振り切って出ていくことになります。


常習犯でなければ、すぐさま、秀孝の近習が追いかけると同時に、城主である信勝やその近習に連絡が行き、追手の信勝の家臣たちが走ることになります。

たまたまその日、何か衝撃的な事があり、衝動的に城を走り出て、信勝が「一人にしてやれ」と言ったとしても、だからこそ、近習たちが追いかけない筈がないと思います。


それに当時の厩と現代の厩とは全く別物です。

戦国期の武家の厩というのは、見たことのない方には、想像外の作りになっています。

東京国立博物館の「厩馬図」というのが、ネット上で見ることができますので、一度ググってください。


馬房の前には畳が敷かれ、そこで将棋だかを指している人がおられたりします。

何しろ馬は必需品にして、高級品ですから、とんでもなく大事にされていました。

だいたい厩番というのは下級職ではなく、結構上級の仕事で、常に馬廻あたりがワラワラと詰めている場所でもありました。


ですから、勝手に馬を曳き出して、単騎で秘密裏に出かけられるようなものでは無かったのです。


 秀孝が亡くなった場所は、「龍泉寺下 松川の渡し」だと書かれています。

庄内川の近くに、信勝が建てた軍事施設である「龍泉寺城」がありました。しかし、建立は秀孝が亡くなった翌年のことなので、当時は有りません。当時のことを思い出しつつ、太田牛一は書いたのでしょうね。

松川の渡しは、そこから下流に行ったところにある、現在松川橋になっている辺りにあったのではないかと思います。


守山城から歩いて30分ほど、末盛城からは、矢田川を渡り、守山城の横を通って一時間半ほどの道のりです。

馬の速度を考えると、末盛城から、駈歩で20〜30分程度の場所です。


例えば、厠の後ろの扉から抜け出した秀孝が、郭の虎口に辿り着くまでに、誰にも会わないということはまず有りえなく、少なくとも厩番、虎口の門番には見咎められた筈で、それから門番なり、近習が追いかければ、城の外の門番が止めるでしょうし、飛び出ても、追い付くことが不可能な距離でもなさそうです。

亡くなった時に、周囲に近習がいなかったのは、どこか、諦めムードだったのかも知れません。


しかし、昔からそのようなやんちゃなタイプであれば、同じ家のことですから、他の城の方々にも話が行っていて、端武者と間違える前に、「もしかして」となるのではないでしょうか。

当時は身分によって、着る物が決まっていましたし、別段、鎧兜姿ではないでしょうから、注意して見れば、それなりの身分の者だと分かる筈です。


 その情景を書いておきましょう。

 「若侍ども川狩に打ち入り居ますところを 勘十郎殿御舎弟喜六郎殿 馬一騎にて御通り候ところを 馬鹿者乗り打ちを仕り候と申し候て 州賀才蔵と申す者 弓を追っ取り 矢を射掛け候へば 」矢が当たって落馬して、顔を見に行けば、喜六郎だったので驚き、恐れおののいた守山城主孫十郎は蓄電した。

と書いてあります。


この時に、秀孝から一言挨拶をするなり、恐らく呼びかけがあったでしょうから、それに応えていれば、お互い顔見知りのようですから、回避できたでしょう。


十五、六ということは、当時ではすでに成人です。ルイス・フロイスを始め、宣教師たちが、当時の日本人の子供を見て、まるで老人のように思慮深く、大人であると感想を述べていることから、現代に比べ、精神的な成熟というのは、早かったものと思われます。

つまり、身分のあるものが、単騎で走らせる事の是非、川狩や鷹狩などの最中に無遠慮に横切る事の是非を、秀孝自身は知っていたはずです。


そうなると、ごく近々、何らかの大きな不満、ストレスを抱えており、その時も爆発的なマイナスの思いに駆られていたのではないかということになります。



 その当時、秀孝は元服は終わって、身の振り方が決まる年頃です。そして、弟の信包の元服の時期になります。


この辺りに、明らかに信長公、信勝、信包という嫡男たちと、側室の子である自分との扱いの差を感じ、頭で理解はできるものの、感情が収まらなかったかもしれません。


嫡男たちと側室の子の格差が読み取れる例があります。


 天文13年(1544)11月、禁裏の御礼の勅使として、連歌師の宗牧が那古野城に下向してきます。この時、元服前の吉法師少年たちの姿が『東国紀行』に遺されています。

後の信長公の宿老、平手政秀が自ら、岩風呂、蒸し風呂を勧め、料理を運び、「息三郎 次郎、菊千代」が盃を運んできてくれたとあります。これは風呂饗応の儀式ですね。

なんだか、後年、信長公が子供たちと共に、膳を運んで饗したエピソードが、思い出されます。


「息 三郎」とは、勿論、当時、吉法師の三郎信長公です。この時、御歳11歳(満10歳)。2年後、と言っても、もう11月のことですから、1年少々後に控えた元服のことが話題になり、弾正忠家に伝わる、嫡男の「三郎」の名乗りを継ぐことが、宗牧達に披露され、『東国紀行』が編まれたのは、この翌年だそうですので、その元服のことを念頭に、三郎と書いたのかもしれませんね。

また普段は「弾正忠」「備後」と呼ばれる父、信秀ですが、通称は彼も三郎なので、息をつけておかねば、どちらのことか区別がつきません。


次に「次郎」と書かれているのは、信勝のことであるとされています。三郎の次の男子なので、次郎と書かれたのでしょうか。

彼は幼名が伝わっていませんが、武田信玄(幼名は太郎)の弟の幼名が「次郎」であり、幼名だった可能性も捨てきれません。もしかすれば、信勝は年子だったり、信長公と遜色が無いか、それを上回る体格だった為に、幼名を記すのにためらいがあったのかも知れません。信勝はこの時、数えで約10〜8歳です。


その後に「菊千代」と書かれています。これは明らかに幼名ですね。

これは当時1歳4ヶ月の三十郎信包ではないかとされています。

跡取り候補3人を披露し、弾正忠家の盤石さを誇示したのでしょう。


しかし、この時既に、5歳を迎えようとしている秀孝がいる筈ですが、彼のことは全く触れられていません。

このように、嫡男とそうでない者は、幼少期から格差があった訳です。



 また、彼が射殺された時に、信勝が非常に激怒して、すぐに攻め上っているところから、信勝の理性的ではない、強い感情を感じます。


一方、信長公も一報を受けた後、すぐさま清須より馬を守山城近くの矢田川まで急がせ、そこで信勝が軍を引き連れ、守山城に攻め込んで、町屋を焼いていると、犬飼氏からの報告を受けたようです。


この時期は、信長公と信勝の間に内紛を抱えている状況です。

それに絡んだ小競り合いが起ったのではないか、そのまま戦が勃発するかもしれないと予想されたでしょうから、普段、彼らに随行している近習たち以外に、ガーッと走って行っちゃったんでしょうね。


普段から朝晩に馬責めをしている、信長公と違って

「余仁の馬どもは飼いつめ候て 常に乗ること稀なるに依つて 究竟の名馬ども 三里の片道さへ運びかね 息を仕り候て 」途中で亡くなったと書いています。 


「松川の渡しにて、喜六郎様が!」

「なにぃ!」

ってんで、もう、その辺りにいた、吏僚たちまでが「それいけ!」みたいになっちゃった感じですね。

流石に小姓と馬廻たちは、「常に乗ること稀なる」では仕事になりませんし、朝晩の馬責めの時に、信長公を単騎で走らせるわけにはいきませんから、稀なるメンバーではないはずです。


 想像を逞しくすれば、時期的に、秀孝は、家臣たちの傀儡となって、兄信長公に謀叛を起こしている信勝を、苦々しく思っていたのかも知れません。


彼には、信勝、秀俊にはない、信長公、犬山信清などに通じる負けん気、覇気、またはリーダーとしての先見性というものが遺伝していた場合、その資質と立場の間の乖離というのは、城主である信勝が弱い性質だった時に、倍増したはずです。

例えどんなに優れていようと、生まれによって、扱いが違うというのは苦しいでしょう。理不尽さが、彼を突き動かしたかも知れません。


そうなると、周囲も、何となく持て余していた可能性があります。



 もう一つ思うことは、この時秀孝はどこへ行こうとしていたのかということです。


もし行先が分かっているのなら、末盛城の皆様の弛緩ぶりは説明が付きます。

これが敵方とかいうのなら問題ですが、例えばお坊さんで、いつも諭してくれるというのなら、近習たちのおっとりぶりも理解できます。


守山を過ぎ、庄内川を渡り、視線を地図上の上に伸ばすと、『信長公記』に出てくる天澤和尚の味鋺の天永寺があります。


江戸期のものになりますが、尾張名所絵図に庄内川の土手に盛り土した上に植樹された松並木が並び、その土手を抜けると、田畑を両側にした参道が続き、大きな寺社味鋺神社と天永寺が建ち並んでいます。


もしかすると、一人では抱えきれない苦しみに耐えかね、秀孝は馬を走らせており、川を越えれば後少しという状況で、周囲に気を配る余裕がなかったのかもしれません。




 信勝は、共住みの弟である秀孝を諌めたりして、行動を変えることが出来なかった、兄として、城主としての不甲斐なさがあったのかもしれません。

つまり、罪悪感の裏返し、自責の念、もしかすれば、秀孝と信長公への劣等感などの複雑な感情があった可能性も捨てられません。


のちに天下人となる非凡な兄と、自分より明らかに容色が優れ、父、兄の系列に属する大器である庶弟に挟まれた信勝の苦悩というものは、想像するに気の毒なものがあります。


 信長公は、秀孝の過失であるとして、兵を引いたのは、監督不行き届きの責を、信勝に問わない、優しさであると考えられます。

この時期の信長公の、信勝への譲歩は、天道という考え方を持ってしても、あまりあるものがあります。

しかし、その譲歩がまた、信勝には、信長公が自身の優位性を誇示しているように見え、腹立たしく思えたかも知れませんね。


 信長公の、続く家臣の馬が乗り潰され、死んでしまうような走らせ方は、本当に異常です。

信長公は、家臣が付いてこれていないことに気づき、川を渡れば守山城へ続く場所で、馬を休めて、馬の口を洗ってやり、家臣たちが追いつくのを待っていたようです。

大将が一人で、「敵地」に入ってはいけませんから。


そして、信勝の強い怒り。

それを考えると秀孝は、身分はありませんが、まさに信貞、信秀の血を受け継ぐ信長公に似た麒麟児であり、兄たちに愛され、未来を嘱望されていたのでしょう。


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