信長公の兄弟3 織田勘十郎信勝③


 気になるポイントとしては、自ら兵を率いて戦ったという記録がほぼないことです。

勿論、当時の風習に従い初陣をし、勝利を納めているはずです。しかし、その後信勝が大将として出陣したというものは、記録上はありません。

弟、秀孝が叔父の孫十郎信次の家臣に誤射された折、亡くなった場所までは行っていますが、守山城へは行っていません。

そして、ちょこちょこ、小さな戦いを今川家としているのですが、手勢を出しても、本人が出てきたという記述は今川文書には見られません。

兄と雌雄を決した稲生合戦ですら、出陣していません。

それから考えると、あまり戦はお好きでは無かったのかもしれません。しかしそれは武家、しかも城主として、どうなのでしょうか。


 鷹狩は武家の必須項目ですが、これに関して信勝は、非常にユニークなエピソードを持っています。

「愛知県史」というどえらく分厚くて内容は多岐に及び、その割には大変良心的な価格で手に入る資料集があるのですが、これの10巻目に「明叔慶浚等諸僧法語雑録」というのがあって、そこに信勝は百舌鳥を飼いならしており、百舌鳥による狩をし、非常に優れた腕前だったと、「天下布武」を提案したり、政秀寺の開山をされた沢彦宗恩の言葉が書かれています。


百舌鳥というのは、雀ほど小さな鳥ですが、早贄で有名な大変優れたハンターです。それを飼い慣らして狩りをさせるというのは、これは大変なセンスと忍耐力です。しかしそもそも鷹狩の目的というのは、基本的に軍の動かし方の練習と武家必須の饗応に使う食材の調達です。

そこを考えると、まるで職人肌の趣味人であり、武家の当主としてはなんだか微妙な気がします。


 それから確認しておきたい点が、一つあります。現在、信勝が推された理由として、折り目正しく優等生タイプだったという説が流布されています。

しかしそれは、法要の席で「着物を着て、大人しく座っていたこと」から来ています。

よくよく考えてみれば、元服前の少年ですら「老人のように落ち着いている」と宣教師たちを驚かせている当時、現在でいえば18歳から23歳位の人が喪服を着て座っていることをもって、「優等生だ」というでしょうか。

更に兄が抹香投げをしたときに、何か反応をした形跡がないことも不可解です。本当に優等生な出来の良い武家の息子なら、意見をするなり、客人に謝罪をするなりし、何か逸話が残っていてもおかしくないはずです。通説によれば、多くの客人いたはずですしね。


それを踏まえて振り返った時、信秀はどういう評価を信勝へ持っていたのか。


『信長公記』を見ると、2人の父である信秀が、信長公に那古野城を譲る手筈をつけたのは、数えで11を迎える頃でした。そこから信長公は城主として、政務に参加して領国経営を始めています。その息子の信忠も10〜13歳前後で、柴田勝家や佐久間信盛の助けを借りながらですが、政務に参画しています。


信長公に跡目を継がせることは確定していなかったという説がありますが、それならば15歳ほどの信勝が、署名をした白紙の料紙を兄に託さないといけないほど、実務能力を持ち合わせてなかったのは不思議です。

また彼は兄に家臣団を整えてもらい、城を譲られていることから、信秀はそういったことにも手をつけていなかったことがわかります。


信秀は信勝に対して、むしろあまり期待はできないという判断を下していたのではないかと考えられますし、土田御前が末盛にそのままいたのは、そういうことではないのか。


戦国武将、大名家に生まれたからといって、全員、実務能力、経営能力、リーダー的気質やらを持ち合わせているとは限りません。


 織田家の嫡男は、信長公(天文3)、信勝(天文5?)、信包(天文12)で、天文20年前後に殿として推戴できるのは信勝しかいませんでした。つまり、林秀貞にとって、苦渋の選択だったかもしれません。


問題の原点になる、「うつけ」の姿については、拙作『深読み信長公記』をご覧ください。


 それでは、先ほどの不可解な信勝の最期の話に戻ります。拙作を読んでくださってる方はご存知の通り、この頃の文章は漢詩や和歌、物語などを下地にし、キーワードでそれを示唆するという文化がありました。

ですから「河尻」「螺鈿(青貝)」「詐病」「兄弟争い」といえば、源頼朝、義経兄弟が浮かびます。(義経は螺鈿の見事な鞍を持っていた)義経の最期はご存じの通りです。


また「北屋蔵、天主次の間」。屋蔵は「やぐら」ですが、鎌倉中期あたりから上流武家の間で造られていた岩を掘って作った墓を「やぐら」と呼びます。そして「北」「やぐら」といえば、『太平記』の「条高時腹切り」です。

元弘3年(1333)新田軍に攻められた鎌倉幕府第14代執権北条高時は、菩提寺である東勝寺に籠城するも、追い詰められて自刃しています。

その自刃場所と伝わるのが「やぐら」です。


そして「天主」です。

牛一は『信長公記』の中で、「天主」という言葉を何度か使っています。言葉としては、主郭並びにそこに建つ階層のある御座所を指しているようで、そして次の間というのは「主君の居室に付随した、従者が控える部屋」になるかと思います。

が、安土城天主以外で、「天主」を使っている場面には、ある共通点があります。見ていきましょう。



「家康公岡崎の御城へ御引取りの事」

これは信勝の死についての箇所になります。

「清洲北矢蔵、次の間にて、弘治四年戊午二日、、青貝に仰つけられ、御生害なされ候」


「堂洞の取手攻めらる々のこと」

中濃三城盟約が結ばれていたにも関わらず、佐藤忠能は信長公に内応。堂洞城を8月28日織田軍が攻めました。

「二の丸を焼き崩し候へば、構へ取り入り候を」「与兵衛構へ乗り入り」

追い詰められた城主夫妻はお互い差し違え、亡くなりました。


「志賀御陣の事」

「御へ御上り候て、二十一日、織田彦七御腹めされ、是非なき題目なり」

尾張、伊勢長島一向一揆に攻められ、追い詰められた信長公の弟彦七郎信興は、六日の籠城の末、切腹して果てました。


「阿閉謀叛の事」

四日 信長 御上洛」した処、三好義継が家臣達に謀反を起こされ、佐久間信盛を引き入れて「の下まで攻め込み候のところ、叶ひがたくおぼしめし」、追い詰められた義継は自刃しました。


そう。信勝のそれを除けば、全て城主自刃の場面です。


 また『信長公記』では、突然信長公の直轄地だとして篠木荘の話が出ていましたが、その篠木荘は執権北条貞時が康安2年(1362)に寄進したもので、その貞時はやぐらで自刃した高時の父になります。


『太平記』によると、貞時は高時が3歳の頃から執務に励むことが無くなり、9歳の折に亡くなっていますが、高時が趣味に耽り政務に興味を持たなかったのはそのせいである(当時父に教育の責任があった)と書かれています。


信勝の出陣せず趣味に走った姿は、病に倒れた信秀の姿の映しであると考えられていたのでしょうか。

晩年、信秀を那古野に引き取ったのは、信勝が「城主」として、振る舞えるようになるように、そういう影響を取り除き、また怨霊や生霊の影響を遮断するためかもしれません。


更には高時は執権の実権を握っておらず、政治的リーダーとしての立場を取ることを求められていなかったそうです。

信勝は傀儡として動かされていたということを、示唆しているのでしょうか。


 これらを見て行った時、稲生合戦の後に突如描かれている、異母兄である信広の度重なる謀反とは、稲生合戦以前のある時期から信勝に見切りをつけた林らの次策だったとも考えられます。

つまり斎藤義龍、岩倉織田氏などは、信勝ではなく、林と信広に結びついていたのではないでしょうか。

そもそも稲生合戦は、本当に信長公対信勝だったのか。信勝が亡くなったのは、本当に弘治4年なのか。

このあたりは稿を改め、見ていきたいポイントです。


そして用済みになった信勝は、義経のように推戴していた家臣に裏切られ、追い詰められ、自刃したのかもしれません。


また正室高島局も、その父親の和田備前も、若衆とされている津々木蔵人も、そもそもこちらもどこのどなたかも分からず、どうなったか書かれていないのも意味深です。


『吾妻鑑』で、それらしいものを見てみましょうか。これはあくまでオマケとして、捉えてくださいね。

「高島局」ですが、都から逃げ落ちる義経が暫し身を隠したと言われる「義経隠れ岩」が、近江国高島郡にあります。

また蔵人といえば、その近江出身の源行家。彼の受領名は「備前守」です。彼の長兄は源義朝(正室千秋家娘由良姫。頼朝、義経の父)で、当初頼朝に挙兵を促しましたが、途中から対立して義経と結び、逃げ落ちた処を捕縛され斬首されます。

「和田氏」も北条氏と対立しつつ、頼朝の三代を支えた和田義盛。

「つづき」なら『古今著聞集』に聞く、源平合戦で捕らえられ、頼朝に馬の名人故に召し抱えられた都筑平太経家ですか。これと似た経歴を持っている方が、織田家の家臣におられるかもしれません。


どうですかね。皆様ならどう組み立てますか?




 信長公は自らの長男に「勘九郎信重」と名づけています。自分を裏切り、とんでもない目に遭わせたはずの弟「勘重郎信勝」と大変よく似ていると思いませんか。


林秀貞あらずば信勝は、もう一人の嫡男信包が成長した暁には、父或いは兄の城の二郭辺りに住み、百舌鳥の狩を客人に披露しつつ、趣味人としてそれなりに幸せに暮らし得たかもしれない。那古野では共に遊んだ弟を、哀れに思う気持ちがあったのでしょうか。


 そして。

もし高時、義経と同じ最期を示唆しているのなら、牛一がそれを伏した理由は、信勝の本当の最期のあり様は、兄の最期に酷似して、当時の考え方では恐ろしく不吉であったから……ということになりましょう。

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