信長公の兄弟3 織田勘十郎信勝②

また彼女の呼び名が「高島局」というのも変わっています。武家の室は当時、「御前」(土田御前)から「殿」(鷺山殿)に代わっている頃で、毛利元就の嫡男隆元に嫁いだ大内義隆の養女の岡崎局とかおられますが、一般的に「局」になるのはもう少し後になります。

幕府に仕えていた女性は「局」(今参局、8代将軍足利義政の乳母)と呼ばれていたようですが、何か事情があるのでしょうか。彼女の存在は非常に謎です。

斯波氏は当時大和守家と対立し、信長派だったので斯波氏はあり得ませんし、もしかすれば、和田氏娘を織田信友の養女にして嫁がせたのかもしれませんが、既に坂井大膳の傀儡となっていた大和守家にそこまでの価値があったかどうか。


 側室の春田刑部娘とは、尾張海部の方になります。この春田氏は杜家で、近くに今川や松平に近い戸田氏の城があることから、そこを強化したと考えられます。当時、信長公と緩やかな和平を結んでいたはずの今川では、「織田弾正」と小競り合いをしていた記録が残っていますので、そちらの対策かもしれません。

春田家は、信勝に付いていたということになるのでしょう。


 天文24年、弘治元年(1555、10月23日改元)はことの多い年でした。4月に兄信長公が尾張守護斯波氏を立て、主家に当たる尾張守護代織田信友を討ち、斯波氏と共に清須に入城を果たします。那古野城は信長派の叔父信光が入り、信光の居城だった守山城には同じく信長派の叔父信次が入ります。

これで信長公は「下尾張守護代」という立場になったと、周囲には感じられたことでしょう。


 清洲は大変な巨城でした。守護屋敷と守護代屋敷が城内を流れる五条川を挟むように建っていたとされています。守護所である清洲守護屋敷は、何しろ足利氏元嫡流の斯波氏の宗家武衛様の居城ですから、格式のある寝殿造だったのではないかと思われます。あの中門廊があって、南に庭があってというやつですね。


「武衛様国主と崇め申され、清洲の城渡し進せられ、信長は北屋蔵へ御隠居候なり」(『信長公記』)

この常屋敷を斯波岩龍丸(義銀)に譲って、入らせた訳ですね。

「北屋蔵へ御隠居候」

というのは非常に面白い言い回しですね。


『信長公記』によると、当時の清洲城には南北に屋蔵(矢くら)が建っています。守護代屋敷じゃなくて、そこに信長公が入ったと。

ここでは矢くらは階層建ての高楼を指し、後に琵琶湖沿いの安土城の天主に住まわれますが、結構水の見える高楼暮らしが気に入ったのかもしれませんね。

また南矢くらに関しては、漢字が一定していませんが、北に関しては「屋蔵」と統一しているのも見どころです。


しかし奥様の鷺山殿やそろそろ入っててもおかしくない側室の皆様は、どこに入ったんでしょう?安土では二郭に奥御殿が建ってたようですが……

通常、奥御殿は基本主人の居室のちょっとだけ離れた場所で、御殿への直接の入り口は一個という作りなんですけども、そうなると子作り真っ盛りの時期ですし、やはり櫓住まいですかね?奥の都合上、上の方とも考えられますが、厠は一階なんで不便そうですね。急な階段なのに大渋滞。となるとトイレはオマルですかね?

湯上がりの正室とこれからお風呂の側室が階段あたりで出会ったりして、そこへ家臣が通りかかったりして、そしてそこに信長公が!!とかもう大変です。あー、色々心配ですね。


 まぁそれは別のところで考えるとして、とりあえず、「主人」の住う部分に斯波氏が入り、北屋蔵に信長公が入ったと。

これは弱冠二十歳を越えて一人前の武者となった信長公が、まだ未成年の斯波岩龍丸の「後見」という立場に立ったのでしょう。


しかも「隠居」ですから、織田「弾正忠」という官途を捨てた訳で、この直後に信勝が「弾正忠」を名乗っていますので、辻褄があいます。


「大和守」を公が一度でも名乗っていると何かと整理が付きますが、当時の文書が丸ッと残ってないので何ともですね。まぁ隠居なので、少しひいた感じを世間に見せたのでしょうし、岩倉織田氏を襲いやすくなります。


しかしそれは周囲から見ると、信長公を襲うと斯波氏に弓を引いているように見えますから、尾張関係の人ですと、形式上は「謀反」になりますよ、天道に背きますよということになります。


 6月になると共住していた弟秀孝が、叔父の守山城主信次の家臣に誤射されて亡くなります。信勝は弾正忠家当主であるはずの兄の命を聞かず、守山城を攻めさせます。

守山城は交通の要所で、ここは下尾張平定の重要な拠点だったことは見逃せません。結局、信長派である佐久間信盛の進言で守山城は開城、信長派の秀俊が城主になります。


 また美濃では昨年より、兄信長の後ろ盾の斎藤道三の権力が揺らいでいました。突如、道三から義龍へ当主が変わり、道三は出家して鷺山へ移っていましたが、この年に義龍は「病気である」と弟たちを稲葉山城に呼び寄せ殺害し、道三に対して挙兵しました。

この詐病呼び寄せ殺害は、信勝の最期と同じで、首を捻りたくなるポイントですね。


この年信勝は20歳(満19)前後で、この弘治元年(1555)から永禄元年(1558)頃(弘治4年(1558)2月28日改元)嫡男信澄(坊丸)が生まれたと言われています。

坊丸が生まれるのは、信勝が亡くなる永禄元年説もありますが、側室が入っていることを考えますと、弘治元年に信澄が産まれて、直ぐに側室を入れて信糺、信兼が生まれたと考えた方が、すんなりいきそうです。


他に系図に残っている子供もいるのですが、信勝の名前が「信行」と書いてあるものもある為、定かなものではありません。

信勝の婚姻は天文23年(1554)か天文24年頃であれば、永禄元年11月2日(57年12月11日)死亡ですから、子供が生まれるのは天文24年、弘治元年(55)から永禄2年(1559)夏あたりまでの4年間になります。


 弘治2年(1556)4月、斎藤道三が長良川で敗死すると、それを待っていたかのように、8月、稲生原合戦が起きますが、守山の戦に続いてここでも、信勝の出陣はありませんでした。

結果、柴田勝家は敵前逃亡、林秀貞は勢いに乗った信長軍に圧されて、信勝は敗北を期します。

ご存知のように母親の土田御前が中に入り、取りなしをすることで赦されました。また林秀貞も切腹を申し出ますが、許されています。


 しかし2年後『信長公記』によりますと

「龍泉寺を城に御拵へなされ。上郡岩倉伊勢守と仰せ合わされ、信長の御台所入り篠木三郷、能き知行にて候。是れを押領候はんとて御巧みにて候。勘十郎殿若衆に津々木蔵人とてこれあり。御家中の覚えの侍ども皆津々木に付けられ候。勝ちに乗つて奢り、柴田権六を蔑如に持ち扱ひ候。柴田無念に存じ、上総介殿へ又御謀反おぼしめし立つ由申し上げられ候。是れより信長作病を御構へにて、一切面へ御出でなし。御兄弟の儀に候間、勘十郎殿御見舞い候然るべしと、御袋様並びに柴田権六異見申すに付いて、清洲へ御見舞に御出で。清洲北矢蔵、天主次の間にて

弘治四年戊午霜月二日

河尻、青貝に仰つけられ、御生害なされ候」


 龍泉寺城の築城は弘治2年(1556)なので、ちょっと前の話になりますね。また岩倉織田氏は長良川合戦の手合に信長公が出陣すると、清須の城下に火を放つなど敵対をしていました。これと以前から信勝は結びついていましたので、稲生合戦の後からという訳ではなさげです。


 篠木三郷とは春日井郡篠木荘で、尾張旭市に「三郷」という地名が残っています。長久手の上のあたりで、この辺りが当時の信長公の蔵入り、直轄地だったようです。篠木荘は鎌倉時代に執権より円覚寺に寄進した土地だったのですが、幕府の崩壊により、いろいろな方が横領しています。基本的に大名の蔵入地は諸経費のために、新しく手に入った土地に設定するケースが多いので、天文23年(1554)頃斯波義銀の後見に付くかした折、あるいは織田大和守からか取り上げ、この当時ここを蔵入地にしていたのかもしれません。


(以下は深読み仕様です)


 どうも再度の謀反の事情に関して、太田牛一は『信長公記』に稲生合戦までにあったことを書いているのではないかと考えられます。


大体男色で家臣のバランスが崩れたという話も謀反の常套句ですし、勝家が書いてあるような待遇に不満を持って裏切ったとは考えにくいです。(拙作「柴田勝家」参照)」

また亡くなった経緯が、あまりにも義龍とその弟たちとそっくりすぎるほどそっくりで不審です。


 また「河尻」という家臣はおられましたが、「青貝」という家臣はおられません。この下りは、何度も斬られて死んでいる「赤川氏」(小姓出奔)同様、微妙です。


それから「天主」です。

「天主」は通常安土城で出てくる、後の「天守閣」の名称とされています。それでは中世半ばに建った清洲城にありそうにないですし、「天主次の間」ってなんだ?ということになります。


 さて上記の謎は一旦置いて、信勝の性格についての考察に入ります。

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