信長公の兄弟3 織田勘十郎信勝①

(注意)素人の私見です。エンタメとしてご覧ください。また2頁目の後半から、特に3頁目は、「深読」仕様で、史料をあげて解説はしていますが、通説とかなり違う内容になっております。お気をつけ下さい。


・四男、勘十郎信勝(嫡男、次男)

天文4〜8年(1535年から1539)〜永禄元年11月2日(1557年12月11日)

享年、数19〜23歳

母 正室(継室)土田御前

妻 正室 和田備前娘、側室 春田刑部娘

子 嫡男坊丸(織田信澄)、信糺のぶただ、信兼

別名 弾正忠逹成、武蔵守信成


 信長公との家督争いから考えると3歳違いまでが限界とされ、天文6年(1537)生という説が現在主流です。信行とも言われますが、当時の文書で信行名義のものは発見されていません。


 では、現在残っている信勝の記録を追っていきましょう。

信勝の書状の初出は、天文20年(1551)9月20日勘十郎信勝名で出されたものになります。

祐筆は父信秀の元近習になる方で信長公の祐筆の筆跡と同じだそうです。

この時の署名から元服が終わっていることが分かります。

また居城が違う兄信長公と同じ祐筆ということは、当時城主としての経営能力に問題がある場合、署名をした白紙を兄弟に渡しておくという風習があり、一つにはこの頃の信勝はまだ未熟であるとされていたということになるでしょうか。


この頃、信勝は数えで15歳前後になります。

兄の信長公は数えで11歳頃から執務を始め、13歳の頃から独り立ちした城主として経営に着手していますが、信長公はフロイスたちの記録から見るに、知的好奇心が高く、かなり頭の良い方のようですから、信勝の方が普通か、政治に興味を示さないタイプだったのかもしれませんね。

更に父親の祐筆が末盛から那古野へ移動していることから、勝幡織田氏の政所が那古野にあったことが分かります。


天文22年5月3日 勘四郎信勝名で美濃白山社に仏像光背を寄進。「勘四郎」は誤記であろうと言われています。(長滝寺真鏡)

6月 熱田社に菅原道眞画像を奉納 

10月 勘十郎信勝名義

天文23年11月22日 勘重郎達成名で桂甫広済寺(尾張徇行記)

12月 勘十郎達成名 熱田東加藤家宛

天文24年5月 織田弾正忠達成(正確には織田霜台御史達成)名(平手政秀の菩提寺である政秀寺宛)

弘治3年11月(1557)武蔵守信成名義


天文22年5月3日 勘四郎信勝名で美濃白山社に仏像光背を寄進していることから、白山信仰をしていたと言われています。

天文14年(1545)信秀は白山の加賀禅頂社御汝峰大巳貴社殿の復興を発願し、願人となっています。では信秀が白山信仰をしていたかというと、当時のことですからもちろん信仰していた可能性もありますが、こういった宗教施設の支援をすることで人心掌握を目論んだ部分もあると思われます。

それを受けての寄進でしょうから、信勝自身が帰依をしていたか、その真偽はわかりません。


天文23年(1554)12月の熱田東加藤家宛の宛行状を以て、弾正忠家の支配領域を分け、別家を立てたと言われています。

当時東加藤家の後見を西加藤家の全朔が行っており、熱田の主である千秋家、また津島に移動はないようですので、経済的事情から一部権限を譲って貰った感じかもしれません。

尚、信長公と友好関係にある斎藤家では「家が治らないこと」と同じ家と見做し、潜在的に敵対をしている清須織田氏、今川家では、別家と見做していた書状が残っています。

「勘重郎達成」と大和守家(清須織田氏)に寄せたと言われていますが、当時の守護代は織田信友です。しかし信友にとって弾正忠家の弱体化はありがたいことですから、当然、信勝派です。


天文24年になると受領名弾正忠達成の署名が出てきます。

正式には、通称は基本的に「若者」「年少者」が使うものであり、「大人」は「上総介」「備後守」と受領名を使ったという説があります。

当時は武者として一人前とされるのが、「弱冠」で数二十歳を指します。

確かに信長公も天文21年(1552)12月8日付けの判物までは「三郎」を使っています。

もし、その説があっていれば、信長公が数えで二十歳になる天文22年(1553)正月あたりに変わったことでしょうが、残念なことに、天文22年正月から天文24年(1555)2月までの文書が発見されていません。

残っているもので言えば、天文24年2月山口教継の領地を没収することに関する文書で、上総介を使っています。

もしかすれば信勝は、この年に数えで二十歳を迎えた可能性があります。そうなると、信勝は天文5年(1536)生まれということになります。


天文5年生まれであれば、出生地は勝幡城。

翌年の天文6年(37)には、異母兄秀俊(信時)が犬山織田氏に入り、姉が上守護代の信安に嫁ぎ、更には父信秀が那古野今川氏を謀略を持って追い落とします。

天文7年(38)、改修を終えた那古野城に兄信長公と共に移り、更に天文14年(45)父や他の家族と共に古渡城へ移ったと思われます。


 兄信長公と共住みしたのは、約9年間ですが、那古野と古渡はさほど離れていない為、この頃は兄弟間で頻繁に行き来があったはずです。

というのも、家督を継ぐであろう嫡男の長男と他の兄弟の仲を良くすることは、家の安定、繁栄に繋がるので、このあたりは気を遣うのが普通です。

特に二人は嫡男であり、力を合わせて家を盛り立てていくべき関係です。特に嫡男の次男、三男というのは成長後、家督騒動に発展しないよう、出来る限り兄と仲睦まじく、兄を大事にするような教育を施されていたでしょうから、信勝もそれにそって教育されていたはずです。


さて、こうして信勝は発展、拡大していく弾正忠家の嫡男の第二候補として、兄信長公ともども、健やかに成長をしていっていたものと思われます。


しかし天文17年(1548)、父が病を得てから、雲行きが怪しくなっていきます。

今川と覇権を争っていた三河において、相次いで城を取られ、熱田の浜辺続きの大高城あたりまで今川軍が戦線を伸ばしてきました。


天文18年初頭(49)に熱田の近くの古渡城から、佐久間氏や柴田氏の居城に囲まれた末盛城へ移ります。

移るやいなや、次兄秀俊の犬山織田氏に攻められ、更には長兄信広が安城城(安祥城)で今川に捕らえられ、熱田にいた松平竹千代と交換になります。


弾正忠家を取り巻く情勢は、非常に緊迫しており、父の病も良くなく、厳しい状況が続きました。

この辺りの情勢の推論は、拙作「深読み信長公記」に書かせていただいています。

そちらでは、史料から脳梗塞を起こして半身不随になった信秀は、一年の療養の末に、道三娘との婚姻を機に信長公に家督を譲った。そしてその直後の闘いで、弾正忠家きっての平手政秀が大将となって、戦に挑み大敗を期し、更に天文21年4月の赤塚戦で勝てなかった(引き分け)ことが重なり、当時の常識から見、林秀貞の謀反が始まったとしました。

また信秀の子供の晩年の出産状況から、信秀は末盛から那古野へ移動したと推論しました。これにより那古野の負担は、生き霊、怨霊が跋扈していた当時、精神的なものを含め相当だったのではないかと考えられます。

これらの話し合いに関しては、当時の風習上、大殿の正室である土田御前も参加したことと思われます。


 残された末森城において、信勝は男児では一番年長であり、尚且つ正室の子です。この頃、弟が7人、妹は1人か2人、他に証人として召し出されていた、他家の子供達がいたかも知れません。


もし天文5年頃の生まれであれば、18〜19年頃(1549〜1550)に元服を執り行い、19〜20年頃(1550〜1551)初陣を飾ったことでしょう。

最初の文書は、初陣を済ませ政務に参加し始めたことで残っているのかもしれませんね。


信勝がいつ正室を娶ったか、記録に残っていません。

父である信秀は、天文21年3月3日(1552年3月27日)に亡くなったとされています。 葬儀は今とは違い大掛かりで、亡くなってからまず百日までは、非常に念の入ったもので、絶え間なく手間のかかる行事が続きます。更には一周忌、三周忌と続きます。

穢の象徴である死の行事を行いつつ、祝事はれの婚儀の支度というのは、当時的にはしない可能性が高いと思われます。

おそらく、翌年まで持ち越して一周忌、三周忌が終わった後の天文22年、23年頃に、改めて用意を整え、婚儀を執り行われたのではないかと思われます。


 また父の死後、信勝は兄信長公に家臣団を整えてもらい、末盛城を譲られますので、それまでは「城代」という立場で城を預かっていたことがわかります。

全てが一段落し城主となった信勝が、正室を入れたと考えた方が祝い事が続き整う感じです。


その婚儀を決め手配を指示をしたのは、信秀でしょうか、それとも信長公でしょうか。

信長公と土田御前が不仲であれば、土田御前が采配した可能性もあります。また柴田勝家たちが、清須織田氏に依頼したかもしれませんね。



彼の正室は和田氏娘になりますが、尾張の地元民に和田氏はおられません。


父信秀が亡くなるまでは、兄弟仲は悪かったようには伝わっていません。少なくとも天文21年までは、実弟である信勝は信長公時代には「御一門衆筆頭」になる予定でした。


当時の織田家の政策を見ると、信長公の婚姻で美濃との関係が安定した訳ですから、信勝には今川の対策の為に、信秀の弟である同じく嫡男信光のように、三河方面の国衆、あるいは伊勢方面へ手を伸ばしてもおかしくありません。

しかし三河和田氏にしても、伊勢和田氏にしても、この家督争いの折に兵を出した形跡はありません。


強いていうならば、御器所佐久間氏の元は和田氏、犬山織田氏の重臣和田氏になりますが、嫡男や独立した武将家の当主の正室に相応しいのか微妙です

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