信長公の兄弟2 織田喜蔵秀俊(訂正、追記)
・次男 喜蔵秀俊
大永5~天文2年(1525〜33)出生。弘治2年6月(1556)没
母、不詳
妻、犬山織田家時代
正室(岩倉織田氏娘、或いは木之下織田氏娘)側室(生駒氏娘)
守山織田家時代
継室、荒尾氏娘、側室、長谷川氏娘
子、娘
別名 安房守 信時 (織田六郎三郎信時)
「織田信時は信秀の六男で、守山城主になった」と言われています。
ところが、『織田信時』名義の文書はなく、更に守山城主としての史料はありません。
『織田秀俊』が弘治元年(1555)に、守山城主として発給した安堵状があることから、秀俊=信時であろうと言われています。
すると五男の信包が天文12年(1543)生まれなので、弘治2年(1556)に亡くなった秀俊は、12,3歳で城主となり正室を娶り既に娘がいることになります。
そこで谷口克弘氏は「信長の兄」と推察しています。
また信長公記に、秀俊は『信廣の弟』と書かれています。
これは同母ではなく、同じく「相続権を持たない」という意味合いかもしれません。
信廣の母が正室、下尾張守護代織田大和守娘であれば、秀俊の母は同じく正室、或いは側室の可能性もあります。
信廣の母が侍女であれば、大永5年(1525)までの生まれなら侍女。
大永6年(1526)〜天文元年(1532)の間の生まれなら、正室の可能性があり、信秀が数えで19になる大永8年(1527)以降の生まれなら側室もあり得ます。
秀俊に関して遺されている資料が少なく、彼の実像に迫るのは難しいのですが、いくつかヒントがあります。
太田牛一は、秀俊のことを「賢き人」と評していますが、賢さを感じさせる逸話はありません。わざわざ牛一が、賢いと言った理由は何なのでしょう。
また秀俊には「織田信康の養子に入った」という話が残っています。
信康とは、誰??
信康とは、信貞の次男で信秀の実弟になります。
信廣の項で申し上げた通り、信貞は信秀に家督を譲ると信康たちを連れ、美濃近くの犬山の方へ引っ越しました。
10年後、信安が伊勢守家を継ぐと後見になり犬山城に入城しました。
これがおおよそ、天文6年(1537)から翌年あたりになります。
後見になると、弾正忠家から伊勢守家に主君が変わります。
そうなると、信貞や信康が当主の間は良いですが、その次になると血が遠くなり、弾正忠家の為にならない危険性があります。
事実、犬山織田氏は独自勢力になって敵対してきました。
先見性のある信貞、信秀がこの事態を、予見していない筈がありません。
信貞は秀俊を信康の養子とし、犬山織田氏への弾正忠家の支配力を保持しました。
弾正忠家が主筋であるという流れを作る為、すぐに幼い秀俊を犬山織田氏の当主として立てたと思います。
信廣が37年頃、岩倉織田氏の跡目争いに負けたことを受けての処置ならば、話が繋がります。
岩倉織田氏は尾張織田氏の「氏の長者」であり、ここに入り込むことが出来れば、血流的には弾正忠家が尾張織田氏のトップに立ち、「守護代」になります。
次に上手いこと斯波氏を追い落とせば、弾正忠家は尾張の支配者、「尾張守護」になれます。
しかし、新しい尾張織田氏の氏の長者に、斯波氏と仲の良い信安がなりました。
そこで信秀の妹を娶せ、犬山織田氏の次期当主には、信秀の息子を立て、嫡男信長公が育つと遊びに来させ、『岩倉織田氏包囲網』を作りました。
岩倉城で信安、信長公が共に猿楽を見たり、親しく遊んだといいますが、戦略的にも秀俊もいたのでしょう。
こうなると信廣は血流の正当性の為に、下守護代家の正室の子である可能性が高く、秀俊は侍女の子ということは無さそうです。
信貞は、早い時期に信廣を乳母もろとも連れて行き、自ら英才教育を施していたとすれば、信廣は信長公たちからすると、「叔父」のような立場になり、『兄弟ではなく、連枝のような扱い』も分かりますし、後年公家貴族たちと親しく出来たのも、分かります。
では何故エリートな信廣を、信康の養子にしなかったか、というと守護代家に入れるのを諦めていなかったのでしょう。
岩倉織田氏の後継者である信安は、斯波氏と共に在京生活が長かった為、「武編の嗜み更に無し」で、「日夜酔興す」状態でした。(『武功夜話』)
武門の氏長者として不適格な振る舞いですから、当時の常識である「天道」では、遅かれ早かれ、衰退するのは間違いありません。
まぁ、後に滅ぼされる岩倉家なので、オーバーに書いてると思われますが、後見の信貞、信康が諌める話は伝わらず、寧ろ助長させていたような気配があります。
つまり弾正忠家は信貞の時代から尾張統一を計っていた。
信長公の諱の「長」は、氏長者の「長」で、父や祖父たちの願いが籠っているという話の信憑性、というのか、並々ならぬ思いを感じます。
ただ、信貞は組織を破壊するのではなく、天道的に様式を整えつつ尾張織田氏を乗っ取る形での統一を目指していました。
しかし予定外の事態が起こります。信貞(1538没)、信康(1544〜1547没)が亡くなり、信秀が病を得ます。
これらによって、上尾張への支配力が落ちてしまいました。
信康の息子は、後に犬山鉄斎と名乗る信清です。戦ぶりを見ると、信秀、信長公にも通じる非常に勝気な強い性格です。
先代たちの路線を踏襲する当主秀俊をよしとせず、犬山織田氏を大名家とし、もしかすると「天下」を志していたかもしれません。
そうなると、信清を支持する勢力が一定数いてもおかしくありません。
信清は、天文18年(1549)信長公の直轄地を横領しようとして失敗します。
信長公は通説と違いこの時既に当主となっていたと考えられます。
(拙作『深読み信長公記』「家督の禅譲を深読む」)
https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054895940568/episodes/1177354054935026446
つまり信秀が隠居すると、新当主信長公の所領を襲って来ました。
更に天文21年(1552)信秀が亡くなると、岩倉織田氏から独立、独自勢力となります。
その後、伊勢守家と信長公が争い始める前(永禄元年〈1558〉)に和解をし、信長公の姉の犬山殿を正室に迎えます。
これは弾正忠家の家督争いである稲生合戦(1556)、信勝粛清(1557)からの流れで、弾正忠家を制した信長公の台頭、それと同盟を結ぶことにより、犬山織田氏の家格が上がることが見込んでのことでしょう。
更に岩倉織田氏が滅べば、実質斯波氏が弾正忠家に降っている今、信長公が尾張の主となります。その信長公を倒せば、犬山織田氏が尾張の主になります。機を見て敏な判断でしょう。
以上から秀俊を返したのは、1549年から1552年前後になります。
49年の後、『揉めた』『拗れた』と書いてありますから、弾正忠家、犬山、岩倉の三家の間で、何度も話し合いが持たれたことが分かります。
話し合いの末、信清は、52年以降に両織田家に「手切の一礼」を入れ、秀俊を返した方が天道的に整い、周囲から受け入れやすいと思われます。
さて、返された秀俊は、佐久間信盛の進言によって、弘治元年(1555)守山城主になります。
城主に推されているにも関わらず、帰郷後戦歴がないことが不思議です。
本陣に侍り、功を立てる隙がなかったのかもしれませんが、上記の記事により一つ仮定を立てることができます。
天文23年1月24日(1554,2.25)の村木砦の戦いにおける、信勝派と信長公の駆け引きは、非常に興味深いものです(後日公開)
今回の焦点は、信長公が自分の居城の留守居を、よその国主の斎藤道三に頼むという前代未聞の所行に出、宿老の林貞秀が怒って与力前田与十郎の居城荒子城(前田城)へ退去した点です。
しかしこの時、佐久間信盛は出陣していません。秀俊は信長公の意向を受け、信盛と、林たちを牽制していたのではないか。
秀俊が留守居をしていたという仮定は、後ほどするもう一つ推測と仮定に繋がっていきます。
当時、佐久間氏というのは、二流あり、幕府より尾張御器所を賜り、移住してきた御家人の佐久間一族と、その遠戚にあたる愛知郡山崎の佐久間氏で、佐久間信盛は後者になります。
佐久間家は『名古屋市史』によると、室町時代の有力武家三家「①那古野今川氏、②熱田千秋氏、③御器所佐久間氏」にあげており、その兵力は信長公を上回るものがありました。
佐久間一族は本家は当初末森城の信秀、傍流の信盛は那古野の信長公に付いていましたが、信秀が亡くなると、信勝には大学盛重の息子の一人、次右衞門重明を残し、大学盛重らは信長側に付きました。
佐久間信盛の正室は、譜代の家臣で、先ほど林が退去した先の前田城主、前田弥十郎の娘で、池田家、森寺家の親戚、滝川一益の母親の妹に当たります。
佐久間信盛は、当時婚姻関係により、信長公の中枢部との絆を深くし、弾正忠家の中で立場を強化している最中でした。
そうした時秀俊というのは有望な駒でしょうし、秀俊としても弾正忠家に於いて、単独で最大級の兵力を持つ佐久間一族の信盛が、バックに付くのは心強いでしょう。
またこのことから、秀俊は弾正忠家に戻ると父の居城ではなく、信長公の居城である那古野城、その後清須城に住んでいたのでしょう。
信長公の岩倉行きは戦略的上元服辺りまではあった筈ですし、他の兄弟たちが末森城に住んでいることから、信長公としても手元に気心の知れた兄がいるのは、勢力的にも心情的にもかなり+でしょう。
さてこの村木砦の戦より、林は反信長公の立場を明らかにし、信勝擁立の動きを激化していきます。
林の反発には、信長に付いた佐久間一族の勢力拡大への反発もあるかもしれませんね。
その後守護職斯波氏が、下尾張守護代織田氏に殺害され嫡男岩龍丸御一行様が、那古野城に逃げ込み、その報復戦の安食の戦(天文23年7月18日〈1554,8.10〉)が行われます。
その翌年信秀、信康の弟で、信長公を支え続けていた信光が、下尾張守護代を殺害し、信長公は清須へ入城します。
守山城は天文4年(1535)より、信光の居城でしたが、信長公が清須に入ると信光が那古野城に移りました。
そこで、萱津の戦いで下尾張守護代織田氏によって、ピーチ姫のように捕らえられ人質になり信長公に助け出された、信光の弟の孫十郎信次が天文24年4月20日(1555,5,10)に城主になりました。
しかし弘治元年6月26日(1555,7,14)に、家臣が誤って信長公の弟秀孝を射殺し遁走します。
この時信勝が攻め込んだ為、敵対勢力と化していた守山城付きの重臣坂井氏、角田氏を、佐久間信盛が説得して城を開かせています。
尾張坂井氏は守護代執事坂井大膳が本流になり、山崎坂井氏は傍流に当たります。
こうして城を無血で開かせた功労者である、信盛の推薦で秀俊が城主になります。
守山城は末盛城に近い三河よりの場所にあり、那古野城を挟んで清須の反対の位置にあります。
後に林を入れる那古野、末盛と反信長公の拠点を睨む重要な場所で、信勝派と信長公派はせめぎ合いをしていました。
さてもう一度、秀俊を掘り下げます。
天文18年(1549)の時点で、秀俊は年少でも10代後半、天文21年(1552)で20代前半で既に元服をしていたはずです。その時の名乗りが、織田信時。
弾正忠家に戻った後、二心なく信長公を支える気待ちを示す為に、秀俊と改名したのでしょう。
犬山では後継ですから、当然婚姻もしていた筈ですが、正室や子供の記録にありません。妻は実家に戻され、子供は家に付きますので、いたとしても犬山織田氏の家臣として育てられたでしょう。
※(追記)
信長公の嫡男たちを生んだ生駒氏娘の妹に、「織田六郎三郎室」という女性がいます。
この織田六郎三郎こそ、秀俊の犬山時代の通称ではないのかと考えました。
兄、信広は織田三郎五郎信広
秀俊が、織田六郎三郎信時でもおかしくないのではないかと思います。
生駒氏は系図によると、家長の祖父生駒加賀守豊政の時に、天文6年(1537)犬山城に入った信康に従ったと書かれています。
生駒氏は武家商人として、有力者になっていましたので、次期当主信時の正室に迎えたのかもしれませんし、一種の証人として側室に入れたのかもしれません。
子供がどうなったのかは分かりませんが、姫ならば反対に名前が残っていそうなので、男児がいたのかもしれません。
そこから考えると、信長公の生駒氏行きも道が見えてきます。
信忠が生まれた年は、弘治3年(1557)あたりと言われていますから、遅くとも秀俊の生前である弘治2年には、通いはじめています。
秀俊の奥様が姉妹でなかったとしても、犬山で有力国衆の生駒氏を、秀俊から勧められたのかも知れないですね。
戦略的にも、犬山の勢力を崩せますしね。
そういえば、妹の生駒氏娘は、小牧近所外山村に住んだと言います。
なんでそんなとこに?
もしかすると城持ちになった秀俊は、信長公が通うことで生駒氏が弾正忠家に転仕することを見込んで、元室を外に出させて、通っていたのかもしれませんし、また遠くから亡夫の死地を見、菩提を密かに弔っていたのかもしれません。
あるいは全く関係なくって、小牧で亡くなった姉と関係があるのかもしれませんね。
この辺りはまた考えてみたい点です。
守山と外山村は庄内川を越えて、おおよそ8〜10㎞程度の距離です。
弾正忠家での正室は、知多の荒尾氏娘です。
荒尾氏は室町幕府の御家人で、将軍の直轄地を任されていた家です。幕府の力が落ちていくに従って、在地領主となっていました。
この荒尾氏は弾正忠家の対今川戦略上、非常に重要な場所の領主です。
同じ頃、嫁取りの時期だった信勝ではなく、秀俊の元へ嫁いで来た点も見所です。
彼の死後、荒尾氏娘は信長公の乳兄弟池田恒興に再嫁します。
また秀俊との間に生まれた娘は、恒興の養女とし、後に公の連枝格で桶狭間の折には鷲津砦を護った、下守護織田氏傍流、飯尾茂助尚清に嫁いでいます。
更に長谷川氏娘を娶っています。長谷川氏については、詳細は後に公開しますが、次男は信秀のかなり有力な小姓だったのではないかと思われます。
銭供養の際に佐久間大学と共に信勝に
三男は信長公の小姓です。更にもう一人の妹は賜姓織田氏で、のちに偏諱を与えた菅谷長頼に娶せています。
この長谷川家に信長公が信を置いていたのは間違いなく、その姉妹を娶せることは、秀俊に対しての信長公の期待と親しみを感じさせます。
荒尾氏娘との婚姻は、家格的に守山城主になった頃でしょう。
長谷川氏娘とはそれよりも早い時期だと考えられます。
秀俊の逸話のハイライトは、離反の様子を見せる林秀貞と話し合う為に那古野城を訪れた信長公が、唯一、伴ったのがこの秀俊だったということです。
那古野城主孫三郎信光は、弘治元年11月26日(1556,1.7)、『甫庵信長記』によると、近習の坂井孫八郎により殺されました。
そこで、那古野城に城代として、林秀貞を出しました。
そこへ清須城主が守山城主を連れ、話し合いに出かけましたが、二人して単騎と伝わります。
まぁ、那古野城の主郭の屋敷に入ったのが二人で、近くに近習たちが侍ってたと思いますが……
この時代、身分ある武者が自らの近習を連れず、外出するというのは、あり得ない行動です。自分の城の厠に行く時でも、戸の前に小姓がいる時代で、しかも林が信長公暗殺を試みていた時期です。
現代の感覚で言えば、コンロに火を点けたまま鍵を掛けずに外出するとか、セキュリティ対策を全くしていないスマホで、Free wi-fiを使って悪徳業者に連絡するとか、安全バーを降ろさずジェットコースターに乗るとか、そんな感じになるのではないかと思います。
秀俊は犬山の経験から、信長公の立場を理解できたでしょう。
そこから、先程の推測、留守居を引き受け、敢えて武功は立てない、諱を変えるということで恭順の姿勢を示したのではないかと思われます。
家督争いで厳しい時期に、兄が寄り添う姿勢を見せるのは、信長公にとってどれほど心強かったでしょう。
まさに『賢い人』です。
しかし秀俊を同行させたのは、それだけではありません。
長谷川氏娘の母は越智氏です。
その越智の方は、林秀貞の実の姉妹になります。
秀俊を供に選んだのは、林にとって無碍に出来ない立場であり、客観的に問題を見ることが出来ると判断出来たからでしょう。
しかし残念ながら、この話し合いは決裂し、稲生合戦へ向かいます。
そんな信頼の厚い秀俊ですが、城主になった翌年には、小姓坂井孫平次との男色に溺れ、守山城付きの重臣、角田新五から裏切られ、自刃に追い込まれたと言います。
秀俊の小姓坂井孫平次ですが、彼は守山城の重臣坂井喜左衛門の息子で、彼を溺愛したために宿老間のバランスが崩れたとされています。
つまり小姓可愛さにお父さんまで依怙贔屓したということですね。
恨みを持った宿老の角田新五は、城の修理をしますと偽って同家の家臣丹羽氏勝の軍勢を守山に引き入れ、秀俊とともに坂井親子も殺害しています。
丹羽氏勝は丹羽長秀とは別系統で、今回説明は出来ませんが、非常に面白い動きをされる方です。
この城主殺害事件の後、信長公によって元の城主信次が探し出されて返り咲きます。
ところが角田の姿は守山になく末盛城に見出せます。
なんで末盛に行っちゃったんでしょうか?
守山にいればいいのに?
ここで提示したいのが、守山という重要な拠点をどちらが抑えるかという城取りが行われていたことです。
守山の重要性は弘治2年(1556)、信勝が守山の近くの川に
殿が家臣間のバランスを崩したので、殺した
殿が粗暴(無能、遊興に耽る)なので、殺した。
以上は誅殺、謀殺した側の主張ベスト2です。
つまり秀俊は男色に溺れて亡くなったのではなく、信勝たちの謀略の犠牲になったのではないかと言いたいわけです。
しかし、男色に溺れて家臣の間のバランスが崩したというのは、天道思想では当主を殺しても良いことになっているというのは興味深いことです。
坂井は佐久間信盛を通じ信長派
角田氏は林経由信勝派
素早く信長派の信次を城主に戻された信勝派は、次の手を打てず角田は末盛へ退去し、稲生合戦で松浦亀助に討ち取られました。
つまり
信長公は柔軟性があり、能力主義だったという話がありますが、膨張していく織田家に於いてそうせざるを得ない部分があり、根本的には尾張一国時代の家臣を重用していました。
特にこの弾圧されていた時代に味方していた家臣は、非常に大事にしています。
のちの林追放事件には、兄秀俊を奪われた恨みが関係しているかもしれませんね。
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