信長公の兄弟1 織田三郎五郎信廣


・長男 三郎五郎信廣

大永四年(1524年)生?〜天正二年九月二十九日(1574年10月13日)

母、不詳

正室、不詳

別名 津田大隅守信廣


信長公の兄として、公式に確認できているのは、信秀公の長男と言われている、三郎五郎信廣(広)です。


この方のことを「信長公記」では、『兄弟ではなく連枝(親戚)のような扱いだった』と表現がされています。


後述しますが、信廣の待遇は事情があり、長い間、立場が良いとは言えない状況でした。

しかし、不遇の状態の間に、家中で彼を推す声が上がったと残っていないのは、気の毒な気がします。


さて、尾張の虎、器用の仁と二つ名をもつ、信秀の長男の出生について、考察します。


まず、彼は信秀公の性的な訓練の最中に、出来た子供だったのかもしれません。


 信秀は、天文17年(1548)3月、対今川の最前線、安城城あんじょうじょう安祥城あんしょうじょう)に、信廣を城代として留め置き、自分は居城に帰っています。


当時の西三河の情勢は非常に厳しく、更に信秀は病を得ており、勢いに乗った今川軍に押されている状況でした。


その最前線に、息子を残したというのは、もちろん、政治上のこともあるでしょうが、一軍の将として、一定の信頼ができたからではないでしょうか。

この信秀が三河へ出陣した戦は、小豆坂の戦いと呼ばれますが、その戦いで、信廣は先鋒を務めたという話もあり、相手方にも睨みが効いたでしょう。


当時、信長公は数えで15歳(満13。もうすぐ14歳)。

このことから、信長公とは6〜10歳近く歳が離れていると考えられています。


 信長公が生まれた時、永正7年(1510)生まれ(諸説あり)の信秀公は、数えで25、満で24歳で、当時では、遅い嫡男誕生でした。


その10年前でも、信秀は数えで15で元服を終え、初陣を終えた頃です。

津島の大橋家へ、信秀の娘のおくらの方を娶せたというのが、大永4年(1524)で、この頃のことになりますから、これ以前に、信秀に子供を作る能力が、既に備わっていたことが分かります。

最初の正室、守護代織田大和守達勝の娘を娶る前に、おくらの方以外の子供が出来ていてもおかしくはありません。


また、信秀の最初の正室である、下尾張守護代織田達勝の娘の子供ではないかと、推察する方もおられます。


では、信廣が、最初の正室の子供だった場合を考えてみます。

まず、信秀が、織田達勝の娘を娶った年、それから離縁した年を考察します。


 永正10年(1513)、達勝の兄である、先代の下尾張守護代、織田大和守達定は、尾張守護大名の斯波義達と争い、殺害されます。それによって、達勝は守護代になります。


そして信秀は、大永6年6月から7年7月(1526から27)の間に、父からの禅譲で家督を継いだと言われています。当時、信秀は数えで17歳から18歳。(満で16〜17)


禅譲ですから、息子の通過儀礼が一段落し、次の跡取りを見込めると、目された後でしょう。


禅譲すると、父、信貞は、勝幡を遠く離れ、美濃近くの、当時の木ノ下城へ引っ越します。おおよそ31キロの道のりです。一騎がけで、馬を潰す感じで急がせれば一時間くらいで着くでしょうが……


そうなると、誰の腹にせよ、信秀が家督を禅譲された時に、男児が一人は生まれていたという方が、当時の情勢を考えるとすんなり行く気もします。

しかし、子供の有無は置いて、婚姻後に禅譲されたと考えていきます。


普通、元服→初陣→婚儀となるので、元服が大永3年頃。

大永4年に津島との戦いがあり、これを初陣にした可能性もあります。

この時の同盟終結の印として、上記の通り、津島衆筆頭の大橋家の息子と、1歳前後のおくらの方の婚儀を整えられました。


大橋家の娘を、信秀の室に入れなかったのは、守護代の娘の婚儀が決まっていたせいもあるでしょう。


「若様の子づくり事情」でも言及しましたが、基本的に、戦国期の武家の当主の嫡男に於いては、嫡男(正室の長男)を上げるまでは、正室に若様の子種の独占権があります。

その為、正室との婚儀の前に側室を入れるというのは、信忠のように婚約破棄の後、父が次の正室を定めず、二十歳までに嫡男が見込めない場合など、数少ない事例になります。


また戦国期の婚姻は、室の中で、一番、身分が高いものが正室になる、という基本的なルールがあると言われています。

しかし、男児をあげた時点で、一番家格が高い人が正室になると言われる方もいます。

そもそも正室という考え方は無かったとされる学者さんさえもおられます。


当時の奥に関して、女性の生死などの記録は少なく、婚姻の形態はまだよく分かっていません。


しかし、少なくとも、正室との婚儀の前に側室を入れるのは、跡取りの問題が煩雑になるので、避けたいところではないでしょうか。


ということで、婚姻は、大永5~6年(1525〜26)、数えで16〜17(満で15〜16)と言うことになるでしょう。


 それでは、離縁した年を見ていきます。

信秀が下守護代家と再度争い始めたのが、天文元年(1532)になります。

これは、小田井織田氏と下守護代織田氏VS弾正忠家の戦です。

間も無く、停戦、講和が結ばれていますが、戦の前に正室を返し、側室だった土田御前を継室にし、天文3年(1534)に信長公が生まれています。


信長公の諱の通り、ゆくゆくは、弾正忠家を織田氏の長者する気持ちがあったのならば、下尾張守護代の正室を返し、他の家の娘ではなく、敢えて継室に家臣の娘を据えたのも理解できます。


もし、信廣が正室の子であれば、信長公との年齢差を考えると、大永8年(1528)までには生まれたことになります。


 また、三河物語に「天文9年(1540)に安城城の城代を信廣にした」という記事があります。三河物語はご存知のように、日記ではなく、江戸期に入って、丁度桶狭間の年に生まれた大久保忠教によって書かれたもので、他の資料と食い違う事が多く、微妙です。

城代にしたのは、1548年だと思いますが、もし三河物語が正しかった場合は、少なくとも信廣が正室の子供なら、どんなに年長でも、初陣を済ませた辺りで14歳(数15)になります。


戦国期の一人前というのは、元服というのが一つの目安では有りますが、二十歳までは後見が付き、武将としてはここが区切りになります。

かなり有力な後見をつけ、与力をつけまくって貰わないと、不安で仕方がありません。


もし侍女の子供なら、2、3歳、年齢が上乗せ出来ます。数えで18くらいなら、あり得ます。

三河物語が正しければ、14歳では、信廣が竹中半兵衛ばりの天才性を見せていない限り、最前線の城を任せるのは、難しいのではないでしょうか。

しかし、のちの彼の活躍を見ても、愚将ではありませんが、平均的であり、流石に人を見る目がある信秀が、任せるとは思えません。

もし、今後、1540年に信廣が城将を任された傍証が見つかれば、侍女の子である可能性が高くなると思います。


 更に、信廣は、上尾張守護代織田伊勢守の娘の息子である、という説を唱える学者さんもおられます。

というのも、この「廣(広)」という字は、伊勢守家の通字だからです。


ただ、弾正忠家の通字の「信」も、家臣団の皆さん、「信盛」だの「信高」だの名乗ってますし、根拠としては微妙な気がします。

また「三郎五郎」というのが、「弾正忠家の三郎」に「清須織田家(大和守家)の五郎」という合弁します的な大胆な通称であると唱えておられます。どう思われますか?


……とりあえず、その可能性を探るために、上尾張守護代織田伊勢守家のその当時の様子を見ていきます。


尾張織田氏の長者は、この織田伊勢守家になります。

元々はこの家が一家で守護代をしていましたが、又従兄弟の織田大和守敏定にしてやられた話は「下尾張統一事情」で致しました。

大和守家は、短期でクルクル当主が変わり大変でしたが、伊勢守家の方も、なかなか男児が育ちませんでした。


まず、上下に分かれた時の当主は敏廣(敏弘、敏広)ですが、文明7年(1475)嫡男に、弟、廣近の長男、千代夜叉丸、後の寛廣を貰い受け、文明13年(1481)頃亡くなります。

その年に元服前ながらも、跡目を継いだ寛廣ですが、永正元年(1504)から表舞台に立たなくなり、天文6年(1537)、敏廣の息子、廣高が跡を継いでいます。

30年以上にわたる空白の時代は、何を示しているのでしょうか。


そして、廣高で血筋が絶え、大和守家の信安が跡目を継ぎました。(その大和守家も達勝で途絶え、信友を養子にし、信長公に滅ぼされます)


信秀の父、信貞が犬山へ進出した理由の一つに、この信安の後見をする為という説があります。

しかし、これは非常におかしな話です。

後見を大和守家の家臣に過ぎない、弾正忠家の信貞がする。しかも、わざわざ、当主の座を禅譲してまでです。


というのか、そもそも、年が合わない……

何しろ信貞が犬山へ引っ越ししたのは、大永7(1527)年前後で、10年のタイムラグがあります。

もし、犬山地方で、より守護代屋敷の岩倉城に近くへ引っ越した話であっても、信安が伊勢守に就任するのは、天文6年(1537)の廣高の就任以降の事になり、翌年7年(1538)の11月には信貞が亡くなっています。廣高の伊勢守就任も、後見も、ほんの数ヶ月という話でしょうか。


また、信安の生年も父親もはっきりしておらず、初代守護代大和守家の敏定(1452〜1495)か、2代目の敏信(1466〜1517)の息子と言われています。

しかし、1537、8年あたりに「まだ年少」で「後見をつける」なら、敏信の亡くなった後に生まれても、数えでギリギリ20歳……

たしかに、つけても数ヶ月?

後見も形ばかりという感じです。



しかし、まとめると、こういうストーリーが組み立てられます。

伊勢守家から信秀の正室が嫁ぐとしても、大永4〜5(1524〜25)頃のことでしょう。


廣高が守護代になった時、父親が亡くなった年を考えると、なんと齢60ほどです。

その約10年前になる、信秀の婚儀の頃には、既に伊勢守家に、家督問題があったことは明白です。

いいえ、この伊勢守家の相続問題は、敏廣が亡くなる直前に、弟の元服前の嫡男を養子にしていることから、尾張が上下に分かれた敏廣時代から、ずっと続いていたものと思われます


信貞は、伊勢守家の娘と信秀の間にできた息子(信廣)を、伊勢守家へ養子に入れることを目論んでいたのではないでしょうか。(これは、信廣が大和守家の娘の子でも、血筋が繋がるので、成り立つ話です)


更には、信貞は早々と禅譲をすると、犬山へ居城を移し、信廣が跡目を取った曉には、全面的な支援をすることを示します。

また、津島を押さえた弾正忠家の勢いを背後に、圧力をかけたのかもしれません。


しかし、近い血筋とはいえ、勢いがある弾正忠家の息子をいれる危険に、伊勢守家の家臣たち、更には大和守たちは警鐘を鳴らしたのかもしれません。

大和守家は、さかのぼれば、分かれた時には又従兄弟ですし、伊勢守家に次ぐ家格です。


政権基盤の弱い、当時の下尾張守護代、大和守達勝は、何としても、弾正忠家の躍進を押さえたいところです。しかも、彼もまた、子沢山の弾正忠家と違い、男児が育たないという苦悩を抱えていました。

まず、甥に当たる信安を信廣のライバルに立て、なんとかバランスを取ろうとしました。

その上で、信廣を産んだ伊勢守の娘が亡くなると、すぐさま、自分の娘を信秀に嫁がせ、友好関係を築こうとします。


しかし、信秀は津島からの富を有効利用し、那古野の今川氏と誼を通じたり、山科卿や飛鳥井卿などの公家との付き合いを深くして、一奉行家を越えた振る舞いを続けます。更に主家の断りなしに、知多半島へ進出していきます。


三奉行といっても、最早、弾正忠家は守護代と変わらぬ権勢を誇り始めています。

あまりのことに、三奉行の一家、小田井織田氏と手を組んで争いますが、それを機に娘を返されます。


その後信秀は、家臣の娘である土田御前を継室にし、嫡男、信長公を得ます。これで、信廣を養子に出しても、困りませんから、ますます、弾正忠家は盤石です。

更には、続いて準嫡男の信勝も生まれます。


この両者の争いの果ての苦渋の策が、天文6年の、廣高の不自然な上尾張守護代就任でしょう。


信秀は、信廣の元服の時には、三郎+五郎、信+廣の名付けを行い、来たる伊勢守選出に、やる気を見せます。


しかし、直後、大和守家の信安が、跡取り養子になります。

とはいうものの、上下守護代は、弾正忠家の権勢を無視出来ず、その慰留に、犬山織田氏(信貞か、信秀の弟)に「後見」の座を与え、信安の正室に信貞の娘、秋悦院を入れたのかもしれません。


これはありそうかな?

この筋書きなら、信廣は正室の子になりますね。

たしかに、侍女の子というより、信廣は、男児の育たない上下尾張守護代家にいれることを、意識して育てられた子供かも知れません。


 弘治2年(1556)信廣は、斎藤義龍の調略を受けて、信長公に謀反を起こし、赦しを請うた折、娘を証人(人質)に出し、その娘は公の養女として、永禄6年(1563)丹羽長秀に嫁ぎ、1571年に嫡男長重をあげました。(長重の生母は、側室野呂氏娘という説もある)


斎藤義龍の調略に乗ったのは、家臣団に鬱屈した思いと共に、元々は信廣が嫡男のはずだとか、本当は守護代家の跡目のはずだったという気持ちが、あったのかも知れません。


また、斎藤家側から見ると、断絶した伊勢守家の元当主敏廣の正室には、権大納言甘露寺家の娘が、守護代斎藤家後見、斎藤妙椿の養女となって、嫁いできており、親斎藤でしたが、守護代斎藤家の権力の低下と同調し、伊勢守家が衰退しました。


旧伊勢守家の血筋である信廣とは、親和性があります。

斎藤家としては信長公を廃し、信廣を弾正忠家の主とし、なんなら、伊勢守家も統一したら、都合が良かったのかも知れません。




さて、ここからは、史料に残っている、その後の信廣の人生を記します。


 天文17年(1548)父信秀から安城城、城将を任された信廣は、翌年3月、今川義元の智将、太原雪斎たいげんせっさいの猛攻を受け、11月に落城、織田弾正忠家に居た松平竹千代主従との交換のための人質となります。


これは、松平家当主で竹千代の父、広忠がこの年の3月に亡くなっていますから、その嫡男を押さえていた、織田家の三河経営計画は、かなり大きく頓挫した筈です。

信廣の、当家での立場は、かなり悪くなったでしょう。


もし、上尾張守護代の養子失敗があれば、これが重なって、当時の考え方では、「神のご加護のない男」という烙印を押されたようなものです。

つい謀反を起こしたくなる鬱屈した気持ちも分かりますが、また謀反の露見の仕方が運が悪い。

物見が、斎藤家に戦の支度の動きがあるが、どうも緊張感がない、おかしいと信長公に報告が上がり、謀反を起こす前に、既に知られていたという……

信長公と話し合いを重ねて、諦めがついたのか、暫くの小競り合いの後、連枝として、信長公を支え続けます。


『織田信長家臣人名辞典』に拠ると

「永禄12年(1569)から元亀元年(1570)にかけて京に常駐し、主に幕府との連絡に務めていた」

信長公の兄としての信用があった模様であると書かれています。


そして、浅井、朝倉家との戦が始まりますが、彼らが京へ侵攻すると、信長公は摂津戦を放棄して、反転します。

慌てた浅井、朝倉軍は比叡山に籠城します。

信廣も、京側の比叡山の山裾にある、将軍山城に入りました。


結局、信長公の働きかけで、幕府が仲介に入り、停戦しますが、この時にも信廣が取次をしたのかもしれません。


その後、信廣は対武田戦のために、東美濃の岩村城へ移り、籠城します。しかし、残念ながら元亀3年に落城します。

その後、再び京へ移り、元亀4年(1573)、信長公と将軍義昭がぶつかると、信長公の名代として仲介に入り、和議を結びます。


これらを見ると、どうも部隊を取りまとめ闘うよりも、コミュ力を生かして人付き合いをする方が向いておられる個性の持ち主だったのかも知れません。


吉田兼好の子孫である、吉田神社の祠官、吉田兼和と仲良くしておられたそうです。

この吉田さんは、家康が苗字を変える時に、「ずっと昔、昔、親戚の親戚の親戚の親戚(最早関係ない?)が、得川と改名したことがある」という前例を発見(捏造)して、大活躍した方です。


信廣は、翌天正2年(1574)伊勢長島遠征に従軍し、9月29日の最後の闘いで、先鋒を務め、一揆勢の猛攻を受け、討死しました。


やはり……吏僚タイプだったのかも、知れませんね。


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