織田三七郎信孝の母、坂氏娘の素性の考察
単なる考察ですので、エンタメとしてご覧ください。
よろしくお願い致します。
永禄元年(1558)4月4日のことです。
熱田の神官岡本氏の城屋敷で、1人の男児が生まれました。
父親は織田信長公、数えで25歳。記録に残っている子供としては5番目。3番目の息子の誕生でした。
弘治2年(1556)稲生合戦で実弟信勝を支持する林らと雌雄を決し、織田家の家督を安堵し、着実に足場を固めている時期です。
後の織田家家督信忠、五徳姫と同じく、生駒氏娘を生母にもつ信雄と生まれた年が同じで、本来ならば信孝の方が20日誕生日が早く次男でしたが、生母の格の違いで、憚った家臣が信長公への報告を遅らせ、信孝が三男になった説もありますがどうでしょう。
生駒氏娘は応仁の乱の折、生駒から落ち延びてきた、公家の山科卿の傍流の一族で、尾張に居住した後、問丸、馬借(運輸業)に進出して成功した商人国衆の娘で、家系図を見ると犬山織田氏二代目当主で、公の兄の信時(秀敏)の側室の姉娘であろうかと思われます。
しかし当時生駒氏娘は信長公の居城に入っておらず、信長公の正式な側室ではありません。この事情に関しては、また考察を上げる予定です。
信孝の産所に熱田の杜家の岡本良勝の屋敷が選ばれたのは、彼が坂氏娘の叔父であったからだとされています。
名古屋市瑞穂区豊岡通1丁目に「岡本定治の城屋敷」という碑が立っています。『張州府志』によりますと、ここは大喜東北城といい、岡本氏の城だったそうです。
熱田神宮の東、旧鎌倉街道沿いになり、この道をそのままいけば呼続浜へ出ます。
2年後の梅雨の晴れ間の朝、彼の父が桶狭間へと駆け抜ける道です。
熱田からは、鎌倉街道沿いに高田、大喜、井戸田と村が続いており、それぞれに杜家の城屋敷が建っていました。
このように熱田神宮の周辺には、要所、要所に、杜家の城屋敷が置かれ、武将としての側面を持っていた大宮司の城屋敷を、戦国大名のそれと同じように支城が護っていたことがわかります。
違う素性の方もおられますが、杜家の岡本氏や浅野氏、森部氏、新田氏などは、拙作「桶狭間で散った大宮司千秋季忠」の前史の処で見ました尾張氏の支流で、彼らは熱田氏と呼ばれます。
熱田岡本氏や大宮司千秋季忠の正室たあ姫の実家である熱田浅野氏のことが、津島の尾張津島四家七党の岡本氏やおねさんの浅野氏と稀に混同されています。
尾張氏というのは、元は渡来人の海部氏で、古来より帝の妃を多数出してきた由緒正しい一族で、特に日本武尊継室になり草薙剣を預かったのが尾張氏娘である!と日本史に名を轟かせいます。
今も愛知県にある古墳や古くからある尾張神社、氷上姉子神社や幡豆神社、真清田神社などは、この尾張氏が造営したものだそうです。
確かに尾張氏の尾張ですから、どこかで分家して津島に流れても、おかしくありませんが、この頃には熱田氏と津島諸氏は違うので少し注意が必要です。
このように尾張を支配していた尾張氏ですが、その後、千秋姓藤原氏に大宮司職を移した経緯は「千秋季忠」の方に書きました。
尾張氏は、その後権宮司職を歴任し、(色々ありましたが)千秋家を支え、戦国時代に突入しました。
つまり「熱田氏」というのは、織田氏だの、今川氏だの、ついでに千秋氏だのとは比較にならないほど古い、古〜い尾張創始者一族な訳です。
その尾張熱田一族の城屋敷跡の碑に書いてある「岡本定治」という方は、ここの家の系図が手持ちの熱田氏の資料に載っていない為、どなたかはわからないのですが、良勝の父親は岡本定季というそうなので、名前的に近いかな……という気持ちになったりします。
この城跡の形跡から見て織豊期以前のものなので、おそらくはここが信孝生誕の地だったのでしょう。
では叔父さんの岡本良勝を見ていきます。
生まれたのは天文11年(1542)説と天文13年(1544)説があるようです。
信孝が永禄元年(1558)4月4日生まれなので、前年の弘治3年の6〜7月頃には、坂氏娘は室に上がっているはずです。
この頃、叔父さんの岡本良勝は、うちの電卓アプリでは、57ー42=15になります。44年であれば13です。
元服が終わったか、初陣が済んだかの年頃です。
姉の「坂氏娘の母親」とは、親子ほど歳が離れているようです。
更に、前田利家がおまつが身籠ったことを信長公に報告したとき、「……貴様は猿か?」と幼い妻を妊娠させる危険性について説教したという逸話が遺されています。
これが本当のことかどうかは定かではありませんが、あまりに早い出産は、母体にとって望ましくないことは分かっていたようで、当時は大体15.6から25.6位の間の出産が多いようです。
特に大名クラスの婚姻は、側室であっても利害関係が絡みますから、そんなに早々と子供を産ませることは少ないです。
そうなると姪の坂氏娘の方が、叔父の良勝よりも歳上の可能性があります。
これは側室を入れるような家ではよくあることで、祖父の末弟は孫と同じ歳とか、また信長公の下の叔母たちは20歳近く下ですね。
岡本家は側室を入れられるような、重臣クラスの収入があったのでしょうか。
また岡本良勝にはお兄さんがおられ、重国というのですが、熱田大宮司季忠の弟とも言われています。
千秋家の家系図を見ると、確かに季忠には別の屋敷に住まう弟がおり、大宮司職についた長兄の猶子になっています。
彼は季忠の息子を大宮司にすることに関して異論を唱えて、天正2.3年頃逐電し出家したという記事が書かれています。
季忠の死に方は天晴なもののはずですから(拙作「桶狭間」)、彼の所領は無条件で安堵され、たあ姫の腹の子が男児なら、彼が大宮司職を継ぐのは既定路線でしょう。
季忠の弟(千秋家家系図では、季重)に添えられた短い文章をひろげると、なんらかの事情があり季重は杜家岡本家で育ち、季忠が桶狭間で討死すると、彼の遺児が無事に成人するまで長兄が名代職(本来の大宮司が就任するまでの繋ぎの職。相続権はない)に付き、万が一に備えて季重を猶子(相続権を持たない養子)に迎えて形式を整えた、という感じになるでしょうか。
季重の逐電した天正2年頃(1574)というのは、桶狭間の後生まれた李忠の息子季信と桶狭間の翌年討ち死にした岩室長門守の息子小十蔵が打ち揃って、信長公に成人の挨拶に伺候した年です。(この時、長兄が退き、李重が名代大宮司職についていた)
そうなると季重の逐電の理由も明らかですね。
なんだかパワフルです。
岡本家から見ると、千秋家から季重を迎え、娘を坂氏に嫁がせ、桶狭間で大宮司季忠が亡くなると千秋家に戻したということになるのかもしれません。
良勝は李重を返すにあたり、別の家から入れた養子かもしれませんし、晩年に側室にできた息子かもしれません。
また信孝が産まれた時には、当主はお父さんだったか、李重だったかは当時をリアルタイムで遺したものはなく、定かではありません。
岡本氏の家系図がほしいものです。
それでは「坂氏娘」の母親の「岡本氏娘」が、坂氏に嫁いだ経緯を見ていきましょう。
まず岡本氏娘が坂氏に嫁いだのは、いつごろかというところを考えます。
信孝を妊娠した当時、満で13から25歳位とすると、坂氏娘は天文元年から12年(1532〜43)あたりに生まれたことになります。
しかし岡本氏では跡取りがいないと家が滅ぶので、千秋季光の末子を預かった後で嫁がせたと考えられます。
となると季忠が天文3年(1534)生なので、それは34年以降ということになります。
そうなると武将の嫁入りは2、3週間位しか猶予がありませんから、坂氏娘は最速で天文4年(35)、少なくとも天文12年(43)頃に誕生しているはずです。
「信孝には異父兄弟の小島兵部小輔がいる」ともいいます。
つまり、坂氏娘はいったん小島氏に嫁入り、兵部小輔を産んだ後、旦那さんが亡くなるかして、坂家に戻っていたところ、「男児を産める女性である」ということで、信長公の側室になったということになります。
この小島氏は『諸家体系図』によると、尾張春日井郡浦和邑を本貫とする浦和氏の支流になります。
源経基の次男満政を祖とし、美濃国方県郡八島や、近江国野洲郡八島を所領とし、八島源氏と呼ばれます。
1160年の平治の乱の折、佐渡姓源重遠が源義朝に味方した為朝廷より罰せられ、当主佐渡重實は自刃、重遠は尾張へ送られ(逃れ?)、尾張浦和を領して浦和氏を名乗ります。その息子重直は河邊荘を開墾し、重實の弟(同じく重實の弟である重時の養子になる)重俊が小島姓を名乗り、小島左兵衛尉と言ったそうです。(系図により重平、重光が小島姓の祖になっています)
この重遠から三河方面に向かう浦和氏が出、その中に知多緒川の小河氏がおり、その小河氏を尾張藤原氏の水野氏が襲って乗っ取り、源氏を仮冒しました。その嫡流の子孫が織水同盟の水野信元と家康のお母さんの於大の方ですね。
信長公宿老である山田荘の山田氏も、安食の葦敷氏、高田の高田氏(高田城を築いた後平安末期に土佐へ配流されています。戦国当時の高田城主は村瀬氏)もこの八島源氏から派生した一族になります。
さてこの小島氏ですが、系図によりますと、尾張ではなく美濃へ戻ったらしく、1221年の打倒鎌倉幕府の承久の乱の折に、同族の美濃木田氏と共に挙兵している姿が記録されています。
小島氏は尾張での記録に姿が見えず、美濃にいるようです。
となると少し経緯が見えてきますね。
天文18年(1549)3月信長公は美濃から正室を迎えますが、同時に斎藤道三の側室になる為に信秀三女が尾張から旅立っています。
その上級侍女として坂氏娘が付き添ったとすれば、美濃小島氏との婚姻は成り立ち、弘治2年(1556)4月長良川合戦で道三が亡くなり、織田家と斎藤家が対立すると織田家に戻っていれば、側室に上がる最低ラインの弘治3年6月をクリアできます。
息子を連れて尾張に戻っているので、長良川で道三に付いた夫の小島氏も亡くなったと考えられます。
この仮定が正しければ、坂氏娘は天文3年か4年(1534か35)の誕生になりますが、そうなると、千秋家の事情を合わせると、ある推測が出てきます。
李忠、李重は双子だったのではないか。
当時は双子が禁忌だったかは定かではありませんが、世継ぎ問題と絡む場合は、どちらかを養子に出すということはあったようです。
勿論、年子という事もあり得ますが、わざわざ岡本氏に李重を出していること。
李重が14年もの間異論を唱え、挙句に逐電して出家までしていること。
もしそうなら、大変すっきりします。
桶狭間後に自分が大宮司家から出された双子の片割れだと聞かされ、名代として戻されれば、理不尽な気持ちになるでしょうね。
では彼女の父親の「坂氏」とは誰でしょうか。実はこれが雲をつかむような話で、確証はなく、ここからはいつも以上にエンタメでお願いします。
坂氏と書かれた場合、基本的に「
更にこの「坂氏」は「ばんし」と呼びますが、この頃は「伴氏」として「大伴氏」の「ばんし」(伴野氏を含む)を指す場合もあります。
こちらも全国各地に広がって繁栄されています。
坂氏娘は「伊勢の豪族の娘である」という伝承も伝わっています。
伴氏といえば甲賀五十三家の伴氏です。
しかし甲賀は滋賀県で、伊勢は三重県で別だという気持ちがあるのですが、当時は伊勢も甲賀も一緒なんでしょうか。
伊勢の伴氏で織田家に従ったと言われている方に伴盛兼という方がいます。しかしこの方が織田家に従ったのは、伊勢侵攻の永禄11年(1566)で、そもそも生まれたのが天文16年(1547)なので難しいですね。
伊勢の坂上氏は、伊勢無戸の新家氏になります。
延元3年(1338)には、新家信政という方がおられたことが分かっています。その子孫でしょうか。
しかし坂上姓ならまだしも、新家氏を今更「坂氏」と記すでしょうか。
尾張におられる「坂上氏」は、尾張国中島郡平野村を本貫とする、鎌倉幕府初代執権北条時政の裔である尾張国海東郡赤目の城主横井政持の系統。同じく津島平野賢長は、津島の奴野城を居城にしていました。
しかしどちらも伊勢との関係は分かりませんし、こちらも「坂氏」と記されるか微妙です。
では尾張の「ばんし」をみていきます。
『山科言継卿日記』の中に、天文2年(1533)7月から8月、尾張を訪れた記事に伴九郎兵衛兼久」という方が出てきます。
彼は信秀に近侍しており、他の家臣たちを差し置いて、何度となく蹴鞠会や連歌会に出座しています。
このことから相応の教養のあった方で、重臣クラスということが分かります。
永禄3年(1560)桶迫間の折には、伴十左衛門という方が丹下砦に入っており、本能寺の変の時には厩から打って出た、伴太郎左衛門と伴正林が記録されています。
この一族は元は伊勢の人でしょうか。それとも甲賀でしょうか。元伊勢の豪族ならあり得るかもしれません。
千秋家と勝幡織田氏の関わりが、少し希薄な感じを受けます。
天文2年の山科卿の下向した時には、蹴鞠や連歌、鷹狩などが何度となく催されていますが、当時の大宮司である千秋季通(季忠の曽祖父)は、清須で行われたものにのみ参加して、勝幡城や那古野城には足を運んでいません。
少なくともこの頃は、千秋家は勝幡織田氏とはそんなに親しくなさそうです。
翌年には事情があり、突然親しくなって、家臣たちの婚姻関係を結ぶに至るのでしょうか。
それから、尾張国春日井郡比良村出身の大野木城主寵臣塙九郎左衛門直政。
もし岡本氏娘が嫁入るなら、直政の正室は名古屋氏娘、継室は柴田勝家の娘のため、父親塙右近大夫の継室になります。
彼の姉妹が信長公の側室に上がったという伝承があるので、話が合わなくもありませんが、元々常陸国塙村が本貫と言われており、伊勢と関係あるか分かりません。
塙九郎左衛門直政と伴九郎兵衛兼久、塙はよく「伴」とも書かれていますので、もしかするとこの伴氏も「塙氏」だった可能性もあるかもしれません。
これを繋ぐ資料は今のところ見つかっていません。
さて直政の正室の名古屋氏は、平安期の「建春門院法花堂領尾張国那古野庄領家職相伝系図」に出てくる古い一族で、那古野の安堵のために、那古野今川氏が積極的に縁戚関係を結んだと言われています。
そんな名古屋氏は当時、那古野今川氏に仕え古井に城を構えていた一族と、清須織田氏に従属している一族がいたようです。
しかしこの塙氏。
かたや今川氏の連枝格の娘なら、後に秀吉の仲人をする名古屋氏で、森長可、乱丸兄弟の末弟に娘が嫁ぎます。
もう片方の清須織田氏家臣の名古屋氏なら、『信長公記』に出てくる斯波氏家臣の梁田に恋愛沙汰に持ち込まれ、織田氏を裏切る三百人扶持の大身のおぼっちゃまの関係者。どちらをもらうにしても相当です。
そして次には柴田勝家の娘ですから、やはり相当な家格と言えます。
柴田勝家の柴田氏は斯波氏の支流の支流の……で、越後新発田(柴田)から斯波武衛家を頼って尾張へ入ったそうです。斯波氏が築いた一色城に柴田源六勝重の墓が建っています。
那古野今川氏が追い落とされた折、討死した家臣の中に、大秋氏、山田氏と共に柴田氏もおられ(以前、資料を見せてはもらったのですが、資料の名前がわからない)、これと勝家の家の関係は分かりません。
塙直政は那古野城陥落以降に名古屋氏娘と結婚し、稲生合戦の信勝派の降伏後に勝家の娘を入れた可能性があり、最初から勝幡織田氏家臣だったかもしれません。
そうなると塙氏の家格の高さと信頼の厚さを感じます。
元々、直政は後の経歴を見ても吏僚としての能力が高いので、小姓として信長公に随従していたような感を受けます。
さて、そして真清田神社の宮司伴氏。
真清田神社は、先に述べましたように尾張氏の造営した尾張一宮です。
『日本史小百科、神社』に「佐分、関、魚松、伴野が神主になった」と書かれ、また『尾張群書系図部集』の「伴野氏(伴氏)」の項に、伴主計頭という方が戦国時代に尾張中島に来たと書いてあります。(室町初期など諸説あります)
この伴氏は信濃から来た伴野氏と言われており、更に彼らは佐分氏の子女と縁を結んでいる為、伊勢は関係ないですし、岡本氏とも関係ないようです。
もしかすると、坂氏と伊勢は関係なく、後に信孝が伊勢に入ったことからの連想的な何かでしょうか。
では伊勢に関係のない坂氏、坂上氏、伴氏で、天文3年(1534)前後に熱田杜家岡本氏と縁組し、その後勝幡織田氏の家臣になった方はおられるか……というと。
まず「坂」、「坂上」と書く織田家の家臣は見当たりません。
津島の平野氏、縁組するようなことがあったのでしょうか。
商業都市としての熱田、津島は、連携していてもおかしくはありません。
この10年ほど前なら、丁度大橋の乱で清須織田氏(勝幡織田氏)と戦っていますのであり得るかもですが、その後は勝幡織田氏に従っていますので、どうでしょうか。
甲賀伴氏というのは、実は織田家の家臣としては大変多い氏です。
和田氏、滝川氏、池田氏……しかし彼らを「伴氏」と呼ぶでしょうか。
伊勢というのがなければ、一番あり得そうなのはやはり、天文初期から従属している伴家か塙直政の一族のような気がします。
ここで一つ、熱田と後の織田弾正忠家の不思議な縁組を取り上げたいと思います。
それは西加藤家初代加藤全朔と前田利家の姉の縁組です。
加藤全朔は、加藤宗家当主加藤順光の弟にあたり(順盛と同一人物とされていることもあります)、熱田加藤家の分家、西加藤家を立てて本家以上の繁栄を作り上げた器量人です。またその名は京にまで知れ渡った数寄者で、多くの連歌師が足を運び、また今川義元や武田信玄とも交流がありました。
兄の順光が天文16年(1547)に若くして亡くなった為、甥の順盛を助け、加藤家を盛り立てていました。
兄の順光が永正11年(1514)の為、全朔もこの頃の生まれだと思われます。
全朔の催した天文15年(1546)の連歌会に長男の資景、次男の元隆が元服後の名前で揃って出座していますから、享禄年間(1528〜1532)には彼らは生まれています。
天文7年(1539)頃生まれの利家の姉が、永正半ばに生まれているかどうか、利家の父親の年齢が分からない為、判断ができません。
それで、です。
後にその能力を遺憾無く発揮する全朔も、享禄年間にはまだ10代半ばの少年でしたでしょう。
しかしそれは置いても、熱田の宿老クラスの息子(嫡男)と、前田与十郎家の傍流の前田蔵人家の娘が、一体どういう経緯で結婚しているんでしょうか。
この当時の前田利家の家は、既にそこまで重きを置かれていたのでしょうか。
前田家は15世紀半ばに、尾張にやってきた一家で、二代目の原田与十郎佐治が前田を名乗るようになったと言います。
そこで力をつけて、いつしか勝幡織田氏に従属するようになったそうです。
もし早い時期に勝幡織田氏に従属しており、天文3年頃、先を見越した辣腕家の織田信秀が千秋家に、同盟関係を申し込んでいたとしたらどうでしょうか。
「尾張の能き人を味方につけ」の「能き人」に熱田大宮司の千秋家が入っていてもおかしくない気がします。
熱田杜家の岡本氏娘を織田家重臣坂(伴、塙)氏の継室(あるいは正室)に、前田蔵人家の娘を西加藤家当主の継室(或いは側室)に。
……ちょっと厳しいですね。もしかすると、前田利家の家は、誰かの乳母に上がっていたり、も少し関わりがあったのかもしれないですね。
どうしてもここの縁組が謎でして、ちょうど引っかかりがあるので無理に押し込んでみました。
一度組み立ててみましょう。
天文3年(1534)熱田大宮司家に双子の男児が産まれました。
岡本家には男児がいなかった為、娘に養子を取るつもりでした。
そんな岡本氏に、主君である千秋家は、双子の片割れを引き取り、他の家との縁組を結ぶ話を持ちかけました。
その頃熱田神宮寺座主笠寺別当憲信が、三河松平家の尾張侵攻と、勝幡織田氏の勢力拡大について困惑を見せていました。
ざっと当時を見ていきます。
松平清康は当初三河を統一しつつ、武力より政治力で尾張に進出していたと言われています。
『宗長手記』によると大永6年(1527)には、桜井松平家の信定が守山城を「新しい知行地」として手に入れたことを祝う宴があり、そこには尾張守護代の織田家が家臣を連れてお祝いに駆けつけている様子が遺されています。
和やかですね。
それが天文年間に入ると、あらゆる方面で武力訴える形へと変化していきます。
熱田神宮に所属している寺も、三州殿(松平清康)に領地を安堵されるようになっています。
また大永3年(1524)大橋の乱を起こした津島を丸焼けにして制圧し、清須織田氏の内紛に乗じた勝幡織田氏は、松平清康と結んだ織田藤左衛門家と争い、尾張は揺れ始めていました。
その頃は松平氏、織田氏のどちらも当時那古野今川氏との対決は避け、下尾張織田氏(或いは斯波氏)を標的に絞っているように見えました。
となると、坂氏は塙氏で、塙氏は那古野今川氏の家臣だったかもしれません。
今川氏の連枝格である名古屋氏娘を正室に迎えている塙氏に岡本氏の娘を嫁がせることは、社領押領が横行していた当時、千秋家にとって防衛上望ましいことだったかもしれません。
あるいはやはり坂氏は勝幡織田氏の家臣で、千秋家は朝廷との関係の悪くない勝幡織田氏と縁を結ぶことで、生き残りを計ったのかもしれません。
「今後は季光の子孫が代々大宮司を歴任することを、織田弾正忠家の面目にかけて保証する」
、そう保証してくれる、武編で名高い弾正忠家と結ぶことは、悪くない話です。
天文4年(1535)森山崩れで松平清康は亡くなります。
天文7年(1538)になると勝幡織田氏が那古野城を攻略し、熱田近くまで押し寄せて来ました。
こうして熱田も旧今川家臣団も、勝幡織田氏に従属しました。
この頃には坂氏と岡本氏娘の間に娘が1人生まれています。
さて時は流れ、勝幡織田氏嫡男信長公の縁組が相整いました。美濃国主斉藤家との縁組は重縁になる為、信秀の娘が美濃に嫁ぎます。
乳母や乳母子、そして随行する侍女たちが選別されました。
その中に坂氏娘がいました。もし伴氏娘なら織田家の信頼は厚いですから、白羽の矢が立ったでしょう。
こうして坂氏娘は、10代半ばの天文18年(1549)3月美濃に旅立ちました。
美濃についた坂氏娘は、美濃の斉藤家家臣小島氏と縁を結びます。
嫡男にも恵まれ、落ち着いた日を送っていたかもしれません。
ところが天文23年(1554)美濃に暗雲が掛かります。道三は家督を義龍に譲らされ、鷺山へ撤退。弘治元年(1555)になると義龍は挙兵、翌弘治2年(1556)4月に長良川合戦が行われ、道三は討死します。
小島氏は戦さで亡くなり、道三についていた小島家は危険な為、坂氏娘は息子を連れて尾張に戻ります。
尾張に戻って一年ほど経った時、坂氏に坂氏娘を側室に出すよう命が下ります。
うぅ〜ん、ちょっと坂氏のことが分からないのと、前田家の件は厳しいですが、とりあえずはこんな感じということで。
また信孝の神戸家入りに伴った家臣たちの中に、坂仙斎という人物がおり、これが連枝ではないかとされています。
南北朝時代の医師兼連歌師で、『伊勢太神宮参詣記』の著者である
丁度戦国期では、坂浄見とその弟、坂浄忠(1511〜1565)がおられ、浄忠の息子の坂浄勝 (1550〜1584)は、後に信長公の病気を治療したので有名な医師です。
信孝に近侍して共に神戸家に入った坂仙斎は連枝ではなく、押入り婿と称される無理矢理養子の信孝の暗殺を案じてつけた、坂氏の分家筋で弟子の医師かもしれませんね。
またこの家系との縁組も考えましたが、相手は治部卿法印、代々トップクラスの医官です。
帝や将軍の脈を取れる医官の家と、熱田神宮といえども杜家の娘の縁組は、在京時代の千秋家ならまだしも、この当時では話になりそうにありませんし、更に桶狭間前の信長公の側室には無理そうで、その後秀吉に磔にされる坂氏娘の最期を鑑みるに、医師の坂氏の分家筋の娘としてもちょっとあり得ない感じを受けます。
神戸家入りに従った家臣の中で、「乳兄弟の幸田彦右衛門が傳役としてつけられた」とありますが、幸田氏についても、サッパリ誰だか分かりません。乳母ということは織田家の家臣でしょうが……ユタ州の図書館に彼の系図が収められているそうなので、どなたか請求してもらえるとありがたいです。
家臣団から分かることがあるかも知れません。
長くなりましたので、今回はこんな感じで締めさせていただきます。
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