竹生島事件(信長公侍女手討ち事件)

(非常に大変長いです)


 今回は竹生島事件と呼ばれる、信長公の侍女手討ち事件について考察していきます。

林秀貞、佐久間信盛ら追放の考察からの流れになりますが、佐久間信盛の前にこちらを出した方がわかりやすいかも知れないので、先に公開します。


またいつものことですが、この考察は一素人の考えで、一種のエンタメであり、こういう視点もあるかもねというスタンスで受け止めてください。


 信長公が琵琶湖に浮かぶ竹生島へ参拝に行っているうちに、泊まりだろうと思った侍女たちが、勝手に二之丸と桑実寺へ遊びにいき、思いがけずその日のうちに帰城した公が激怒し、匿った桑実寺の住職諸共斬首したと伝わる話です。


これは公の残虐性について語られる時に、よく引き合いに出される場面です。


 それは信長公が本能寺で斃れる前の年、天正9年(1581)4月10日のことでした。


この年の前半は有名な正月の左義長、天覧馬揃えがあり在京していた信長公は、3月10日になり安土に戻ります。


加賀方面では、織田家の大名たちが馬揃えの為に上洛している間に、軍神上杉謙信の後継者であり、甲斐守護職武田家当主勝頼の盟友、関東管領家当主上杉景勝が侵攻し、また能登では一向一揆が起こり、彼らは急ぎ帰城してそれを討ちます。


また駿河では徳川家康が、かねてより武田方の高天神城を囲んでいましたが、食糧が尽きて飢えた高天神側は3月25日、かの桶狭間の折、鳴海城で死闘を繰り広げた猛将岡部元信(元今川家臣、今川没落後武田に転仕)に率いられ、徳川軍に突撃して散り、落城。かの有名な「高天神城の戦い」が終わりました。


 当時、織田家との和与を切望していた勝頼は、救援に向かう事が出来ず、この事で権威を失墜させます。

軍神上杉謙信の後継者争いの御館の乱で軍事力を低下させた、関東管領家上杉氏。

長篠、高天神城と敗北の続く、甲斐の虎亡き後の源氏嫡流武田家。

この名家の家格の下落は、それ以前の浅井、朝倉家滅亡、将軍家の度重なる都落ちと合わせて、一つの時代の終焉を感じさせたことでしょう。


更に28日には、信長公は幕臣畠山氏の城であった能登七尾城に、家臣を入れました。


 では問題の竹生島事件の箇所を、見てみましょう。


『信長御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。長浜の羽柴筑前所まで御馬に召され、是より海上五里、御舟にて御社参。海陸共に片道十五里の所を、日の内に上下三十里の道、御帰城なさる。稀代の題目なり。しかしながら、御機力も余人にはかり、御達者に御座候ところ、諸人感じ奉り候なり。遠路に候へば、今日は長浜に御逗留候はんと、何も存知のところ、御帰り候へて御覧候へば、御女房たち、或ひは 二丸まで出でられ、或ひは、桑実寺薬師参りもあり。御城内は行きあたり、(口偏に長)へ焦れ、仰天限りなし。則ちくくり縛り、桑実寺に女房ども出だし候へと、御使を遣わされ候へば、御慈悲に御助け候へと、長老詫言申し上げられ候へば、其の長老をも御成敗候なり』



「4月10日、信長公が小姓を5、6人召し連れて、竹生島に御参詣なされた。

安土城から長浜城まで馬を走らせられ、そこから湖を約20キロ、船に乗って渡られて、竹生島に参拝された。

片道約59キロ。往復約118キロの道のりを、その日の内に行って帰られた。

稀に見る『題目』である。結局のところ、他の人からすれば計り知れないほど、ご気力が充実されておられるのだと、皆感じ入った。

遠い道のりなので、今日は長浜にお泊まりだろうと、誰しもが心得ていたところ、お帰りになられ、城をご覧になられたところ、上級侍女たちは、一方では二ノ丸まで出られ、一方では安土城から徒歩で30分ほどの桑実寺薬師にお参りに行っていた。

城内は丁度その時、混乱状態に陥り、大騒ぎになり、驚き慌てふためいた。即座に一つにまとめて縛り上げ、桑実寺に「そちらに参っている侍女たちを寺より出してください」と使者を遣わされた。すると長老(住職、前住職などその寺院で権威のある僧侶)が「どうかご慈悲でございます。お許しください」とお詫び申し上げたが、その長老共に処罰なされた」



 まず問題の通説で言われる「手討ち」、つまり斬殺、斬り殺したとされる部分ですが、そういう言葉ではなく、「御成敗」と書かれていることが確認できます。


成敗とは、『平家物語』第十巻「先手前」「南都炎上のこと、故入道のせいばいにもあらず」(奈良炎上事件は、故平清盛の政策でもない)

また鎌倉幕府の政令が「御成敗式目」と名付けられているように、元々、法令、政策、それらを基本にし善悪を明らかにし、賞罰の判断することを表す言葉でした。


そこから時は流れ、中世末期のこの頃は、ほぼ処罰の意味で使われていましたし、それには処刑の意味もありました。


ただ手討ち、打首などの死をダイレクトに表すのは、江戸時代も末期が近づく頃になります。



 更にもうひとつ考慮に入れなければならないのは、お城で働いている人達は、江戸期以降のように馴染みの「口入屋」から斡旋された人ではなく、上から下まで家臣かその親族、領民だったという点です。

この「御女房」は、当主やその家族に仕える上級侍女で、基本的に重臣クラスの妻や娘になります。


信長公に限らず、当時の大名たちは、家臣の人心掌握には、細心の注意を払っています。


こと信長公は、家督相続直後に一番家老の裏切りを経ておられ、家臣とは油断ならぬ物であり、女性を含む家臣団の扱いを見ていると、雌伏時代が相当トラウマになっていたことがわかります。


ということで、何をするにせよ、彼らにつけいらせない為にも、家臣たちが納得する、つまり天道的な道理が通る理由がなければなりません。

ですから、現在の通説「信長公が理不尽に激怒して、斬って捨てた」ということは、当時的にはまず有り得ない筈です。


では、これはどういうことか。


 ここで一度視点をかえてみます。

ここの話の特徴は、太田牛一がやたらめったら意味深に行程を詳細に書いている点です。

一度これに沿って見ていきましょう。


安土城から長浜城まで約30キロになります。


当時の馬の速度はどれくらいでしょうか。


常歩(並足)で時速5〜6キロ。人の歩く速度ですね。

速歩で時速13〜15キロ。ママチャリでアスファルトの上を走る速さになります。

駈歩ですと、時速20〜30キロ。

襲歩ですと、時速50〜60キロになります。車の法定速度ですね。しかし連続して10分も走れないと言います。

サラブレッドで訓練している競馬の馬は全速力になると、もっと早いそうですが、戦国の馬がどの程度まで走ったかは分かりません。


当時は常歩と速歩或いは、速歩と駈歩を繰り返して、進んでいたとされています。

ですから単純には言えませんが、この時はお供が信長公と伴走するのに慣れた小姓だけの少人数の行動なので、おおよそ2時間半程度になるでしょうか。

信長公の馬の扱いは優れていたといいますから、もう少し早いかもしれません。


 信長公はほぼ天下人ですが、急ぎの場合、小姓だけ連れて行動することは珍しくありません。天正6年の洪水の折にも、京都にいた信長公は小姓だけ連れて、滋賀県大津市の島ノ関の松本から安土へ向けて急ぎ渡っています。


とりあえず陸上は4時間から5時間程度。


長浜から竹生島までは、船になります。

当時の船の種類ですが、おそらく武家である彼らが持っているのは軍船になるので、安宅船、関船、小早船のどれかになります。

今回は少人数で素早い行動を求められますから、小早船が出されたでしょう。

秀吉たちも警護のため、別に船を出したかも知れませんね。

江戸期になりますが、小早が彦根から大津までの15里を2刻(4時間)で漕いだと言います。


長浜から竹生島まで5里ですから、単純計算すると1時間20分になります。

往復で2時間40分と言った感じですかね。


移動時間は最速で約6時間40分、大体7時間ですが、休憩や道の加減が不明なので8時間位かかった可能性もあります。


長浜での休憩や竹生島の参拝の時間が分かりませんが、少人数で一番身軽に動ける小姓のみを連れて行っていることを考えると、おおよそ10時間、午前中に長浜でご飯を食べたとしても12〜13時間あれば、全行程を済ませることができるかと思います。


この年の4月10日は、西暦に直すと5月12日、日の出は4時56分。普段でもこの時間には、既に起きて着替えを済ませておられます。


日の入りは18時52分。この時間までに帰城すればなんの問題もありませんから、机上の空論な面は否めませんが、開門の朝5時から出発としても閉門まで14時間ほどあり、日帰り説は許容範囲として成り立ちます。


しかし、こんな急ぎで何のために?

不思議な気がします。


 さて、ここで信長公が帰城した様子を想像する為に、安土城の作りを見てみます。


「織田三郎平朝臣信長公記」

名古屋工業大学名誉教授 内藤昌氏 氏による安土城復元

設計 株式会社 文化環境計画研究所 / 製作 京都大学 


安土城跡図


http://www.bisaikou.com/azuchi_nobunaga/nobunaga3.htm


 安土城は焼け落ちていますので、何処に何が建っていたのかというのは、正確には分かっていません。

その為、『信長公記』の天正10年の正月に行われた城内見学ツアーと、ルイス・フロイスの安土城見学を記したものが、当時の様子を伝える数少ない史料になっています。


まず主郭を見てみます。大手道からは二之丸東溜りに入ります。

そこから本丸門を潜ると、正面に見えるのは「南殿なんでん」と呼ばれる建物で、手前に武家の本城の格式に則った遠侍と式台(玄関)が見えます。更に左手に石垣があり、一段高い高台に建っている天主がそびえているのが見えます。


南殿は3つの建物で構成されており、これらは廊下で繋がっていたことが分かっています。

2つ目の建物が南殿の中で1番大きく、それは広々とした書院造りの御殿で、信長公が対面などの公式行事を行い、また公務を行う表御殿だったとされています。

一番裏手の建物は、中庭を挟み表御殿との間に目隠しの仕切り塀があったそうです。

普通の城では、仕切り塀の後ろは常御殿になりますが、そこまでの大きさではなく、常御殿にある中奥と奥御殿は別にあるため、もしかすれば、常御殿にあった殿の休憩所や小姓、侍女たちの宿坊などがあったのかもしれませんね。


この南殿と天主が、主郭、本丸の建物になります。


 この南殿から東南の方角に建つのが、三之丸「江雲寺殿」で、これは会所だったと言われています。


 それから天主の西に位置する二之丸には、以前は清涼殿に似せた御幸御殿が建っているとされていましたが、建築史研究家の川本重夫氏が、現在残っている礎石の位置的にありえないと否定しています。現在これらは「奥御殿」だったとされています。(主郭の建物にも同じ説がありますが、清涼殿の特徴的な構造上あり得ないそうです)


ルイス・フロイス、『信長公記』の話をまとめるとこの天主と三殿はそれぞれ渡り廊下で繋がっていたようです。


 また安土城の道は間道を含めて、大手口から始まる大手道、「信長公記」の天正10年の正月行事で使用が確認され、正式な道と認定されている百々橋どどばし口道、搦手道、七曲道など全部で10ルート確認できています。



 さて、5、6人の小姓を連れた信長公が帰城してきました。

もう夕暮れの頃で、琵琶湖の向こうにそそり立つ比叡山の山々に日は傾き、凪いだ湖面は金の粉を散りばめたようにキラキラと輝き、落日の光が安土城を朱色に染め、天主の瓦は紫色に幻想的に輝いていたでしょう。


田畑には、刈り入れを待つ背の高い麦が、黄金に輝きながら揺れ、その中を騎馬の信長公が安土城の山裾に広がる町屋を過ぎ、武家屋敷を行き、内堀を渡ると山の上まで続く道を登ります。


馬というからには、まずうまやに向かったのではないでしょうか。

現在考えられている公の厩は、三之丸の近くにある独立した部分です。

ここで正月ツアーの時に自ら観覧料を徴収したと言われていますが、ルイス・フロイスが厩には信長公の3、4頭の遊興用の馬がいたとしているので、流石に天下の信長公の馬がそれだけな筈がありませんから、用途別にか厩をあちこちに分けていたと思われます。

当時は遠侍は厩を兼ねていますので、正月ツアーの時には主郭の遠侍で受け取った気もします。


しかしこの時は、佐和山城側から登る搦手道を通り、三之丸の周りに回してある道から南口を登り、三之丸近くの厩を使用されたでしょう。


 信長公は普段天主にいたとされていますから、南口に戻り主郭に入られて、天主に戻りました。

天主に戻って着替えをしたり、飲み物を持って来させようとしたら、いつものお侍女がおらんやないかとなったんでしょうか?


しかし、それで大騒ぎをするなんて、主郭のお侍女さんたち全員、もぬけの殻だったんでしょうか?

あんまり成敗された御侍女さんが多いと、後も大変ですよ?

お側衆の皆様も、こっそり二之丸にいる人々を呼んでやって欲しいものです。


おらんやないかってなって、どこやと言われて馬廻さんや小姓さんたちが、二之丸やら三之丸やら、ワラワラ走って行ったんですかね?


それからの様子を見てみましょう。


「御城内は行きあたり、(口偏に長)へ焦れ、仰天限りなし。」


行きあたりとは、「丁度その時、物凄く、行き当たる」


口偏に長いという漢字は調べたのですが、うちの古語辞典には見当たりません。

一番近いのは、中国の漢字の「こん」で、ギャグや笑い、オチ。これは違いそうですね。

読み下し文にはルビが「もだ」と打たれていて、「もだえこがれる」と読ませるようですが、当時「もへこがる」という言葉があるので、恐らくそっちかな?と思います。


しかし「もへこがる」というのは、例えば嫉妬や怒りで胸がジリジリとして、苦しい状態を表します。

すると、これはちょっとおかしい言葉の選択です。

だからと言って「悶えこがれる」にしても、「安土城内がもだえこがれた」

その上

「仰天限りなし」

文章として大変おかしいですね。これは少し置いておきます。


それから「即ち」、つまり即座に取り押さえられ、「くくり縛る」は束ねて縛ることです。

複数の人達が、あっという間に、その場で鎮圧された感じになります。


 しかし、二之丸ですね。


城郭外ならまだ分かるんですけど、主郭の隣の二之丸にすら、勝手にいったらいけないのですね。


もう夕暮れ時で、当時でいえば武家では2回目の食事を食べているか、そろそろ片付け始めている頃でしょうか。

城主の家族の世話をしていた人たちが、食事を始めていたかもしれませんね。


こんな時間帯に、なんでまた主郭務めの御侍女さんたちは、禁を犯してまで二之丸へ行ったのでしょうか?


それから、二之丸の御侍女たちを縛った信長公は 

「数がたらへんやないか!他の女はどこ行ってん?ごらっ!」

「桑実寺にも行ってます!」

ということで使者を立てて

「出せや!」

と、安土城の約350段の山を下らせて、もう門の閉まる桑実寺の本殿まで、650段の石段を登らせたわけですな。


森長可御自慢の名馬、百段も真っ青ですな。この時の使者は、千段と名乗らせるべきでは。行き帰りで二千段か。生まれたての子鹿並みに、足ガクガクになりそう……


いや、繖山きぬがさやまに展開する桑実寺は恐ろしく広いし、この頃無茶建物建ってますし、何人くらいで桑実寺の何処へ行かれたのかは知りませんが、薄暗くなってきただろうこの時間帯では、正直、逃げ放題、隠れ放題のような。

わーわー逃げ回って、別の方角から、山を降りてトンズラした人も少なくないはず。


ほんと広くて、おんなじ山には観音寺城もあるし、ドヤドヤ軍勢で押しかけないと、ダメな感じの寺です。


しかし信長公なんて、よく城開けてるのに、なんでこのタイミングで桑実寺班はわざわざ参籠に行くんでしょうかねぇ?

何かイベントがあったのでしょうか?


それになんで二之丸と桑実寺ばかりに行くのですか?

参籠なら他のお寺へ行きたいお侍女さんはいなかったし、たまには山や山裾にある実家(武家屋敷)に帰るわって人はいなかったんですかね?


そういう人は免除で、とにかく桑実寺がダメだったんでしょうか?


それとも、お局御侍女が二人いて、二手に分かれて集団行動だったんでしょうか?

信長公御侍女、二大御局の闘い。天辺取るのはアタシ!

実は信長公の留守を狙って、頂上決戦の予定だった?


それにしても何故桑実寺?


全体的に、色々おかしくないですか?


 ところで、ここで質問です。


皆さまは竹生島へ、公が本当に行かれたと思いますか?


やたら太田牛一が、くどいほど行程を詳細に書いた挙句に、

「稀代の題目なり。しかしながら、御機力も余人にはかり、御達者に御座候ところ、諸人感じ奉り候なり。」

と締めています。


この「稀代の題目」ですが、「題目」というのは、ここも大変変わった言葉の選び方です。


これは当時、書物などの表題、能などの演題、それから日蓮系、法華経系の団体で唱える「妙法蓮華経」または「南無妙法蓮華経」の名号を指します。


稀に見る演目(笑


 法華経とは聖徳太子の時代に伝来したお経です。

日蓮宗の開祖日蓮は元々天台宗で学び、一部執筆された論文には、天台宗に弓引く部分がありますが、ご本人は「天台沙門日蓮」と名乗っておられます。日蓮宗は俗に法華宗と呼ばれていました。

また天台宗で学んだ法然が、法華経が大事よね?って浄土宗を開きました。


この浄土宗と法華宗の争いが天正7年(1579)の安土宗論で、日蓮宗の法華宗が敗れています。

比叡山延暦寺と安土宗論ですね。


 少し話はずれますが、法然の弟子の親鸞がそれを更に広げて、その死後に弟子達が集まったのが浄土真宗でこの頃「一向宗」と呼ばれています。

そうですね、顕如と一向一揆で有名な西本願寺です。



 そもそもです。

ご存知のように安土城には舟入がありますから、信長公は竹生島詣には船で行けばいいのに。

わざわざ長浜まで馬でいく理由が分かりません。

5月の半ば、船で揺られていく竹生島詣、いいと思います。

静かな琵琶湖を船で行きながら、青霞む山を眺め呑み食いすればまた一興です。500年後には琵琶湖を眺めながらランチを頂く、ミシガン・クルーズが大人気です。夏場の土曜の夜には花火が上がりまして、それはそれは風流です。コロナが終わりましたら、夏のご旅行には琵琶湖へどうぞ。

さて信長公も折角日帰りなされるのですから、帰りには、当時のことで花火とはいかないでしょうが、周辺の城に灯りを灯させられれば、さぞや幻想的な風景を堪能できたことでしょう。

夕食もここで頂けば、天下人の心地よさが満喫できること間違いなしです。


そんなもん、馬で長浜城を経由していく、と言えばもう、長浜城でお泊まりかな?と思います。普通ね?当たり前です。


なんでわざわざ?


行動には、必ず理由があります。


たまたま竹生島へ参拝に行ったところ……ではなく、何かの始末をつける心算があり、処罰する為の計画を実行したとすれば、どうでしょうか?


 前にも言いましたが、上級侍女の背後には重臣、お側衆の家族がいます。

彼女たちが処罰されても、彼らが納得できる内容尚且つ、天道的に正しいとされる内容でなければ許されませんし、信長公ヒステリー事件を、わざわざ日記でも、軍記でもない『信長公記』の「高天城干殺し歴々討死のこと」の項目に載せないでしょう。


ということは、信長公は5、6人の小姓と共に家臣の城へ向かい、留守居の近習からの知らせを受けて、武装した軍勢を引き連れて帰ったのではないかという仮定が立てられます。


つまり、わざわざ少人数、しかも馬で行ったのは、安土の二之丸や桑実寺の人たちを油断させる為ではないのか。


では信長公は、誰のところへ向かったのか。


この4月10日の翌々日の記事が「若狭の逸見昌経が病死(1月に死亡)したので、彼の知行地のうち5000石は丹羽長秀の小姓の溝口竹(秀勝)が拝領し、高浜城を頂いて、信長公の目代(直臣として取り立てられ、代官)に任命された。また元若狭武田家重臣武藤友益と粟屋元隆の元の所領分合計3000石は元若狭守護大名である武田家当主武田元明(若狭衆として丹羽長秀につけられている)が拝領した」となっています。


つまり信長公が向かったのは、長浜城ではなく、若狭を任されている丹羽長秀の佐和山城で、竹生島事件で彼の軍勢が、何かの手柄を立てたと推測出来ます。

当時信長公は「長浜経由でいく」と言われたのでしょうが、何故曖昧になっているのか。

これは『信長公記』が書かれたのが、秀吉の時代だったからかも知れません。

まぁ穿って言えば、「本能寺の変に、秀吉は無関係ですよ?」というアピールかもしれませんし、実は……かもしれません。


安土城と佐和山城は約20キロ、1時間少々の距離になります。


また4月11日の記事は「小姓頭の長谷川竹と元美濃斎藤家家臣で黒母衣衆にも選ばれた馬廻、野々村正成に褒賞が出た」と書かれています。


 二之丸のお屋敷は、長谷川竹の拝領屋敷ではないかとされている建物と天主の間に建っていました。


この二之丸は詰丸で、出入り口は2つだったと言います。

一つは表の三之御門に出る通路です。

外から言うと大手道から黒金門(一之御門)を潜り、二之御門を通り、二之丸南虎口(三之御門)を潜ると、目の前には正月ツアーで描かれている二之丸東溜りこと、白洲が広がります。

その右手を見れば、二之丸右端の天主の石垣に沿って二之丸御殿に続く通路の扉があったとされます。


出入り口の扉を開けてすぐに土間があり、そして土間の向こうの扉を開くと2間の張り板の間があり、そこから4メートルの勾配を上がる階段があったそうです。

階段を上がると踊り場の向こうに、また扉があり、それを開くと二之丸御殿に続く廊下があったとされています。


そのまま直進すると左手に二之丸御殿への入り口があり、更に直進すると安土城本城の琵琶湖側、つまり南の突き当たりに着きます。


突き当たりを右折して暫く進むと、右手に扉があり、この扉を開けると主郭に入り南殿に至る入り口があり、右手に折れず、そのまま直進すれば台所口部分を跨いで、三之丸江雲寺へ至たる回廊があったのではないかとされています。


二之丸御殿と天主一階部分の高低差は、少なくとも7m近くあり、二之丸にある回廊が天主の石垣に沿ってあることから、直接天主にアクセスするものではなく、先程の主郭の石垣に沿った回廊から主郭に入る通路を経て、天主の正面から入る形になっていたようです。


さて、この二之丸白洲口から入った回廊を半周したあたり、先程の南殿や天主などの主郭に入る扉までの半分程の距離のところに、北の虎口がありました。

ここが二之丸からの二つ目の出口になります。


彼ら2人が兵を率いて北虎口と白洲口を塞いだのでしょうか。


そして安土の山を走る10ルートには、道沿いにそれぞれお身内衆が邸を構えていますから、静かに要所、要所を押さえるのはそんなに難しくありません。


しかし、えらい大掛かりですね。

なんでこんなことを?

お侍女さんたち、すごい敵視されてますね?


敵は本能寺にありならぬ、安土城二之丸と桑実寺にあり?


 二之丸に行ったお侍女さんたちは、なんでこんな目にあうのでしょうか?


二之丸の謎の前に、もう一方の桑実寺を見ていきます。


 さて桑実寺というのは、比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺で、元は同じ山に建つ観音寺城を本城にした六角氏の城下にあり、室町将軍足利家と所縁の深い、とんでもなく広大な寺院です。


ええ、先ほどの「題目」で出てきた、比叡山延暦寺で安土宗論の天台宗です。


最盛期には二院十六坊の塔頭を持ち、更には境内の東南に正覚院という子院があります。

この正覚院は、40余りの末寺を独自に持っていました。この正覚院は、12代将軍足利義晴の仮御所にもなり(1531〜36)、当時は観音寺城主近江守護六角氏によって警護がされて、その折には将軍の婚礼まで執り行ったと言います。

更には義晴の息子である15代将軍義昭は、ここを陣所にして逗留をし、幕府関係者がよく出入りし、宿泊をしました。


ここに信長公は安土城建築時に、太子堂を寄進したそうです。


そして西向きに降りるルートからは、安土城が眼下に大変ハッキリと見ることができます。


こちらはNHKの「日曜美術館」の過去の放送の紹介「日美ブログ」の「第96回 近江八幡へ 後期室町将軍に思いをはせる旅」(2019年8月 4日放送)で取り上げられた桑実寺です。

https://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/sp/400/372487.html


桑実寺から見下ろす安土城の風景や恐ろしく急な階段、「桑実寺縁起絵巻」の一部や観音寺城への道も見ることが出来ます。


 この頃都を追われていた足利義昭は「鞆幕府」を樹立、毛利家も織田家との同盟を破棄し、信長公との戦で敗れた大名の子息や家臣、また没落した幕臣たちが集結していました。

若狭の武田信景(織田家若狭衆武田元明連枝)、伊勢の北畠具親(茶筅丸信雄の養父の実弟)、そして観音寺城元城主六角義堯などがおり、毛利輝元が副将軍として、政令を発布するなど、一時期は勢力を盛り返し「鞆幕府」「安土幕府」と、一種の南北朝時代状態になっていました。


しかし義昭が頼みにしていた元守護職たちが次々と亡くなり、顕如が和睦に応じたことから、信長包囲網が破られて、鞆幕府の情勢は悪化して行きます。



 そういえば、天正8年に追放された林秀貞は、京から縁もゆかりもない広島へ向かっており、お墓は毛利家の広島市にあるそうです。

何しろ筆頭家老ですから、鞆幕府からスカウトされたかもしれませんね。


そうなると、信長公の間者に殺されたのかもしれません。最後まで(クソッ)って感じがして、追放したことは間違いではない気がします。



 ということで、この桑実寺はどういう立ち位置で、どういう人がいたのか、推測が立ちますから、何故信長公が「長老」まで成敗したのか理解出来ます。


ここで疑問です。


何故この日、そんな桑実寺へ行ったお侍女さんたちは、何故泊まろうとしていたのか。


もし単なる報告、密談なら、日帰りをした方が安全です。

信長公やご家族の身の回りに侍る上級のお侍女さんたちは、公の安全の為に一定の管理下にあったでしょう。


また信長公は、何故「泊まりで竹生島へいく」というシュチュエーションをわざわざつくり、一網打尽に押さえ込んだのでしょうか。


それを考えると、公の予定を知ることが出来た上級侍女が、鞆幕府関係者に知らせて、安土城を眼下に一望出来る桑実寺を本陣として、この日、二之丸に何か事を起こすつもりだったのではないかということになります。


つまりお侍女さんは、参籠に行ったのではなく、退避、撤退をし、桑実寺が匿っていたのではないかと考えられます。


 再度二之丸の話に戻ります。


いわゆる「本丸御殿」は、本来は表が政務所、中奥が城主、奥がその家族が日常生活を送っている場所で、そこに小姓や侍女たちも住んでいたりします。


しかし安土城の場合は、中奥は主郭の天主、同じく南殿が表御殿。二之丸御殿が奥御殿で、ここが妻妾の居住区になり、その裏手には侍女さんたちの部屋があったと思われます。


この当時、少なくとも10人弱の妻妾がおられ、今も名前が残っている方々だけですが、11人の子供がいました。

また乳母の養徳院、生母の土田御前がおられたでしょうし、この方々の御付きの人達も住んでいた筈です。


……こんなに住めるか不安ですが、本城で一番広いところなので、住めたんでしょうね。


御侍女さんたちは、何故ここに?


 桑実寺から観察していて、一番異変がわかりやすく、安土城の家臣たちが「仰天」することは、信長公が留守の時に火をつけることだと思います。


信長公の奥に火をつければ、どれだけ騒ぎになるでしょうか。


或いは妻子を焼かれた比叡山が絡んでいれば、大変な復讐にもなります。


 先程申し上げました、「(口偏に長い)へこがれ」ですが、これが「も」と読めるなら、「もへこがる」を漢字で書くと「燃へ焦がる」。これが太田牛一の意図したものではないかと思います。


読み飛ばしがあるかもなのですが、「信長公記」は「火」と「焼」は使っても、「燃」は公の最期もあり禁字になっているかも知れません。

また他の字であったかも知れませんが、「焦がる」だけでも同じ意味になる可能性は高いかと思います。



 さて(燃へ)焦がるの元の意味は文字通り、「(燃えて)焦げる」です。それが年月を経て、心情的な意味合いになりますが、それでは意味が通りませんから、リアルで燃やそうとしたんでしょうね。


そりゃ、焦げ臭い匂いがしたら、ビックリ仰天ですよ。


つまりよく訳文であるように、主語は御侍女さんたちのことではなくて、この原文の主語の通りに「安土城の皆様は」ということになります。


「丁度その時、何かが焦げる匂いが二之丸からして、安土城の本城にいる人々は、ビックリ仰天した」


そら、驚くやろ?


ところで、ここでもう一度読み直してみます。


「御帰り候へて御覧候へば、御女房たち、或ひは 二丸まで出でられ、或ひは、桑実寺薬師参りもあり。御城内は行きあたり、(口偏に長)へ焦れ、仰天限りなし。」


「或いは〇〇、或いは△△」というのは、「一方は〇〇、一方は△△」と訳しますが、通説ではこの分かれ方を「私的な行動の目的地」にしたため、二之丸と桑実寺へ同じように遊びに行ったと訳されています。


その為、主郭務めの御侍女たちの行動に、別の場所に行った人はいないのか、全員が二手に分かれていたのか、また主郭務めの御侍女は他の郭に行ってはいけないのかなどの疑問が出てきてしまいました。


では、この分け方を敵味方として読むと、どうでしょうか。

「一方は二之丸まで出られる。

一方は薬師参りある」


この後、燃えて焦げて大騒ぎの文が付いています。

もしかすると主郭に残っていた御侍女さんたちは、慌てて二之丸へ救助に行ったのではないか。当時の女性は、肝が座り、強いですからね。


つまり、信長公が帰城してご覧になられると、侍女たちは二之丸へ救助にむかっており、残りは桑実寺に行って居なかった。


 そして火をつけた人は、わざわざの二之丸ですから、逃げるふりをしつつ女性たちを人質として、北口から降りて船に乗せて鞆の浦までご案内されるつもりでもおかしくありません。

人質には、生母土田御前がいいですね。


と、ここまで話を進めてて、なんなのですが……


元々の目的という点の話です。

ここが無くても十分だと思いますが、この時期に何故?という部分の考察になります。


もうこれは証明のしようがない話なので、(いやずっとやけど)申し訳ないのですが……


義昭は元亀4年(1573)槙島城の戦いで降伏した折、僅か一歳になったばかりの足利義尋を人質に差し出しました。義尋をそのまま寺に預けた説と共に、義昭を廃将軍とする為に、信長公は手元に置いたという説もあります。


将軍家は、嫡男の長男以外は、仏門に入れるのでそんなもんかもしれませんが、人質になった息子を敵方の手元で生かす為にも、義昭は彼を廃嫡にせず、他の息子は養子に出しています。


もしこれを「病である」として、左義長や馬揃えにも出さなかったとしたら、鞆幕府は確認しているうちに、救出の方向に心が動いたかもしれませんし、御侍女さんたちは逃げるついでに「薬師寺参り」ありでしょう。


火事から逃れる体で安土の舟入から船で大津へいけば、昔から若狭、大津、堺、瀬戸内海というのは、物流のルートが確立されていましたから、後はなんとかですね。

薬師寺参り班と共に、舟班いたのかもしれませんね。


 では、これだけのことをする場合、大将はお寺の住職が担うでしょうか?


大将は別にいるような気がしますね。

この人が秀吉関係者だった為に、話がお手討ち事件になっちゃった可能性がある……かも知れません。


これもちょっと分からないですが、信長公が無茶苦茶嫌ってた、甲斐武田家の取次だった反信長の旗手で、義昭の若衆上野秀政あたりだと、丁度武田方の高天神の干殺しからの流れですし、面白いなとは思っています。

秀政は不明の部分が多いのですが、元亀3年1月18日に比叡山焼き討ちに関して、義昭の御前で、武田信玄の肩を持って、信長公の肩を持った細川幽斎と激論を繰り広げたと言われています。


秀政の父親(養父)は天正3年に信長公に転仕し馬廻を務めており、本能寺後は秀吉に仕えて黄母衣衆になったそうです。


細川家史によると、上野秀政の養父は、無理矢理義昭に、寵童堀弥八郎(秀政)を押し付けられたらしく、秀政にはとんと愛着はなかったようです。


秀政は天正8年頃、九州に行った頃から姿を消し、秀吉が天下を取ったあたりにまた出てきますが、彼本人か……よくわかりません。


 ではそれに対抗した信長公は、どうだったのか。


 光秀の坂本城、信澄の大溝城、秀吉の長浜城、そして信長公の安土城は、琵琶湖を囲み、美しい菱形を描いて配置され、それぞれ船で行き来できるようになっていました。

もしかすると、この辺りも「安土包囲網」の臨戦態勢を取っていたでしょう。


更に安土城建設前後には、湖賊や琵琶湖の水運、漁業に関わる方々を押さえ、琵琶湖を運航する船、その湊は織田家の監視下にありました。


琵琶湖の湖面には「安土城からの舟」が逃亡を防ぐために、並んでいたでしょう。


 そして軍勢を率いた丹羽長秀は桑実寺へ向かい、信長公は安土に戻ります。


桑実寺からは安土城はとてもよく見えますから、愛知川を渡った辺りで分かれ、長秀は尾根を挟む観音寺城側から桑実寺へ向かいます。


その頃、信長公は一気に琵琶湖側の道を、安土へ向かいます。

町屋を抜け、武家屋敷を過ぎ、安土山を登り始めると、公の通った後を、邸から出てきた近習たちが道を塞いでいきます。

うまやには二之丸と反対側の道を進みますし、馬は途中で降りたかもしれません。

信長公の帰城は、二之丸放火犯たちや見張りには知られなかった可能性が高いでしょう。


この犯人は何処に火をつけたのでしょうか。

夕刻なら、食事関係の台所や台盤所でしょうか。

二之丸に台所の有無は分かりませんが、もし台所があったとしても、非常に人目が多いですし、時間的に締められている可能性があります。

しかし台盤所、膳所は確実にあるでしょうし、ここなら火を使っていても怪しまれません。


そうすると、側室たちの食事の世話をしていた上級御侍女たちや小姓たちが別室で食事をとったり、早めに済ませた人は主人達の側に侍り、中級侍女たちが着替えの準備をしており、下男や下女たちが井戸端で洗い物をしている頃、そして閉門に向けて、馬廻たちが見廻りを始めた頃になるでしょうか。


放火犯はお湯を沸かす体で、台盤所に入り火を出したのかも知れません。


火がつくと、第一発見者のふりをして「火事だ〜」と叫べば、二之丸は混乱状態になり、信長公の家族を逃そうとするでしょう。


あらかじめそれを知っていた信長公は、静かに主郭に入り、近習たちを引き連れて、回廊から二之丸へ向かわれ、押し入り犯人を直ちに束ねて縛り上げさせます。


この縛り上げた放火犯は、御侍女とは限りません。この頃の奥は男子禁制ではなく、少なくとも若君の乳兄弟を含む御伽、小姓や傅役、小者たちがウロウロしていました。

夜がどうかは、定かではありませんが……


 さてその頃静かに桑実寺を取り囲んでいた丹羽長秀は、安土からの使いを受けて、近習たちを連れて桑実寺本殿へ向かいます。

小姓が口上を述べ、「長老」と押し問答になり、そして丹羽軍が桑実寺に襲いかかったのではないか。



 ところで先に申し上げましたが、武家の使用人というのは、家臣、領民の家族です。

特に重臣たちにとっては、息子を近習に、娘や妻などは侍女にあげて、殿のご意向を伺うことのできるルートを確保するのは、個人の業績が家格に跳ね返ってくる当時、非常に好まれるやり方でした。

また新参の家も同じように人質に妻子、または親を差し出しました。


例えば側室だったのではとまで言われている光秀縁者の「御ツマキ」という、高級侍女がいます。

彼女は信長公に非常に気に入られ、亡くなると光秀が力を落としたと言います。

これは亡くなった時期を考えると、光秀が出仕した折に侍女として出した、光秀の正室妻木氏娘煕子ではないかと思われます。

ここまでしたからこそ、光秀の立場があり、活躍もあったのかもしれません。


彼、彼女たちは実家が裏切らないという担保にもなっていました。

つまり実家が裏切った場合は、手討ちにあっても仕方がないし、彼らが裏切った場合は、実家まで処分されても文句は言えないという常識があった訳です。


この竹生島事件があった後、織田家から他所の家に転仕したという家はありません。


ということは、あたかも侍女たちだけが粛清されたように読めるのですが、実は桑実寺と共にその実家、あるいは近習が粛清されたのかもしれませんし、放火犯も桑実寺へ行った人も、そんなに大人数ではないと思います。


 ではこの桑実寺へ逃げた侍女たちは誰なのか。

って、これはね、牛一があえて名前を出してないので、ここではちょっとわかりません。

林秀貞の娘や孫かも知れませんし、佐久間信盛関係者かもしれませんし、足利義尋関係者かもしれませんね。

また別方面から掘っていきます。


 この竹生島事件は、4月10日に公が行われたトピックとして書かれてはいますが、くくりとしては「天下布武」の流れからくる「高天神干殺し歴々討死のこと」であり、その結末には「本能寺の変」があります。


太田牛一は、高天神城に於ける勝利を讃えるにあたり、まず三河の鷲塚、土呂の本宗寺(現土呂八幡宮)などが、の支援での三河一向一揆を続けたのを押さえたこと。

それからとの三方ヶ原合戦、長篠合戦でのお手柄一方ならず!と褒めたたえています。


でも三方ヶ原の戦いって……家康、ボロ負けの戦さでは?おかしくありませんか?


この三方ヶ原の戦いこそが、将軍義昭が本格的に信長公との離反を考えた戦と言われています。


ですから、その原因となることが、(収束はしてないけど)ここで一段落したよという話で、そのあたりに処罰された人たちの素性があるのかなと思います。



 まとめるとおそらく鞆幕府側に内応者がおり、桑実寺のこと、家臣が二之丸に火をつけること、その時間帯は知っていたのでしょう。しかし処罰した場合周囲が納得するほどの証拠は持っていなかった為、こうした罠をはったということになります。


こうした陰謀を茶番によっておさめたことを太田牛一が

「稀代の題目なり。しかしながら、御機力も余人にはかり、御達者に御座候ところ、諸人感じ奉り候なり。」

と示した内容ではないかと思います。


言ってみれば、「竹生島詣をするよ!」と、二之丸まで焦がしちゃう大掛かりな茶番劇をするなんて、まぁ上様ときたら、相変わらずお達者なものよと皆で苦笑したよという感じかもしれません。

そうなると太田牛一的には、信長公の残忍さではなく、相変わらずの大胆不敵なヤンチャさを懐かしんで書いた台詞だと思えます。


まぁ真面目な部分としては、竹生島事件というのは、実は鞆幕府の足利義昭、そして本山を叩かれた天台宗との攻防戦の一部で、本能寺への一歩だったのかも知れません。


という考察でございました。

長々と読んでくださり、ありがとうございます♪

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