林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝の追放の考察

(この考察は「佐久間信盛の追放」が続き、更に第二部が「竹生島事件の考察」になります。)


天正8年8月、林佐渡守秀貞、佐久間右衛門尉信盛、安藤伊賀守守就、丹羽右近氏勝が織田家から追放されました。


このうち、佐久間信盛を別にして三人の追放理由を考えてみます。

毎度のことですが、この考察は一素人の意見であり、こう考えられるかもね?というエンターテーメントとして、受け止めてくださいますようお願いします。


まず、彼らについてザックリと見ていきます。


✳︎丹羽氏勝

大永3年(1523)〜慶長2年(1597)

一色氏である丹羽右近氏勝は、忠臣丹羽長秀とは別の氏族で、古くから織田弾正忠家と関わっている岩崎城を本城とする国衆です。

まず彼の姿は『信長公記』の首巻で、尾張の要所守山城に見る事が出来ます。ちょうど信勝と相争っている頃、守山城二代目城主織田信次(信秀弟)の家臣が、信秀の側室腹の息子である秀孝を誤射し主従共々逃走すると、信長公の軍勢と信勝の軍勢が守山城に押し寄せ、篭城戦になった折に、その家臣団の中に氏勝の姿があります。

その後信長派の兄織田秀俊が入城しますが、弘治元年(1556)、秀俊を謀殺する仲間に、氏勝も加わっていたとされています。

首謀者である角田新吾は稲生合戦で討死しますが、氏勝は生き残り、信長公の馬廻として各地を転戦しました。


追放後は各地を転々としたと言います。息子は追放されておらず、本能寺の変後には息子の城へ入り、徳川家康に出仕しました。


✳︎安藤守就

文亀2年(1502)?〜天正10年(1582)6月8日

彼はかの有名な西美濃三人衆の一人で、斎藤道三の重臣の一人でした。彼が最初に姿を表すのは、天文23年(1554)の村木砦の戦いで、信長公が道三に要請した那古野城の留守居のために、尾張へ派遣された場面です。

その後、道三が隠居後、長良川の戦いが起こると西美濃三人衆は義龍側につき、道三に引導を渡しました。義龍は桶狭間の翌年急死しますが、その後を継いだ龍興には従わず、信長公に内応し美濃を滅ぼす要因となりました。彼は稲葉山城を乗っ取った竹中半兵衛の岳父で、行動をともにしています。

龍興は諸説ありますが、義龍の嫡男ではなく、嫡男が亡くなった為に跡目を継いだというのがどの説も同じです。

斎藤家の衰退に関して、主家を滅ぼしたり、殺したりした時の常套句の一つ「主君のえこひいきした」が使われています。

つまり龍興の凋落には、家臣側の謀略があった事がわかります。

追放後、守就は本能寺の変の後、息子と挙兵して、稲葉良通が拝領した、元の自らの城である北方城を襲い、反撃に遭い、6月8日に一族共に自害します。弟の孫が生き残り、江戸期も生き延びています。



✳︎林新五郎秀貞

永正10年(1513)〜天正8年(1580)

言わずとしれた信長公の一番家老です。

信長公の家督相続後の敗戦から叛旗を翻し、稲生合戦で信勝に勝つまで、暗殺計画を立てたり、敵に内応して戦さをしかけるなど、散々な目に遭わせています。

稲生合戦以降は武将として出陣することなく、従軍する場合は軍監に任命されています。

軍事力を持たない家宰として、大人しく従いました。


追放後は、そのまま京都に滞在したとも、安芸に向かったとも言いますが、2ヶ月後には亡くなったとされています。


皆、尾張一国時代からの家臣です。


 さて佐久間信盛を追放した後、8月17日、京都にいた彼らと会うために信長公は大阪を立ち、自ら追放を伝えたと言います。

『信長公記』には、その理由を

「先年信長公御迷惑の折節 野心を含み申すの故なり」と書いてあります。


御迷惑とは当時「途方にくれること、戸惑うこと、当惑すること」を表す言葉になります。

似た言葉に「難儀」がありますが、「苦難、苦しみ」で「困難であること」を表しています。あるいは「御難」、「御不自由」などもありますが、ここでは「迷惑」が選ばれています。


これらは同じ心を煩わせる出来事ではありますが、「迷惑」とは困惑させられることで、心の動きとしては「あれ?どうしてなんだろう?」と裏切られたような感じだったり、不可解な気持ちになったりすることを表しています。


信長公が「どうしてこのような事が起きるのか。どうしてこの人はこのようなことをするのか。

このように当惑をされる事があったその時には、彼らが『野心』を心中に抱いていた」


つまり過去信長公にあった理不尽な出来事に関して、この面々が直接の原因かどうかはさておき、少なくとも野心を持って関わっていなければ、ここまで悩まされることはなかった。」

つまり

「お前らの言動は、信用ができない」

という判断がくだされたということではないかと考えられます。


 何故彼らの言動は、信用できないとされたのでしょうか。

実は彼らには一つの共通点があります。

彼らは、林秀貞の謀反によって生命を脅かされている間、味方になってくれていた人達を殺していることです。


丹羽氏勝の、信長公連枝織田信時(秀俊)

安藤守就の、信長公岳父斎藤道三


林秀貞はもう、ね。

傅役平手政秀を始め、多くの人が亡くなりました。

特に村木砦の戦いでは多くの近習が亡くなっており、信長公が涙している姿が書き残されています。

静かさの訪れた戦さ場で、落日の朱色の光の中、折り重なるようにして倒れた兵士を一人、一人、起こして顔を確かめながら、慟哭する信長公の姿を、まだこの頃は家臣では無かった太田牛一が、悲痛そうに、かつ詳細に書いているのは、ここに至る伏線ではないかとすら思えます。

また林らに担がれ、挙句に母親と家臣に裏切られ、兄である自分に殺された信勝に、同情を感じていたかもしれません。


信長公がこの時期のことが、相当トラウマになっていたのではないかと思える事が、公の閨閥を含む家臣団に現れています。

閨閥についてはまた、別に書かせていただきます。


 信長公の晩年の一軍を任せる大将たちは、明智光秀を除いては、尾張一国時代から従っている家臣か、その息子です。

更に重臣と呼ばれる家臣は、林秀貞、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀。

明智光秀を除けば、全員清須入城前後までに出揃っています。


つまり確かに様々な武将たちが登用されていますが、それは織田家が領土を広げて大きくなっていき、そこの家臣たちが自ずと吸収されて行った側面が強いのではないでしょうか。


しかし織田家の屋台骨は、基本的に上記のように不遇時代に公を支えていた人達でした。


秀吉に関しては別項を設けますが、彼は犬山織田氏を継いだ信貞に家臣化した木下家の息子で、家督相続争いに負けた信時と共に那古野へ向かい、守山で主君が謀殺されると、信長公の家臣になったのではないかと考えています。

そう考えると、戦功もなく突然宿老格として書状に現れるのも理解できます。


 では、柴田勝家や西美濃三人衆の他の二人はどうなのでしょうか。


西美濃三人衆のうち、氏家は追放当時既に亡くなっており、稲葉良通は義龍の叔父にあたります。むしろ義龍の連枝として彼を支えて、旧主と刃を交えても仕方がないとされる立場でした。


同じ裏切りでも、質が違うのではないかという気がします。


柴田勝家は、なんだかんだと言いつつ、信勝を説得して、弾正忠家の当主としての信長公の命令に従っていますし、稲生の戦いでも、二つ名を持つ猛将のくせに、信長公を目前にして兵をひいています。

もしかして、内応をしていたのではないかと思われます。



 確かによく言われる20年以上前のことを今更……かも知れません。

ですが、この出来事を時系列で見ると、何故この理由で、この時期に彼らを追放したのか、よく分かります。


長年続いた石山本願寺戦が終結し、畿内を手中に収め、天覧馬揃え、相撲会、左義長、治天の君としての階段を登り始めています。


信長公は天下掌握に向けて、幕府の人事を考え、身辺整理を始めたとしてもおかしくありません。


「言動が信用できない」彼らに居場所は無かったのでしょうし、心情的に考えれば「もしアレらがおったなら」と失った近習たちや連枝のことを思い出すことがあったのでしょう。


城内で作られた食事に混ぜられる毒。

城郭内で斬殺や領地で射殺される恐れ。

日々生命の危険に晒されて、嵐の中の雛鳥のように身を寄せあい、凌いでいた頃、おそらく彼らは、尾張統一、天下統一の話をして、結束を固めていたことでしょう。



本来一番力になり、支えなければならない立場であったはずの一番家老林秀貞。

信長公にとって、兄弟のうちただ一人、自分に寄り添ってくれていた兄の信時(秀俊)が城主として入城すると、主君となった彼を謀殺した守山城重臣丹羽氏勝。

旧恩を忘れ隠居の旧主とのかすがいになる事もせず、叩き潰した挙句に、齢14歳の龍興が立つと、ここでも掌を返した斎藤家重臣安藤守就。


年月というより、がむしゃらに走り抜けていた時期を過ぎ、あの日の夢が叶いそうになって、ふと立ち止まって振り返った時だったからかも知れません。


幕府を開くという大きな夢を実現する時に、純粋な忠義の心ではなく、権力への野心で付き従っているかもしれない彼らを置くことは、ヒビの入った岩を基盤に置くようなことにならないかと考えることは、当たり前のように思います。



 林秀貞は、追放の前、安土城の天主に長谷川与次と共に招かれました。


長谷川与次は幼名ですので、父親の信秀の小姓だったのでしょう。

その後彼は信長公の近習になり、亡くなった弟長谷川橋介の代わりに、公を支え続けました。

また最後の小姓頭長谷川竹の父親になります。


鏡のような美しい湖面を眺め、一体、彼らはどのような話をしたのでしょうね。


もしかすると、最早記憶にしかいない勝幡城や那古野城の人々の話を、懐かしく静かにしたのかもしれません。


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