信長公「事件」の考察

浅井長政の箔濃髑髏の考察

 浅井長政といえば、信長公に髑髏盃にされ、それが本能寺の変の遠因になったという逸話が流布されていますが、それは有名な小説家の創作であることをご存知のことと思います。


この件に関して、『信長公記』にはどう描かれているでしょうか。


『信長公記』巻七

「朝倉義景、浅井下野、浅井備前が三人が首、御肴の事」


「正月朔日 京都近隣の面々等 在岐阜にて御出仕あり。各々三献にて、召し出しの御酒あり。他国衆退出の己後、御馬廻計りにて、古今に参り及ばざる珍奇の御肴出で候いて、又、御酒あり。去年北国にて討ち取らせられ候

一 朝倉左京大夫義景首 一、浅井下野、首 一、浅井備前、首

己上三ツ、薄濃にして、公卿に据ゑ置き 御肴に出だされ候て、御酒宴。各御謡、御遊興。

千々万々。目出たく、御存分に任せられ、御悦びなり」


「正月元旦、京の近隣の武将たちは岐阜に居られ、城に出仕された。

それぞれが三献の儀を信長公より賜った。


外様の武将たちが退出した後、御身内衆だけになると、宴席に未だかつてない珍しい余興が出され、また酒席がもたれた。


それは去年北国で討ち取られた朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首級で、これらを三つ、漆を塗り、金銀の粉や箔を貼り、公卿(大将級の首級改「対面」で使用される首用の台)に据え置いて、余興に供されて酒宴が行われた。


皆、謡などをし遊興を堪能された。

全くをもってこの上なく、めでたく、思うがままに楽しまれた」


この箔濃はくだみの件は、古代中国まで遡り、相手方の武将の武功を称えるためであるとかアレコレ擁護されることがあると思います。

確かにそうかもしれません。

しかし、それならわざわざ他国衆を退出させた後、出してこなくても良かったのかなとも思います。


髑髏を酒席の余興に出すことの善し悪しは別として、信長公をはじめ御身内衆の皆様は、この三人を討ち取ることができたことを非常に喜ばしく思っていることがわかります。


 ところで、家康の家臣大久保彦左衛門が書いた『三河物語』に、信長公のこのような逸話が載っています。


天正三年(1582)の武田家滅亡の折の話です。

届けられた武田勝頼、信勝父子の首級に対面した信長公は、以下のように言われたそうです。

「日本に隠れなき弓取りなれ共、運が尽きさせ給ひて、かくならせ給う物かな」


「日本に名を知らしめている有数の武将であるけれども、運が尽き、このようなことになられてしまったのだなぁ」


死者に対する手向けの詞という部分もありますが、勝頼に対して非常に同情の趣があります。


 しかし、こちらこそ天下に隠れなき弓取りの甲斐の虎、信玄公に対してはそうではありませんでした。


 武田家とも浅井家同様、婚姻関係を伴った同盟を結んだことがありました。

しかし元亀3年(1572)、信玄の依頼を受けて、武田、上杉の和睦交渉を進めていた信長公に通告無く、信玄が三河侵略を起こすという裏切り行為により、この同盟は破棄されました。


元々、信玄が依頼した和平交渉は、家康と同盟を結んでいる信長公と謙信を騙し、積年の恨みを持つ家康を叩く為の謀略だったと言われています。


この時、信長公は怒りを顕にし、『武田家滅亡』(平山優著)によると

「謙信への書状(十一月二十日付)で甲越和与のために義昭と共に努力していたのに、信玄の所行は前代未聞の無道さであり、侍の義理を知らぬことだと吐き捨て、今後は未来永劫、信玄とは二度と手を結ぶことはないと述べ、信玄への憎悪を「幾重も遺恨更不可休候」と強い文言でぶちまけた」としています。


戦国大名は、神の加護を受けるために、いかに相手が極悪非道であるかを声高に広く天下に知らしめ、相手を貶めることで自分は相手とは違うこと、それどころか自分は天道に叶う行いをしているかをアピールするのも仕事のうちですので、本当にここまで怒ったのかは定かではありませんが、なかなかのお言葉です。


 また延々と争い続けた今川義元とは、朝廷を介して何度も和平を結んでいましたが、何回目かの破棄後の桶狭間の合戦で義元を討ち取ると、千僧供養をし、今川家の家臣にも念入りに引出物を渡し、僧侶をつけて丁寧に首級を返しています。

もし在りし日の勇姿を箔濃にして称えたいなら、この時期、街道一の弓取りと呼ばれた義元以上にふさわしい方はおられないでしょう。


しかしその首級はあまりに腐敗してしまったので、駿河まで持って帰れず、途中で塚を築き僧侶をここで永代供養するように留め置いたと書かれていることから、箔濃にはしていないようです。


 更にまた拡大していく織田家では、家臣の謀反は再三起こっています。

「予を裏切ればこうなるぞよ」と畏怖させる目的があれば、毎回何らかの処置を取るはずですが、磔、獄門という記述が見られるのは、連枝、連枝格の家に限っているようです。


 普通、軍を動かす場合、同盟相手に対しては事前に報告をします。

報告された大名や武将たちは、武運を祈り、何かしらの品物を送ったり、自領を通過する場合は物資の供給を手伝ったり、彼らに便宜を払うように国内に通告を出します。


また同盟を破棄する場合は、手切れの一礼を入れ、もし偏諱を受けていればそれを返し、証人を取っていた場合は証人を、婚姻関係を結んでいた場合は子供を残して奥様や養子を返します。


そうした手順を踏むことが、敵対することになっても侍の義理でした。


そう考えると、浅井長政は同盟相手に通告せず軍を動かした上に、相手の背後を突いたわけですから、当時としては信玄以上の極悪非道な行いです。

しかも婚姻関係を結び、対面で盃を交じわせている仲ですから、そんなに易々と同盟を破るなどあり得ないことだったのです。


更には、その後も返すべき市姫を小谷城に留め置き、信長軍が城を攻撃しにくいように計っています。


戦国期というのは、立場、地位が脆い時代だったからこそ、こうした形式は同じ時代に生を受けて、役割として生を全うせざるを得ない大名、武将が、人間同士としてお互いの立場を理解し、尊重する行為だったのではないでしょうか。


 ではともに髑髏を晒された朝倉氏は、どうでしょうか。


先ほどの三河侵攻の折に、信玄は石山本願寺と朝倉家と同盟を結び、信長包囲網の基を築いて、家康の救出に信長公が易々と動けないように策略を巡らせています。


しかし、例えばその石山本願寺の顕如にしても、和平を結んでいる時には、鶴などを贈り労っていますし、敗北後退去した後何かしたという話は残っていません。


ですから、一緒くたにされるには、やはり浅井長政の所行が影響していると考えられます。


信長公は喧伝されているほど、当時の秩序や常識を破壊するような破天荒な人物ではなく、たしかに柔軟な思考のできる頭の良い方でしたが、信心深く当時の常識である天道思想の規範の中で行動をされておられます。


つまり、そこまで浅井長政の行動は、信長公と彼を支えて来た身内衆にとっては、酷いことだったのではないでしょうか。


 この三人の髑髏を首級改の対面で使う公卿に乗せたというのは、形式的には整っていると思います。

そして、その髑髏を前に盃を交わし、宴会を張るというのは、浅井長政に蔑ろにされた信長公、そして尾張衆にとっては、潰された面目の回復という意味もあったのではないでしょうか。


 では、なぜ髑髏に漆を塗り、箔を貼ったのでしょうか。


推測の域を出ないことではありますが、連想することがあります。


それは「首級を改める③」のところで紹介した「行器ほかい」です。


首級改をした後、首実検、対面に相当した首級は、首桶に納められます。

普通首桶は、檜、杉を薄く削り取った白木の板で作られます。


その中で漆塗をされたものを「行器」と呼びます。

それは朝敵、その一門の首級に限り使われるものでした。

行器は赤漆で塗られたり、箔を押すこともあったようです。


ところで、食べ物を運ぶための曲物も「行器」と呼ばれますので、ここは注意が必要です。

ここで少し「行器」について説明したいと思います。


 「行器ほかい」は祝言職ほきひとから来ています。

祝言職というのは、平安前あたりから邑から邑を巡り、人生の節目節目に行われる行事を執り行い、災いを予防して福を招き、厄を払ったりしていた人々のことです。

神楽を舞い唄い、お札を配ったりしていました。

これを一般人が真似をしたのが、巡礼であるとも言われている、古くからある職業で、もしかすると確認できているよりも、かなり昔からあったのかもしれません。


この祝言職ほきひとが、時代と共に「ほかひびと」と呼ばれるようになり、乞食者という表記になっていきます。


能楽者を河原乞食と呼ぶのは、このあたりから来ているようです。


江戸期に於いては、祝言職は長屋の住人が、牛頭天王のお札を売ったり、店の軒先で祝いの祝詞を唱えて小銭稼ぎの仕事としている姿が見られ、町内をめぐる獅子舞や猿芸という形で昭和まで続いていたようです。


さて、彼らが持っている容器が行器ほかひと呼ばれるものでした。


当初は神具、あるいは魂や本尊、あるいは払った禍を運ぶもので、それが神聖な「髪上げ」にも使われる櫛やそれに関連する道具も入れられるようになり、そこから儀式に使われる神饌、神仏への捧げ物が入れられるようになり、弁当箱になったり、武家社会では首級桶に発展したと言われています。


戦国期には、首級桶の中で漆塗をしているものだけが「行器」と呼ばれていたように記述されていますが、元は首級桶は全て「行器」で、戦国期にはたくさんの首桶が必要になったせいか、白木の首桶が別になり、江戸期に至ってはまた首級桶自体が「行器」とされていたようです。


もしかしたら、戦国期でも保守的な関東地方では「行器」と呼ばれていたかもしれません。


何故、朝敵とその一門に、漆塗の首桶を使われていたのでしょうか。


縄文時代の話ですが、石川県輪島漆芸美術館の四柳嘉章館長が、講演会でこのように述べておられます。

「カブレを引き起こす漆は非常に怖いというので、破邪、魔除けの意味もあった」


それとともに、まるで鏡のように深い光を放つ漆に、特別な力を昔から感じていたのではないでしょうか。

更には漆には防菌作用があり、水や食べ物を入れていても腐りにくいという特徴があります。それもまた不思議な力があると感じられていた可能性もあります。


例えば興福寺の阿修羅像が麻と漆でできているのをはじめ、多くの仏像には漆が使われています。

これもまた、仏像に特別な力を宿させ、見る人がそれを感じるよう使われていたと考えられています。


ということで、朝敵とその一門の怨念を封じる役割を、漆がしていたのでしょう。



 つまり信長公は、別段相手の在りし日の勇姿を称えようとして箔濃の髑髏を作成した訳ではないのではないかなと思います。


おそらくは浅井、朝倉の穢や災いを受けないよう、封じる為にではないでしょうか。


あまり趣味の良いことではないとは分かりつつ、浅井長政から受けた非道な扱いによる悔しさを共有しているお身内衆と、怨霊を封じた箔濃の髑髏を飾り宴を開くことは、ちょうど膨張期に当たり、外様が増えていっていた織田家中では、尾張一国時代からの主従の絆を堅くする良い機会になったのも見逃せません。







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