比叡山焼討と日吉神社

 元亀2年9月12日(1571.9.30)に行われた「比叡山延暦寺焼討ち事件」の考察になります。


今では信長公の残虐性、無神論などの根拠としてあげられ、光秀の謀反の原因とも言われることもあります。


あるいは本道を踏み外した延暦寺の僧侶へ鉄槌を下した、と書かれているものもあります。



 ところで延暦寺は信長公の焼討ち以前に、2回焼かれています。


 1回目は、永享7年(1435)、153代天台座主を勤めた六代将軍足利義教が、将軍職就任以来服従を求め続けますが、それをことごとく拒否されたことに業を煮やし、4人の高僧を上洛させ斬首。24人の僧侶が抗議のために延暦寺の根本中堂に篭ると、それに火を掛けました。それを見た僧達が次々に焼身自殺を計り、本堂の多くが焼け落ちました。

簡略にまとめましたが、寺領を差し押さえ干殺しにしようとしたり、に火を掛けたり義教の攻勢は凄まじく、流石の延暦寺も降伏せざるを得ませんでした。

従順になった延暦寺に、義教は根本中堂の再建を援助しました。(1453年再建)


 次は、明応8年(1499)「その時歴史は動いた、戦国男色考」でご紹介しました細川吉兆家最後の嫡流細川政元が、明応の政変で追い落とした10代将軍足利義稙(義材、義尹)を支持した延暦寺に、7月11日、火をかけ、根本中堂を含む主要伽藍は焼け落ちました。ちなみに信長公が焼討ちを仕掛けた時にはまだ、完全には再建はされていなかったそうです。

実は妙応の政変で命辛々京を脱出した義稙は、畠山氏の所領の一つの越中に逃げ込み、加賀守護冨樫氏、越前守護朝倉氏の援助を受けて、延暦寺を取り込んで「政元包囲網」を画策していたとされています。


 延暦寺といえば、南都北嶺(興福寺と延暦寺)の強訴で有名です。

この強訴は非常に厄介なもので、白河法皇はこれに対抗する為に北面の武士を設立し、それによって平氏を始めとする武家が台頭し、後に平氏によって南都は焼かれます。

方や北嶺の延暦寺は、白河法皇をして「天下三不如意」と嘆かせました。

我が思いのままにならぬものは山法師(延暦寺僧兵)。他は鴨川の治水と双六すごろくさいの目ですから、延暦寺の強訴は相当な負担だったのでしょうね。


この寺社強訴は、信長公の延暦寺焼討ちからピタッと止みます。

何故でしょうか。

これは「織豊期の武家の権力が寺社を上回ったせい」とか、「公家文化から武家文化へ」、あるいは信長公の無神論と言われるところです。



 南都北嶺の強訴というのは、学校でも習った事と思います。

南都は興福寺が春日大社、北嶺は延暦寺が日吉神社の、日本古来からの神威を利用して、僧兵たちが神木や神輿を押し立てて、時の権力者の元へワァワァ押しかけ、無理難題を突きつけることを言います。怖いですね、モンペじゃなくて、Monster religionでしょうか。


白河法皇の嘆いた延暦寺の強訴は、延暦寺を焼いても、焼いても続きますが、たしかに信長公に焼討ちされるとピタッと止まります。


また南都の興福寺と春日大社は、全焼後も不死鳥のように蘇り、強訴を繰り返しましたが、延暦寺と日吉神社は、信長公の焼討ちで日吉神社が全焼すると、そのまま鳴りを潜めました。


 そうなんですね、信長公が執拗に焼いたのは延暦寺ではなくて、比叡山の山裾のの日吉大社で、奥宮まで焼き尽くしています。

第一回目の延暦寺焼討もを焼くと、かなり抗いましたが降伏しました。

第二回目は延暦寺の主殿を焼き尽くしましたが、降伏しませんでした。


何故でしょうか。


 日吉神社は、戦国当時「ひえ」と呼ばれていました。漢字は様々ですが、ここではその中でも一般的である「日枝」と称します。


 古事記にもその名を見ることが出来る日枝神社の御神体は、比叡山(日枝の山)の山主神であり、山王信仰の基となる神社です。

これは比叡山に延暦寺を建立した最澄が、日枝神社を、唐の天台宗の総本山に祀られている守護神の一体「山王元弼真君さんのうげんひつしんくん」になぞらえ、「山王権現」としてまつった、当時の神仏皆合の信仰形態でした。


 ところでこの日枝神社というのは、古来より「金融関係のネットワーク」の一大拠点だったといいます。


 元々神社には「初穂米」と呼ばれる、その年に採れた米が奉納されます。この米を神社は保管して、次の種蒔シーズンにはその一部を貸し出すという形をとっていたそうです。


このシステムは律令制度が制定されてからも存続して、都から派遣され荘園を管理している、国家公務員の国司のいる役所である国衙こくが、あるいは荘園自体に「種籾たねもみ」を貸し出していました。


勿論農家の皆様も種籾は、おうちの梁のところに引っ掛けて取り置いていたと言いますが、何しろ毎年春先に餓死者が出ます。


せっかく取り置いておいても、撒く人がいなくなったのでは話にならないでしょうから、食べてしまいます。


こうしたリスク管理として、神社は種籾として預かり、利息をつけて返してもらうことをしていました。


これが金融の始まりです。


数ある神社の中でも、この日本書紀の昔より中国と朝廷との貿易と交通の要所にあった日枝神社は、殊の外、繁栄していました。


 保延二年(1136)の明法博士たちの文書に「日枝神社大津神人ひえじんじゃおおつじにんが受領に、国に収める為の米を手形によって貸した」という記録を残っています。


つまり神人(神社に所属している下級の神官、役人)が、受領達から渡された手形を片手に、納めるべき税金を現地まで行って徴収していたということです。

これが何故できたのかというと、神人たちは足を確保できていたという事があるでしょう。


当時の日本は今とは違い、水運が非常に発達し、12世紀には廻船の組織が出来上がっていました。その大動脈が若狭→琵琶湖→大津→京。北九州→瀬戸内海→京だったと言います。

そのうち、大津神人は前者のルートを押さえていたと言いますから、その繁栄ぶりが想像出来るというものです。


しかも、その現地での徴収をするための手形は、神人同士で譲渡もあったようで、各地の神社における下級役人である神人たちが、金融ネットワークを張っていたことがわかります。

室町に幕府が開かれる前後、京都にあった金融関係の蔵約300のうち、約250が大津神人絡みのものだったと言います。


つまり物流と金融、この裏ボスが神人という神社の聖職者だったという話です。


 少し話は前後しますが、鎌倉時代に入ると、鎌倉仏教が興隆していきます。

その中で中国との貿易に深く関わっていた禅宗(臨済宗、曹洞宗)、時宗、寺領ではなく多くの町衆を檀家に抱えた日蓮宗(法華宗)、一向宗などが台頭し、特に足利氏が京に幕府を開いて暫くすると、京の町衆は法華宗の信者達が多数を占めるようになっていき、大津神人の権力を侵し始めました。


更には法華宗の彼らは、応仁の乱で焼けた街を復興すると、後の堺のように自治権を発揮し始め、室町時代も末に近づくにつれ時の権力者と結び、天文元年(1532)一向宗の総本山山科本願寺を焼き、大阪へ追い出すまでの勢力となり、危機感を募らせた日枝神社は延暦寺の僧兵を使い対立。

洛内では両者の宗論が起き、六角氏を取り込んだ延暦寺は、天文5年(1536)、延暦寺に服従し上納金を納めるように要求し拒否されると、洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山を焼き殲滅。

生き残った彼らを堺へ追い出しました。これが天文法華の乱です。

この時、京の都は類焼し、被害は応仁の乱以上のものだったとされます。


 それに引き換え荘園からの収入に依存していた寺社は、鎌倉末期から徐々に衰退していく過程にありました。それは比叡山延暦寺も例外ではありません。


 延暦寺の荘園は主に、越前、加賀、近江であり、そこからの米を使って酒を作り、京都の酒市場を独占状態にしていたと言いますが、それも神人の力を借りてのこと。

文献的には日枝神社の勢力と延暦寺の経済力が同じにカウントされていますが、繁栄していたのは日枝神社で、当時の延暦寺は、日枝神社の繁栄に乗っかった状態になっていました。

ですから、寺領を押さえられても、困ることは困るけれども、そこまで切羽詰まらない訳です。


信長公絡みでそれが分かるのが、以下の流れです。



 永禄12年(1569)延暦寺は寺領を信長公に没収されています。元亀元年(1570)の9月、信長公から和睦を呼びかけられましたが、それを拒否します。余裕ですね。


ところが、突然元亀2年(1571)になると延暦寺から板状にした金を300と、何故か堅田から200を信長公に贈って許しを乞いました。


この頃の金の大きさは一定しませんが、大体一枚が現代のお金にすると、30万から300万と言われています。


やはり寺領を返して欲しくなったのでしょうか?約1億から10億?こんなに??

しかし堅田まで何故?

なんで堅田が支払いをするんでしょうね?しかも6000万から6億なんてお金、飢饉でもないのに餓死者が毎年出る当時、よく持ってましたよね。


元亀元年から二年という僅かな間に、一体何が起こったのでしょうか。


まず元亀元年(1570)8月26日〜9月23日、野田城、福島城合戦がありました。これは第一次石山合戦と言われる戦いで、この時は将軍義昭は織田軍と共に戦い、幕臣、根来衆が織田家と共闘しました。対するのは、義昭の入京で追い出された三好三人衆と石山本願寺、雑賀衆。

これは織田軍は敗退しました。


この戦いの終わり頃、森可成が護る宇佐山城に、浅井、朝倉軍、そして西本願寺の僧兵と共に、延暦寺の勢力が押し寄せ、壮絶な戦いが繰り広げられました。

城将森可成の討死を受けて、宇佐山城攻略から上洛へ目的を変えた浅井、朝倉の動きに気がついた信長公は、急ぎ坂本へ向かいます。それを知った浅井、朝倉は延暦寺に逃げ込みます。


この時延暦寺に対して、信長公は中立の立場を守るなら寺領を返し、従わないなら焼討ちを仕掛けることを通告します。


延暦寺は返事することなく、そのまま公が釘付けになることで、時間の経過と共に各地で反織田家の火の手が上がり始めます。

その上、10月26日になると、織田家に内通してきた堅田の地侍たちと織田の武将達が堅田砦に入ると、延暦寺に立て篭っていた朝倉、西本願寺、延暦寺僧兵がそれに襲いかかり、堅田合戦が始まり、ここでも織田軍が大敗しています。


結局、12月に正親町帝と将軍義昭が仲介し、両者が和平に応じ、雪の心配をしていた浅井、朝倉軍は撤収いたしました。


ここまでは、寺領を押さえられたのに、全く延暦寺困っていません。むしろ困っているのは、悲しいかな信長公のような気がします。


 元亀2年正月2日、信長公は越前から大阪までの陸路、海路全てを封鎖しました。


「北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻までの間、海陸共に堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し」『尋憲記』


この中には勿論、琵琶湖の水運も含まれています。


 堅田というのは、村上海賊と並ぶ、源平の頃から名を馳せる有名な湖賊の本拠地でした。

現在、堅田と守山に琵琶湖大橋がかかっています。その辺りを中心にして、グッと琵琶湖がくびれて対岸に近くなっているそこに、一種の関を設けて琵琶湖を航行する船全てから、通行料をとって、琵琶湖の水運を支配下に置いていました。


元々はこの堅田は、日枝神社と関係の深い京都の下鴨社の御厨という立ち位置です。ということで、延暦寺が開山すると寺領という形になりますが、大津神人の支配下にありました。


ところがここにも時代と共に、鎌倉仏教の波が押し寄せます。

この堅田の住民は、元々地侍(湖賊)の「殿原」と、商工業を営む町衆の「全人」に分かれていました。

殿原には臨済宗(禅宗)、町衆には本願寺の一向宗が広がり、妙応7年(1468)、殿原の専横を切っ掛けに、怨敵本願寺にくみする全人への見せしめもあり、延暦寺は堅田を焼討にします。

それで堅田は延暦寺(大津神人)の支配下に戻りますが、堺と同じように繁栄する自治都市である堅田と、延暦寺(日枝)との関係は決して良いものではありませんでした。

その為、堅田合戦の折に殿原衆は織田家に内応し、負けたとはいえ、その一部は織田家方に付く決意を固めていました。

そしてこの封鎖により物流が止まり、織田につくことをためらっていた殿原も全人も音を上げました。


大変な繁栄をしていましたから、大金を払う資産も持っていたという訳です。


この後、元亀3年(1572)に、堅田は織田家の軍門に下り、堅田衆となりました。


かたや延暦寺です。

これは延暦寺というより、若狭から琵琶湖を渡って、堺までの水運、陸運のルートを押さえていた大津神人が泣きを入れたということです。


しかし信長公は拒否しました。


ここから信長公のターンになります。


戦をするには金と道と情報が必要です。ここを遮断された彼らは弱かった。


2月に佐和山城が陥落すると、5月に姉川に浅井軍と近江の一向一揆を沈め、伊勢で一揆を起こした村を焼き払い、8月になると小谷城を落とし、9月に六角義賢と近江一向宗を支援していた城を全滅させます。


そして9月11日、信長公は、延暦寺により、全焼7回を含む合計50回にも及ぶ焼討ちをされてその度に見事復興を遂げてきた、不死鳥のような園城寺杜家山岡影猶邸に本陣を置き、かねての通告の通り焼討を行います。

延暦寺というより、ラスボスの日枝神社ですね。


翌12日に明智光秀の指揮の下、日枝神社焼討が始まりました。

何故、光秀か。

それは当時宇佐山城を任され、志賀の平定の任を担っていたのが光秀だったからです。

もし森可成が生きていたら、この時の大将は彼だったでしょう。


 日枝神社は、類焼だという話もあります。


まず山頂の延暦寺から山麓の日枝神社まで、相当な距離があります。山頂の延暦寺に火をかけて、そちらはほとんど焼けず、反対に山麓の日枝神社が類焼し、坂本の町が全焼するほどの火事になるのは、火を付ける役割の織田軍の兵士たちの撤退を考えると、織田軍の焼死者の記録がない以上、余程の偶然ではないかと思います。



また森可成の遺体を引き取り、供養をしたと伝わる坂本の聖衆来迎寺は、焼き討ちを免れたと言います。


この寺は更に山から離れ、琵琶湖側になります。この辺りは神社仏閣も多く、町屋が立ち並んでいたそうです。

ここを全焼する坂本の町から護る為には、当時の技術を考えると、作為的に辺りを打ち壊すことになるでしょう。


街全体に焼討ちをかけて、そこだけ焼けなかったというのは、前もってそういう作業をさせる命が、信長公よりあったということでしょうし、そこに逃げ込めば助かると、少なくとも聖衆来迎寺の辺りの人たちは分かるでしょうが、そういう話が伝わっていないのは、織田軍が最後までそこにいたということになるのではないかと想像できます。


雌伏時代からの忠臣森可成が、公よりいかに愛されていたか、そしてその時代を共に過ごしてきた人々の絆がいかに強いか、分かるエピソードです。



 さてこれによって、日枝神社を焼かれた延暦寺は、厳しい状況に追いやられます。


堅田は織田家の堅田衆(水軍)となり、日枝は今まで握ってきた金融、物流の流れを手放さざるを得なくなったのです。

延暦寺の寺領は織田家のものになり、家臣達に分配されました。

そりゃ強訴もピタッと止む訳です。


光秀はその多大な功績により、坂本城築城を許され、織田家臣団の先陣を切って城持ち大名になりました。


 天正7年信長公に再建を握りつぶされた日枝関係者は、光秀に再建を懇願しますが、光秀が許すことはありませんでした。


何となく光秀が恨む義理もなく、無神論には関係ないし、焼いた事情というのもそうかもね?という気持ちになって頂けると幸いです。


 この後、逃げ落ちた僧兵たちを匿うことになった人達が大変な目に遭っていきますし、もう一つの大動脈の瀬戸内ラインが大騒ぎになっていきます。


 ところで日枝神社の再建を許したのは、豊臣藤郎秀その人で、それ以来日枝神社は、神社となったと言います。

そういえば、秀吉の幼名はという伝説もありましたね。

禁裏とも仲が良いようなので、秀吉と表沙汰にできない深い関係があるのかもしれません。


 光秀が日枝神社を首尾よく調略出来ていれば、延暦寺焼討は行われることなく、本能寺の変も起こらなかった可能性があるかもしれませんね。

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