もう一つの竹生島事件と荒木氏の謀反

 これは「竹生島事件(信長公侍女手討事件)」の関連項目になります。こちらも長いです。


「竹生島事件(信長公侍女手討事件)」では、俗にいう信長公侍女手討事件というのは、留守中に遊びに行った侍女に怒って斬り捨てた事件ではなく、足利義昭や宗教勢力などとの抗争の一つだったのではないかという考察をしました。


 実は信長公が御侍女を成敗したのは、竹生島事件が初めてではありません。

天正6年(1578)10月2日、信長公は、お側衆の時宗の僧侶と、側に侍る上級侍女を成敗しています。


 この年の新春は非常に煌びやかで、牛一に「生前の思ひ出、末代の物語、かたじけなき次第、申すに足らず」と感激させ、京でも廃れていた節会を、信長公の援助のもと執り行い、新たな時代の幕開けを感じさせる、穏やかな新春を満喫していました。

この後、9月まで鷹狩や相撲会を楽しんでいる公の姿が遺されています。


また詳細は別にして、サクサクと話を進めていきます。


9月15日に、天王寺砦を始めとする、石山本願寺戦の拠点になっている城へ、二十日番として近習達を向かわせました。


一旦上洛した信長公ご本人も、天正6年9月27日に、石山合戦の拠点の城に顔を出し、九鬼水軍の船を視察する為に、二条御新造を立ちます。


 信長公の造られた二条城は二つあり、一つは義昭の為の京都御苑近くの二条城。それは義昭が都落ちすると天正4年(1576)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用されました。

もう一つは後に二条新御所、武家御成とも呼ばれる、烏丸〜室町の御池上ル付近にあった、元二条邸を譲り受けて造られた雅やかな屋敷です。

建築途中ながらも、信長公が上洛された時の宿所として使われて、当時、二条御新造と呼ばれていました。


行きの行程は非常にのんびりして、初日は僅か17キロ先の石清水八幡宮で宿泊。

28日は城主三好義継が信長公の不興を被り、天正元年(1573)「若江城合戦」で佐久間信盛に落され、本願寺戦の拠点となった若江城に入ります。

ここまでは約30キロになります。


若江城から約9キロの佐久間信盛の天王寺砦に着いたのは、翌29日の早朝になります。そこで暫く休憩した後、住吉大社の杜家へ移動しました。ここは南北朝時代に南朝の禁裏が置かれた場所です。


当時の京都や大阪は水運が発達していましたし、この時には既に若狭→琵琶湖→大津→京都→堺の陸運、海運(水運)のルートを支配下に置いていましたから、この行程は宿泊地と時間のかかり方を見ると、船で行かれたのではないかと思います。

石山合戦の古地図を見ると、もう川だらけですので、むしろ馬で行くと渡るのが大変そうです。


さて、翌日は夜明け前から堺へ行って視察をしますが、その様子はまさに、天下に大手をかけた王者に相応しい壮麗さです。

特に夜明けの陽光を背に登場なされる公の偉容は、想像するだに鳥肌ものの神々しさです。


公には、1人の公家と2人の元幕臣が居並び、付き添いました。

近衛前久、細川藤孝、そして一色氏、これはおそらく一色義道になります。

丹後の一色氏は水軍を持っていますから、信長公を運んだのは一色氏の船で、残りの2人は京在住ですから同乗したのでしょうが、このメンバーは大変に微妙で、太田牛一が気になる言葉を書き記しています。

これについては、また別に考察を公開をします。


群衆も凄まじく集まり、「僧侶、世俗」が献上物を手にして鈴なりだったようです。

……なんだか、ここも不可解な表現の気がします。


また不思議なことに公は一人、舟板を渡り乗船し、その後下船されると堺の今井宗久の御点前で茶を飲み、紅屋宗陽、今井宗久、津田道叱の邸宅を訪れ、その日も住吉の社家に泊まります。


この「大船視察」は、不可解な点が多い箇所です。


さて。


『寅十月朔日、住吉より御帰洛。安見新七郎所に暫らく御休息なされ、二条御新造へ至つて御帰り。翌日、住阿弥御留守あしくつかまつり候に付きて、御成敗。並びに、久々召し使はれ候さいと申す女、是れ又、同罪に仰せ付けらる』(「信長公記」)


「十月一日、住吉より京に戻られる。安見新七郎の城で暫くご休憩なされ、二条御新造へ至ってお帰りになられた。

 翌日、御側衆の住阿弥が信長公のお留守中悪しき振る舞いをしてる事によって処罰された。また長らく上級侍女を務めていたさいという女も同じ罪で処罰された」


10月1日になると出立し、途中交野の私部城(交野城)の安見新七郎宗房の邸で休憩した後、二条御新造に帰城します。


住吉から交野城まで約30キロです。

そこで休息を取り、二条御新造へ向かいます。この距離が約28キロになります。

これは奇しくも、「竹生島事件」の長浜と安土城の距離とほぼ同じですね。


やはり普通だったら、この交野城に宿泊すると考えるでしょう。


 この頃、殿が泊まりで本城の領土以外に出ると、1日に1回本城と殿との間を使番がそれぞれ往復し、殿には本城の様子、本城には殿の様子が伝えられるシステムがありました。当時の「取次」のシステムを考えると、殿の動向は近習の上位者が受け取ることになっていたでしょう。またこれ以外に各部署から殿に連絡がありますが、今回はこれには触れません。


本城安土へ公の動向を知らせると共に、この時の信長公の御座所は二条御新造になりますから、こちらにも使番が向います。

つまり使番が二条御新造、安土城へ向かい、反対に安土や二条御新造からの使番が到着した後、公はいきなり交野城を出立したのではないかと思われます。


また信用できる小姓達が9月15日から、二十日番で石山本願寺戦の城や砦に目付として、派遣されていましたから、彼らを使って準備をさせていた可能性もあります。


おそらくここからおおやけの予定を変更して、そして内々に予定していた通り、自分だけ小姓を5、6人連れて馬で出立したのでしょう。


 元々比較的大きな街道の上に、公は道路整備に力を入れておられますし、前もって公が御視察なされるのを告知してありますから整備されており、小姓だけの最速なら2時間弱で着いたことでしょう。この年の10月1日は新暦で10月31日、日の出は6時15分頃、日の入は17時5分頃になります。おおよそ17時までに御新造につけば問題ない訳で、それならば十分な時間があります。


つまりここでも、家臣達に問題があるという話が上がってきていたので、竹生島事件と同じように油断をさせて事実かどうか探ってみたということになります。


 「御留守あしく仕り」

公の本城は安土ですから、この頃頻繁に上洛しているとはいえ、留守は多かったでしょう。

公がいると真面目に振る舞っていますが、いない時には「悪しく仕って」いた訳で、それが家臣たちから報告があったという話です。


有名な学者さんは、さいと住阿弥の不倫と推測されています。


当時の性事情はかなり緩い為か、不倫して解雇された記録を寡聞にして見たことがなく、さいが公の側室でない限り、信長公に処罰されるほどの問題にはならないんじゃないのかなと思います。


また側室なら、公の子供を産む可能性がある為、周りに本人の乳母3人、専用のお侍女、小者たちがみっちりかしずいて、1人になる隙を与えませんし、奥様方のおられる奥御殿というのは、入る部屋にもよるのかも知れませんが、彼らや他の奥様とその侍女らが共謀しない限り、なかなか不倫はしかねる作りになっています。


 ところで中世日本に於ける「悪」というのは、現代とは少しばかり意味が違います。


当時は道徳的な「悪」ではなく、「支配、命令に従わない」という、「社会的秩序を乱すこと、社会的な体制から逸脱していること」が「悪」と言われました。


これではちょっと分かりにくいので、有名な中世日本の「悪党」の例で、説明をさせて頂きます。

中世日本の「悪党」とは「道徳的な悪いことをする奴ら」ではなく、「社会のシステムから逸脱している者ども」という意味になります。


中世初期に於いて、具体的に「悪党」に分類されるのが「山賊、海賊」、これはふむふむという感じですが、更に「諸国を旅する芸能関係者」に「遊行僧」と続きます。


海賊、山賊というのも、藤原純友の乱のように、律令制、体制に反するという意味での「悪」であり、次第に水軍、海衆などとして、体制側の組織に組み込まれていくと、同じようなことをしていても、「悪党」の区分から外れます。


当時は非常に厳しい時代で、共同体で生きていくことが必要でした。ですから社会のそういう共同体からはみ出ている人や物事が「悪」になり、現代の道徳的な「悪」とは少し意味合いが違うのです。


つまり住阿弥とさいは、信長公が不在の折には、公の命令違反を犯していた、或いは織田家の秩序を乱す行いをしていたという意味になります。


 またここの注目ポイントは、2人のことを別の文章で述べられているところと、当日ではなく、翌日に処断しているところです。


2人の間に何かあったり、共謀して、ならば「住阿弥と御侍女のさいが」と連ねて書かれるのではないでしょうか。

つまりこれは2人は別件で、同じ「悪しき」行為をしていたという事になります。


「信長公記とはなにか」で書きましたように、「信長公記」は無駄のない作りになっていると考えています。

ですから「竹生島事件」では名前が書いていないのに、わざわざここで2人の名前が書いてあるのは、殊更意味があると思います。



 「住阿弥」とは「じゅうあみ」と読みます。この名前に、聞き覚えがあるかと思います。

それは利家が若かりし頃の出仕停止の原因になった「十(拾)阿弥」です。

十阿弥は信長公の寵愛を傘に着て(と言われる)、当時暴れん坊だった利家とぶつかり、2人は犬猿の仲でした。

利家は、信長公に再三、十阿弥の横暴さを訴えていましたが、信長公は相手にはしなかったと言います。


 利家は最初小姓として内勤をし、那古野城の奥近くの小姓の房で寝泊まりをしていました。

その後は近習ではない馬廻だったようなので、小姓時代に御側衆である十阿弥と接点が出来ていたでしょう。十阿弥の年齢は分かりませんし、利家小姓当時の織田家の家督争いで、信長公派か、林秀貞の信勝派なのかも分かりません。


利家は幾ら譜代の家柄で、後に二つ名を持つ名武将になると言えども、当時はまだ出仕したばかりの少年で、後の森家の末っ子の千丸同様に小姓勤めも早々に遠慮になり、幕臣の養子口(佐脇氏)も弟の良之に行くような評価を受けていた訳です。


利家の織田家の奥を乱すようなヤンチャぶりは、林らのこともあって、家臣団の掌握に苦労していた信長公にとって、利家の揺るぎない忠誠心と相まり、相当頭の痛い事案だったのではないかと思われます。

それが有名な「鶴の汁」の逸話ではないのかと考えられます。


さて、「信長公記」をみてみましょう。

それは信勝も一年少し前に亡くなり、織田家も落ち着きを取り戻していた頃のことです。

利家が昨年結婚した、幼妻より婚姻の印として贈られた岳父の形見のこうがいを、十阿弥が隠したことで、利家の堪忍袋の緒が切れ、城内抜刀の禁を犯して、十阿弥を斬り殺します。

戦国期に於いて、殿の命を守る以外の城内抜刀は最大の禁の一つですから、情状酌量の余地は無く、利家は出仕遠慮になりました。


時宗は禅宗と共に、茶道(闘茶、侘茶)、花道、猿楽、能楽、連歌、絵画など、伝統的な公家文化と武家文化を融合して創り出された北山文化、その後の東山文化を大名家に於いてサポートする専門職です。

当時の権力の形成要因に、文化水準の高さがあるので、時宗、禅宗の僧侶の、家中に於ける立場は高いものがありました。


禅宗は学問色が強く、戦国当時、学問の最高峰と武家では尊ばれて、子息たちの学問所に選ばれることが多く、それに比べて時宗は実践的な、或いは職人的な側面が強いかと思われます。


十阿弥はその教養とセンスに一目置かれるものがあったのでしょう。


この2人の確執は、時期的にも複雑なものだった可能性があり、どういった経緯があったかは定かではありませんが、最終的にはかなり幼稚なレベルに至り、マウントの取り合いになっているようです。


さて翻って今回の住阿弥です。

わざわざ文化のメッカである京の、天下に王手を掛けている信長公の宿所に配置をされるくらいですから、織田家に仕える時宗の僧侶の中でも、指折りの才能を誇っていたとしてもおかしくありません。


それを傘に着た振る舞いが、二条御新造勤の他の家臣に対してあったということかもしれませんね。特に利家的な立場の人と、長年に渡る行き過ぎた確執があったことを、名前で示唆しているのではないかという読み取りになります。

これが今回の罪状になるのではないかと思われます。


 次に上級女房の「さい」です。

この名前に意味があれば、「さい」が公記の別の所にある筈なので探してみますと、荒木村重の娘として名前が載っていました。


面白いのが、この大船見学の次の次の項目が「荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事」になっています。


 6月から秀吉の指揮の下播磨攻めに加わり、戦功を上げ、更に神吉城攻めでは7月15日佐久間信盛と共に城主に引導を渡した荒木村重ですが、10月、突如信長公に謀反を企てていると噂があり、事実そう言上する家臣もいたようです。

これが細川藤孝という話もあるのが、面白いところです。

何しろ大船視察の時に、信長公に供奉していたのも彼ですし。


 そこで信長公は驚いて「何が不満なのか、存分に申すように」と10月21日、松井友閑(堺代官)、明智光秀(村重の嫡男の正室が光秀の娘)、万見仙千代(小姓頭)というお気に入りの家臣達に有岡城へ話を聞きに行かせます。

謀反の気持ちは無いと荒木村重は否定して、松井らは「お母さんを安土に差し出し、直接上様とお話しなさい」と助言して帰ります。


この後ご存知のように荒木村重は、安土へ向かいますが、途中で引き返し、鞆幕府と石山本願寺にお味方する旨を宣言して、織田家に手切れの一礼を申し入れ、光秀の娘を返します。


当時織田家は石山合戦の最中であり、非常近い場所ですので、付随したような戦のような形になります。


 しかし、人の娘を成敗しといて、「どうしたの?」もないものです。


信長公の耳に入った事に嘘があるかもしれませんが、「信長公記」に記載されていることは、生前の信長公にとっては、真実である筈です。(拙作「信長公記とは何か」)

となるとは、「二条御新造では翌日まで話し合いの結果、さいと住阿弥は自ら退任することにした」という事ではないかと思います。


「納得していた筈なのに、何故か?」

これなら筋が通るのでは、無いでしょうか。


そして有岡城での話し合いの結果、新たに侍女(人質)を差し出すことにした。


息子や娘を殿の側に出すことは、重臣クラスの家臣にとっては常識であり、特に転仕した時には、彼らを出仕されることは必須でした。

ですから、村重がさいの代わりに息子や娘、或いは妻を差し出すことは、常識の範囲内ではありました。

ですから、或いはこの人質を直ぐに出さなかったこと自体が、「納得して娘が退いた。それなのに次の人質を上様に差し上げない。これは謀反を起こすつもりか?」とされたのかもしれませんね。


しかし何故か村重は、人質を差し出し、話し合いに行く途中で引き返します。


まずこの「御袋様を差し出し」というのが微妙で、さいのことがなければ「村重の母」なんですが、「代わりに」であれば「さいの母」になります。


この頃の荒木村重の妻といえば、美人、美人と、かの太田牛一をして連呼させている、「たし」(信長公記)です。

勿論「たし」は、この時精々二十歳過ぎなので(村重と二十歳程度歳が離れている)さいの実母は「たし」ではあり得ないのですが、もし「たし」が正室ならば、「さいの母親」という括りになります。


もし、さいの代わりにたしを出すようにと言われて、それが近習たちの目論見として、嫌がらせ的な意味合いもあり、上様に侍女として差し出したら側室になるかもね?という路線を匂わせられていたなら嫌でしょうね。


しかも荒木村重は、結構織田家にウンザリしていたのではないかと思うのです。


なぜ嫌がらせか、何故ウンザリか、という話の前に村重の状況を見ていきます。


 天正6年の6月に与力として多くの武将が播磨戦線を維持している秀吉の麾下に入り、夏から秋にかけてまた各地へ散っています。

この三木合戦は、天正6年(1578)3月29日から天正8年(1580)1月17日にかけて断続的に行われており、武将たちは要所、要所で集まったり、引いたりしています。


 よく村重がこの7月中旬の神吉城攻め以降に勝手に離脱したという文章を見るのですが……

それなら何故10月になってようやく問題になるのか、大変不思議です。

前述の通り、信長公は天正6年の8月から安土で何度も相撲会を開催したり、尾張に鷹狩に行ったり、大変のんびりしています。

3ヶ月も荒木村重の戦線離脱を知らなくて、10月になって、「え?謀反なの?」とようやくビックリするなど、責任者の秀吉が罰せられてもおかしくありません。


もしかすると7月離脱説は、元は学者さんの推測が一人歩きしている可能性があります。


 当時荒木村重は信長公に非常に評価され、重用されていました。

信長公の下で、トントン拍子で出世したのは、秀吉だけではなく、何人かいて、その1人が村重でした。


まぁ信長公自体が、尾張の国衆の息子から天下人へ登っているので、織田家臣団は皆、トントン拍子といえばトントン拍子なんですけども。

佐久間氏を除く雌伏時代より出仕している方以外で、ずば抜けて出世している人たちの多くは、明智光秀を先頭に、非常に数奇な運命を辿っています。(柴田勝家は早い時期に内応していたか、正室を離縁、実子相続を放棄した為生き残れたのかもと考えています)



そうなんです。嫉妬が怖そうな話になります。


秀吉以上に出世していたと言われているのが、塙直政ばんなおまさです。

京の南の南山城と大和、そして河内という重要拠点の三カ国の守護職として君臨し、その勢力は宿老柴田勝家を凌駕していました。

ところが彼は吏僚系であったにも関わらず、突如佐久間信盛の石山戦の前任者に任じられ、残念なことに、天正4年討死します。


彼の妹は側室とも、侍女とも伝わりますが、彼の死後、一族は冷遇され、没落しました。

彼の妹が庶長子を産んだ説は、非常に微妙なので、また考察したい部分です。


同じ討死なのに末永く寵愛を受けた森可成一家に比べて、なんたることか……という感じですね。


この戦の前後で直政が何かしでかしたとしか思えませんが、この天正4年の戦の折、一緒だったのが、荒木村重・細川藤孝・明智光秀という意味深なメンバーになります。


荒木村重も明智光秀も、塙直政のようにトントン拍子に出世していく立場にあり、信長公のお側衆と少々上手く行ってなかったという逸話があります。


当時は家臣たちは主人と直接話をする機会はなかなか無く、取次のうち、小指南と呼ばれる小姓、馬廻を仲介して意思を伝えていくシステムになっていましたから、彼らとうまくいかないというのは、結構致命的でした。


自分の息子を小姓に上げるのはそういう訳ですし、息子以外でしたら、自分の妻や娘を上級女房として差し出して、殿に気に入られ、意思の疎通を計るという方法もありました。


細川藤孝は、ご存知のように嫡男忠興を信長公の小姓として差し出しており、寵愛を受けていました。

光秀も於ツマキという信長公お気に入りの上級女房がいました。

ですから、この「久々お召し使え」の「さい」は、荒木村重が満を期して差し出した娘だったのでしょう。


転仕してすぐ気に入られ出世していく人と、それ以前に出仕している人達が、うまくいかないというのは、現代社会でもありそうな話です。

特に娘までが社長秘書で、社長から気に入られるとなると、他の家から出仕している秘書たちも面白くなく、ちょっと意地悪してみたり、実家の方に悪口を言ったりしたかもしれないですね。


ということで、突然話が戻って恐縮なんですが。

荒木氏娘も有能で、京の二条御新造の侍女団へ移したものの、転仕してすぐに重用される父への周りからの嫉妬との兼ね合いもあり、そこで秩序を逸脱するような軋轢があったのかもしれません。


新旧入り乱れる派閥みたいな感じに進展していた可能性もありますね。


その結果、まぁ陥れられた部分があり、なにかあって尋問があり、話し合いの末、翌日おうちに返される処分になったのではないかという感じです。


せっかく手足となってくれていた娘を返された荒木村重は、途方にくれたでしょうし、先行きが不安になったとしてもおかしくありません。


その上、謀反の疑いをかけられます。

さいのトラブルや、塙直政の最期を考えれば、誰を出しても同じことの繰り返しではないかという気持ちになったかもしれませんし、愛妻を出すのは危険だなぁという気持ちがあったのかもしれません。

いずれにせよ、織田家の近習たちに対する不信感が、鞆幕府への転仕へと向かわせたのではないかと思われます。



 さて転仕した村重ですが、11月6日に第二次木津川口の戦いで、この前視察をしたばかりの九鬼水軍の鉄甲船が、鞆幕府の毛利水軍を討ち破ると、俄然危険がいっぱいになります。


しかし10日になると、キリシタン大名の高山右近親子が「村重くんの味方になるよ」と言い出します。これは布教の為に「主君(特に信長)に逆らうなかれ」とやってた宣教師も、宗教弾圧が始まるぞーっと大慌てです。


11月14日、有岡城合戦がはじまり、織田軍は布陣をはじめます。

16日には高山右近は宣教師に口説き落とされて、「やっぱり上様の方に付きます、ごめんね、村重くん」となり、石山本願寺も「いま、ご飯がなくて、戦出来ないんだよ」、毛利家も「ごめんね、そこまで手が回らないんだ」と後詰にも来てくれませんでした。


12月8日に遂に織田軍が、攻撃を始めます。

有岡城の町屋は焼け尽くされ、散々な被害を受けますが、本城は護りに硬く、織田軍は一旦兵を引き、いわゆる「干殺し」でジワジワ相手を弱らせていく戦法に切り替えます。

これは石山本願寺戦と同じ戦法です。


この天正6年当時、本願寺は飢えとの戦いになっていました。

毛利家からすると、信長公は毛利が絡む戦は、播磨戦、後の備中高松城戦もそうですが、ほぼ籠城戦に持ち込んでおり、そういった困窮している味方、また拠点となる花隈城など、延々と近畿圏の城へ、本国から補給をし続けなければならない事は相当負担になっていたはずです。

これは来るべき毛利との戦を見越して、毛利の体力を弱らせていたと考えられます。


その後も天正7年(1579)4月までは、時々戦が仕掛けられますが、9月までは静かに時間は過ぎていきます。

5月にはかの有名な安土宗論が行われ、武将たちは石山戦や伊丹戦の籠城戦を支援しつつ、それぞれ持ち場で籠城戦をしかけたり、間者を炙り出したり、敵を攻めたりしつつ、過ごしています。


そしてそんな中、9月2日荒木村重は、有岡城を飛び出して尼崎城に入ります。

これを織田方では、妻子を残して逃げたと言い、通説化していますが、実はこの尼崎、花隈は、三木戦、石山戦の鞆幕府(毛利)の拠点としており、ここを織田軍を攻めるという話があって(直後に信忠が攻め込んでいる)、当時多くの毛利軍が安芸に一時撤収していた為、村重は救援を求められ、二、三百の群勢を率いて向かい、更にその後応援を求めている村重の書状が残っています。(『乃美文書』)




 また気になるのが、信長公は二条御新造を京の住まいとされていましたが、この翌年には譲っています。


この成敗があった翌年の天正7年の11月4日に親王たちに二条城を譲ることを決意して

「11月 3日、信長公、御上洛。その日、瀬田橋 御茶屋に御泊。御番衆・御祗候の御衆へ、白の御鷹見せさせられ、次日、御出京。二条 御新造の御普請 造り畢り仕るに付きて、禁裏様へ御進上なさる」(天正7年、信長公記)


ただ親王たちに城を譲るだけなら、別の場所に邸宅を造ってもおかしくない気がするのです。

それを建てず、寺への宿泊へ切り替えているのは、京という場所に不用意に、奉行をするような信用できる家臣以外を置くことで起こる不利益を考え、荒木氏の始末がつく目処が立つのを待って、二条御新造を譲ったのではないか。


信長公の行動原理として、当時の大名と同じく、即断即決はしますが、始末をつけても影響が少ない時期まで腰を下ろして気長に待つ傾向があります。

頭の回転は早く、柔軟な方でしょうが、言われているような短気な性格では、とてもではありませんが、当時の社会体制では天下を取ることは全く不可能です。


 また信長公は、時宗の僧らの専横にうんざりしていたのか、「時宗の僧侶をあまり重用していなかった」という評価をされています。

確かに天下が近づくに連れて、能を嗜み過ぎた信忠に廃嫡の危機があったり、絵画は武家出身の狩野派に親しく、茶人も堺関係の豪商たちを使っています。


つまりこの天正年間に入り、信長公のお側衆と重役クラスの家臣団の間で軋みが起こっていたのだと考えられます。


 少し戻りまして、天正7年10月15日、最後の有岡城攻めが始まり、翌日信長公の講和の呼びかけに応じて降伏、開城。


この時、信長公は「尼崎城と花隈城を明け渡すならば、村重の家族と家臣一同は助命す」とし、使者が尼崎城に走りましたが、残念なことに村重は鞆幕府の家臣になっていた為、村重の意見は通る状況ではなかったと言います。


 その為、さい達は、後の秀次の妻女のごとく、六条河原と尼崎の七松に引き出され、12月に斬首をされました。



さいの辞世の句

「先だちし このみか露も おしからじ 母のおもひぞ さはりとはなる」


先立つこの身は露とも惜しいと思いません。母の悔しい思いが、障りとはなりますが……

(或いは)

私は先に冥土に旅立ちますが、心残りはありません。

母の思いこそが響銅さはり(仏具のりん。チーンと鳴らすやつ)となり、私は成仏できるでしょう。


この辺りが妥当な訳文でしょうか。


さいの母は、元正室池田勝正(あるいは長正)の娘かもしれません。

さいのお母さんからすると、自分の実家を裏切った挙句に、形としては家族を見捨てた夫(荒木村重)への、ガッカリ感と、娘を思う気持ちはなかなか壮絶なものがありそうですが、どうでしょうか。


まぁ村重とて、織田家に残っても地獄、最早鞆幕府に落ちるしかなかったのでしょうし、鞆幕府での力関係というのもあり、断腸の思いだったでしょう。



 先立つのは、「父母に」ではなく、相争った二条御新造の側衆たちやお侍女、或いは嫉妬で荒木家を陥れた織田家重臣、そしてその判断を下した信長公ご本人だったのかも知れませんし、支援をしてくれなかった石山本願寺や毛利、足利義昭かもしれません。


 気になるのが、二つ。

一つは「このみか露もおしからじ」の「このみ」です。

「このみは露もおしからじ」或いは「このみぞ露もおしからじ」なら素直に「この身は露も惜しくない」になるのですが、ひっかかります。

これは「木の実か露」と取るのが、彼女の意図でしょうか。


もし木の実と取るなら、季語が秋ですが、彼女たちが亡くなったのは冬です。ここが引っかかる二つ目です。

 例えば木の実ではヤマボウシ、山法師という、あたかも僧兵を指すような秋の木の実もあります。

また「こ」が「木」になり、「か」で露までかかるなら「木下露このしたのつゆ」という、まるで木下氏を指すような、同じく秋の季語があり、結局秋は「安芸」に通じていきます。


因みにこの頃、秀吉の姓は羽柴なんですが、秀吉の三木戦の為に、鞆幕府側は、手薄になった尼崎、花隈の為に村重を動員し、その挙句に自分たちは見殺しになった訳です。


或いは村重の小姓が木下姓なので、そちらと関係する可能性もありますが、これは資料がなくよくわかりません。


とりあえずそんな風に陥れた相手の名前が、隠れてそこにあるのかも知れませんね。


 私はあなたたちからすれば、恐ろしい地獄に堕ちる謀反人か、物の数にも入らない命も知れませんが、貴方たちとていつか落ちる木の実か、消えていく露のようなもの。


私は、全く生命がおしくありません。


無実の罪や無碍に見捨てて私達を殺すあなた方とは違い、私は惜しむ母の想いで、成仏することができますから。



色々深読み出来る歌で、なんとも恐ろしさを感じます。


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