天下人になれなかった松平信康①側室の考察1

 天下人徳川家康公の元嫡男を巡る謎についての考察の第一弾です。


1ページ、2〜3000字くらいの方が読みやすいという話を聞きまして、今回からちょっと切ってみることにしました。もし長いままの方が良ければ教えてください。


 さて彼、松平信康の存在は、元の主人の家である今川家、織田家と絡むもので、天下を治める徳川家としては、後世に向けての扱いが難しいものになっており、改ざんが多く入っています。


その中で信康をめぐる環境は、「前当主の正室ではなく、自分の正室の家臣だった家の現正室である祖母」、「敵対関係にある元主人家の別居中の(元)正室の母」、「敵対関係にある家の元家臣の側室」と異例なこと尽くめです。


今回は松平信康という武将の謎を、彼を巡るそうした女性たちのうち、側室に焦点を当てて考えてみます。

参考資料としましては、徳川譜代『家忠日記』、『信長公記』、『甲陽軍鑑』『三河物語』と、遺されている書簡などを中心に見て行きます。


いつものように、素人が提供する一つのエンタメとしてご覧頂ください。


またご存じのように家康は元々は、今川義元から偏諱を与えられて松平元康と言いましたが、桶狭間の後偏諱を返して家康と名乗り、さらに永禄9年(1566)三河守に任ぜられ松平姓を徳川姓と改めていますが、ここでは一貫して徳川家康と書きます。


ではまず簡単な年表です。


松平三郎信康


永禄2年(1559)3月6日 今川領駿府にて生まれる 幼名竹千代

父徳川家康、母正室今川氏家臣関口氏娘

永禄3年(1560)5月19日 父家康は桶狭間合戦から、自領岡崎城に入城。

      同年6月4日 妹亀姫誕生

永禄5年(1562)1月 清須同盟

      同年2月 上ノ郷城落城、鵜殿氏子息捕虜となり、信康らと人質交換される。岡崎へ移動(岡崎城下西岸寺)

永禄6年(1563) 織田氏娘五徳姫と婚約

永禄10年(1567) 5月織田氏娘入輿、岡崎城へ入城 

      同年6月 家康、浜松城入城

      同年7月 元服  松平(徳川)三郎信康 (三郎は織田家の嫡男の通称、並びに信は信長公よりの偏諱、康は父からの偏諱とされる)

元亀元年(1570) 岡崎城を譲られたとする

傅役平岩親吉 後見石川数正 

天正元年(1573) 初陣

天正5年(1577) 数19歳 (この頃に側室に入れたと考えられる)

天正7年(1579)8月4日 岡崎城を離れ謹慎 

       同年9月15日 切腹 (享年21、満20歳)


 前提として、戦国時代の大名家の婚姻は、側室に至るまで政治です。

特に国衆にまで家格を落とした松平家の再興に邁進していた家康とその側近達にとって、信康の婚姻は細心の注意を払うべき事柄の一つだったでしょう。


 さて信康の側室は2人おり、2人ともに旧武田家の家臣の娘で、生母である築山殿の侍女であるとされています。

彼女たちの父親とされる人の名前は、一応残っています。


 一人は日向大和守時昌ひなたやまとのかみときまさで、彼の妾腹の娘と言われています。

日向大和守家は武田家に仕える国衆です。この当時の当主は「日向大和守」と言います。

昌時は日向是吉、或いは光村とも言われ、信玄の父親信虎の時代から宿老として仕え、信濃国海尻城を預かっていました。

信玄の時代になると、信濃国深志城、天正年間に武田信廉が甲斐大島城に城将として入城した折には、相備えの副将に抜擢されています。

天正10年(1582)の2月の武田征伐のおり、最後まで伊那谷を護り、死に花を咲かせようとした昌時は「もう老年だから」と無理矢理家臣たちに連れ出されています。

ということは当時の「老年」は60以上になりますので、昌時は1522年よりも前に生まれていたことになります。

側室になる「旧武田家の家臣」の娘が生まれた時、昌時は40以上でしょうが、これは当時的にはあり得るでしょう。


ということで、「日向大和守」を名乗る武田家の家臣は、この当時「昌時」しかいないんじゃないかと思われます。


 徳川家と武田家は、永禄11年(1568)から急接近し、駿河侵攻を始めます。しかし信玄が大井川ラインの越えたことで、永禄13、元亀元年(1570)家康は信玄と手切れ、上杉謙信と結びました。この年に大名家としての今川氏が滅亡します。


そして殿と呼ばれる人が数えで19歳になる頃まで、息子が生まれない場合、側室を入れるという慣習がありました。

1559年生まれの信康が、数えで19になるのは、天正5年(1577)正月で、武田家と徳川家の仲が悪化している時代のことであることが分かります。


日向氏娘は、少なくとも信康と同じ年代の筈ですから、本人が築山殿の侍女になったのは、岡崎に入って後になるはずです。

まさに今川領を蹂躙し、そして徳川家と敵対している現役の武田家の宿老の娘が、今川家の家臣の娘の侍女になり、徳川家の嫡男の側室に入るというのは、戦国時代の常識的にはまず考えられません。


そもそも日向大和守の話は『改正三河後風土記』に記されている五徳姫の父信長公に宛てた有名な告発状によるものですが、この史料は使われている文言から後代の作とみなされています。

秀吉の一夜城の指示書と同じですね。

ですから、日向大和守の「妾腹」の娘がというのは眉唾ものかもしれません。


 もう一人は浅原昌時で、この諱を見ると上記の日向氏と被っており、同一人物として扱っておられる方もいます。

武田家家臣の「浅原氏」というのは、寡聞にして発見できていません。

ただ甲斐浅原氏は武田家の支流で、小笠原と名乗る一族の一家が、幡豆小笠原氏といいます。

当初今川氏に従属し、水軍を率いていましたが、この桶狭間直後の時期に家康に転仕して、旧領を安堵され、譜代の家臣(松平家忠の叔母を娶っている)と婚姻関係を結んでいます。

これを「浅原氏」というか微妙ですが、とりあえず見ていきましょう。


その後、今川に残っていた高天神小笠原氏が永禄11年(1568)武田方に内通しようとした時に説得し、徳川方へ引き入れました。この高天神小笠原氏が永禄12年(1569)掛川城攻めの折に猛攻をかけて、今川氏真を追い落とす軍功をあげています。

こうした娘を今川の血をひく築山殿の侍女にして、その娘を築山殿が息子の側室に入れる……というのは悪趣味な気がします。


また信濃守護を務めた小笠原氏もこの系列ですが、上杉謙信に仕えた後、御館の乱以降に越後を離れて、天正10年に織田信長に転仕しており、織田家からの与力として岡崎にいた説も成り立ちません。


これらはあくまで小笠原姓を名乗り、甲斐を出た時期は相当昔で、そもそも諱が昌時あるいは時昌(正時、時正)の方は、かなり探しましたが記録にありません。

この辺りは勉強不足な部分は否めませんが、信康の側室の父親がこの二人というのは、後世の作り話ではないかと考えられます。


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