天下人になれなかった松平信康①側室の考察2

 そもそも徳川家に於いて、築山殿に側室を用意して、それを家康、或いは信長公に了承させる力があるのでしょうか。

戦国期において激動の時代を迎えている徳川宗家の嫡男で、天下人への道を邁進している織田家の娘が正室である信康の側室の選考は、そんなに簡単なものではありません。


 ここで、家康の立場で考えてみます。


 戦国時代、調略は個人の繋がりで入ります。本人を調略する気持ちがなくとも、家康の情報を取るために細作(スパイ)が入る可能性もあるでしょう。

その上離縁していたとしたら築山殿は一生本城には入れず、西岸寺へ置いたままであったはずです。

離縁せず正室のままでしたら岡崎城に入ったかもしれませんが、家康は徹底して築山殿を正室として遇していません。

長い年月には築山殿やその家臣たちとっては、待遇を不満に思う日があるでしょう。

彼女とその周辺の人たちは格好の調略相手の筈です。


また岡崎城には、長年今川の家臣が城将として入っていました。となると岡崎城の内外では、勿論二重の税金や我が物顔に振る舞う彼らに対する憎しみ、恨みもあったでしょうが、そればかりではなく、行き来するうちに一定の人間関係が生まれていたことでしょう。


そして元亀2年(1570)掛川城が開城したことで今川大名家は滅び、今川氏真は北条氏の元へ身を寄せました。

今川が崩壊すると、家康はそれを待っていたように、正式に岡崎城を信康へ譲っています。これは人質交換の折、今川家との間に何か申し入れがあり、破った場合には(言いがかりでも)、今川家とその同盟国に攻められる危険があったのではないかと考えています。

つまり築山殿というのは家康にとり、対今川で何らかのひっかかり(弱み?)になる存在であったのではないか。


今川家崩壊の過程で旧今川家の家臣たちのうち、北条氏に吸収されなかった人達は出仕先を探します。

戦国時代の転仕は、現家臣から殿への紹介制が基本です。そして彼らにとって、徳川家というのは、知り合いの多い家ですから、当然ターゲットになります。


そういう人達のうち、野心家の人にとり旧主の血筋で次代様の生母という立場の築山殿というのは、家康と離縁していようが、していまいが大変魅力的にみえるでしょう。

彼女に接触をして、信康を旗印に勢力化する可能性もあります。

そうした場合、築山殿(或いは周辺の人)が、侍女を信康の側室に入れ男児を上げさせ、自分の立場を固める方向へ舵をとることも考えられます。


ですから反対に誰が築山殿を訪れたか、また信康の側室を入れるなどの不審な動きがあれば、必ず家康に上申するという下知はあったでしょう。


つまり、築山殿絡みの女を、信康の側室に入れることは、徳川宗家当主である家康的には考えにくいのではないかということになります。


その上築山殿の侍女でなくとも、関係が悪化している「武田家に連なる人」の娘を、自分の家と格差のある同盟相手の娘を正室として頂いている息子の側室に入れることを許可するものか。とても疑問です。


 では信康の側室に、築山殿の侍女が上がった可能性はないのかというと、それは皆無ではないと思われます。


まず築山殿の侍女というのは、どういった方々だったのか考えてみます。


 築山殿が岡崎入りしたのは非常に稀なケースです。

戦国時代の武家の夫婦関係というのは、基本的に家同士の結びつきの証です。

特に殿と正室というのは愛情を基礎に置いた人間関係ではなく、ビジネスパートナーに近いものがあります。

ですからそのビジネスが破綻したとき、関係を解消することになります。

偏諱を返すというのは、「手切れの一礼」という戦国時代の主従別れの儀礼の一つなので、正式に家康が今川に主従関係を解消していることが分かります。

手切れを入れましたから夫婦関係を解消し、普通であれば、子供は基本的に家に付くので子供は残し、相手方へ妻は返します。

しかし家康の手元に正室築山殿はいませんので、当然返せません。それで家に付く子供の引き渡しを請求した。

ただそれだけのことだった筈なのです。


ですから築山殿が岡崎入りするというのは、普通の嫁入りや敵対勢力になった相手に、相手の家の娘を返すというのとは全く異なる訳です。

そうでなくとも築山殿が岡崎入りした永禄6年(1563)前後の家康は、家の立て直しの基礎を作る時代で、素直に旧臣達が集まらず、相当四苦八苦しています。

家康からすれば、手切を入れ、反対勢力になっている今川家に連なる人々はできる限り排除したいと考えるのは道理ですし、反対に送り出す側の関口家では、怨敵徳川家に家臣を移らせるのは、今川家の雰囲気もあり、その家臣の実家の気持ちを考えると厳しい事態であったと思われます。


 まず子供たちの周辺にいる家臣を見ていきます。

普通、子供の彼らの周囲にいるのは、乳母、乳兄弟(姉妹)、御伽、その他に僅かな侍女や近習達でしょうか。

彼らは今川或いは関口家の人と、家康の家臣たちから構成されていますが、大きくなれば影響力を持つ乳母、そして乳兄弟、姉妹は、刷新され、徳川家の人たちと交代されているはずです。

また織田家との縁組を考えると、信康のそれらには織田の人たちが入ったことも考えられます。

信康を仮にでも徳川宗家の嫡男として立たせるためには、今川色や今川につながる人を排除することは必須でしょう。

亀姫とても徳川の娘として育ち、嫁入り先の家との架け橋になるのですから、こちらもまずあり得ないといえます。

もし今川家が交渉をしたとしても、そこは譲ることはできないでしょう。


 築山殿の侍女と近習たちも関口家の重臣の娘たちと家康の家臣から成り立っています。その松平家の人が何人か付き従ったかもしれませんが、今川関連の方はお引き取り頂いたと考えられます。

流石に乳母や乳姉妹達はそのまま付き従ったと思います。


 信康につけた傅役と後見は、平岩親吉、石川数正という自分の幼い頃からの側近です。家康にとって、最も信頼できるのは、そうした幼い頃からの側近、それから岡崎を護った忠臣達でしょう。

築山殿に初期につけた家臣、その婚姻に関して資料がないため分かりませんが、カットした侍女や近習達の埋め合わせに築山殿の身の回りに入ったのは、徳川家の譜代の家臣筋の人たちになるのではないかと思われます。

それでは、築山殿が側室を用意しようとしたら、譜代の彼らが家康に注進となるはずです。


また信康が独自に欠員のあった侍女の代わりに誰かを母に付けるとすれば、石川数正や平岩親吉を始め、宿老たちの承認が必要ですし、それは家康の耳にも入るでしょう。

しかし、これは無い話ではないと考えられます。


ただそこから相手が誰であれ、信康単独の意思で誰かを側室にすることは、当時的に非常識な話になります。

大名家の婚姻は家の存続と繁栄の為のもので、側室は正室よりも家格が下がる有力者を家への忠義心を増してもらう手段でした。これは当然、一家の主人が采配するものです。

家督を継いでおらず、更には「弱冠二十歳(一人前)」※ではない信康が何かできるものではありません。


確かに普通であれば、数えで19歳の時点で正室に男児が生まれない場合、側室を入れる話が持ち上がります。

しかしそれが家を継ぐかもしれない信康、しかも格上の正室織田氏娘五徳姫に男児が生まれていないという難しい状態ですから、徳川宗家当主の家康の考えが反映されない筈がないのです。

信長公がやはり格上の正室をもらい、結果としての部分はあるかもですが、一子として上げても居ないにも関わらず、後ろ盾となってくれていた斎藤道三が亡くなるまで正式な側室を入れていません。


ですから織田家の嫡男に付ける通字の「三郎」の上に、偏諱までを頂いている信康に、側室を入れることを躊躇っていたとしてもおかしくない状況だったかもしれないのです。


しかも当時の上級武士というのは、1人になることがありませんから、こっそりと誰かを押し倒すというのは不可能です。


では「信康の側室に築山殿の侍女があがった可能性は皆無ではない」はずではないか、という話になります。

まぁ、築山殿の侍女でなくとも、家康の承諾のない女を側室にする、側室にしなくとも手を付けるのは不可能ではないかという話です。

ただこれは無理だというのは原理原則論で、現実はそんなんじゃないかもよという話になります。


というのも天正5年(1577)から翌年にかけて、岡崎城では何かあったようなのです。


※元服すると「一人前」と表現されるが、戦国時代では庇護されるべき子供ではなくなり、正式に出仕したり、戦さ場へいくことも可能になるという意味で、通常二十歳までは後見がつき、その後見が取れて初めて一人前の武者となる。

年齢は個人差と家の事情により前後する。

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