天下人になれなかった松平信康①側室の考察3
この天正5年(1577)という年を『家忠日記』でみていきます。
深溝城主の松平家忠は、松平譜代の家柄で、信康より少し年上で、三河衆として岡崎城近くに住んでいます。
「家忠日記」は、元服してから亡くなる直前まで書かれていたそうですが、残念なことに現存して発行されているのは、天正元年7月14、15日。そこから飛んで天正5年の10月からになっており、それ以前のものはありません。
天正5年(1577)11月28日「信康の家見に岡崎に行った」とあります。家見とはいわゆる新築披露会です。
信康が誰の屋敷を作ったのかは書かれていません。
もしかすれば、信康が入れた側室の屋敷のことでしょうか。
しかし気になるのが五徳姫が、信康の死の直前まで「御新造様」と呼ばれていることです。
これはおかしくないでしょうか。
本来五徳姫は岡崎城主の正室で、主郭の奥御殿に居られる「御前様」「御方様」、あるいは「岡崎殿」のはずです。
ところが家康の生母である於大の方が、あたかも岡崎城の女主人であるかのように「御屋敷様」あるいは「御方様」と呼ばれているのです。
於大の方は、織田氏と手を結んだために松平家から戻され、桶狭間後に織田家の家臣化してる水野氏娘です。
元織田家の家臣(両属、桶狭間直後に完全に従属)で、その後に家康の連枝格として出仕した久松氏の正室です。
確かに当主の生母ですが、先の大殿の正室ではありません。
また単に離縁されたり、嫁ぎ先が元の嫁ぎ先に吸収されたのとはまた違い、彼女のケースも非常に珍しいので、こうした立場の人が普通なんと呼ばれるのかは浅学のためわかりません。
しかし大姑にあたる彼女は、岡崎城に住むのなら、二之郭以降に入り、そこに因むか法名で呼ばれるんじゃないかと思われます。
勿論、築山殿が岡崎城に入っているとすれば(正室なら浜松に行くのが当たり前ですが)、こちらも二之郭以降の屋敷に入り、「西ノ丸殿」とか「(出家名)様」とか呼ばれていたはずです。
当時の五徳姫は、書札礼から見ると旧管領家相当の家格を誇る織田氏の娘で、彼女を蔑ろにできる者は徳川家にはいません。
にも関わらず、於大の方が御屋敷様で、五徳姫は御新造様なんですね。
これは何かというと、この天正5年(1577)という年に、何かあって信康は城主では無くなったのではないかということが考えられます。
この後の記述を見ると於大の方の旦那様である久松氏たちも岡崎城に住んでおり、彼らの誰かの祝いが岡崎屋敷ではなく、岡崎城で行われています。
つまり家康の生母の於大の方預かりの城、実質は連枝格である賜姓松平の久松氏が監督している城の城将として信康はいるのではないかということです。
更に『家忠日記』を読み進めますと、天正5年12月までは一貫して「深溝へ帰った」「岡崎へ行った」なのですが、天正6年の3月から「深溝へ行った」「岡崎に帰った」になっています。
彼ら岡崎の周辺に城を持つ「三河国衆」たちは、岡崎に常駐することを命じられたようなのです。
また気になるのがこの天正6年の2月4日に「信康の御母様より音信があった」と、築山殿から手紙か贈り物か、とりあえず連絡が来たことが書かれています。内容に関して何も書かれていないことから、知らせだけかもしれません。
連絡の件が書かれているのはここだけですが、立場がない筈の築山殿が、何故家康の譜代である松平家忠に連絡をしてきたのか、謎です。
松平家忠ら三河衆と呼ばれる、連枝衆の松平氏たちは、家康とは別に駿府に呼ばれ、今川家の連枝や重臣の娘たちと結婚をし、直臣として義元に従属していました。
家忠の母は、例の信康との人質交換の折に攻められた鵜殿長持の次女です。
鵜殿長持の正室は今川義元の妹で、築山殿の母も義元の妹と言われているので、二人は比較的近い親族といえます。
そのせいかもしれませんが、何故この時期に音信を受け取っているのか、非常に気になります。
原本の欠損箇所の多い天正6年の正月には信康が主語(以下は欠損)の箇所が二箇所(6日、9日)あり、11日には「岡崎屋敷」(以下欠損)、17日には「深溝より門木が届いた」とし、18日には「屋敷の普請をした」とあり、家忠が岡崎城下の屋敷の手入れをしている様子が見られます。更にもしかすれば2月13日の「岡崎に参上した」は引っ越しをしたことを表しているのかもしれません。
この後、天正6年9月5日「家康より鵜殿善六郎重長を御使番にして岡崎在郷は不要であるとの仰せがもたらされた」とあります。
信康と家康は出陣中の話です。
帰陣した信康は別段変わりがなさそうで、9月下旬まで何度か「自分の領土に帰るように」というお達しと、「岡崎に居なくてもいいのか?」という家忠たちの確認が続いて、26日に家忠の女たち(家忠の御内室様?)が深溝へと雨の中引き揚げた様子が書かれています。
そして10月6日には「岡崎在郷負担免除の御礼に、浜松へ松平勘解由左衛門康定が行った」とあります。
松平康定とは、『家忠日記』の注釈によると「家忠の大叔父」と書かれています。
つまりは、岡崎在郷と解散は、徳川宗家の当主家康の意思であるということです。
こうして岡崎に詰めていた彼らは自領に戻り、何気ない日々が続く中、翌天正7年(1579)6月5日、「家康が浜松より信康と御□□□の仲直しに来られた。□□□時□□家康御屋敷へ□□□□御渡し候て、ふかうすかへり候」とあります。
(家康が浜松から、信康と御〇〇○を仲直りさせるために来た。〇〇○の時、○○、家康が於大の方へ、或いは〇〇が家康の母である於大の方へ〇〇〇〇お渡しになったので、
よく「信康と御新造様(五徳姫)」と訳していますが、ご覧の通り推測でしかありません。
そして7日に家康は浜松へ戻ります。
8月3日にはまた家康が岡崎へ足を運び、4日には「御親子は争論で物別れとなり、信康は大浜へ御退きになった」とあり、10日に「信康に内通しない旨の起請文を御城にて書いた」とあります。
その後、信康の自刃へと流れていきますが、家忠は信康や築山殿の死について何も書いていません。
こうした動きを見ると、天正5年(1577)から信康に対して、家康が「了承し難い思い」を抱いていたことは確かでしょうし、今川に出仕させられ、婚姻関係のある三河衆が岡崎に集められているのを見ると、何かしら今川家と関係のある動きがあったのではないかと考えられます。
つまり一つの仮定を組み立てるなら、男児が生まれていないにも関わらず、信康に側室を入れる動きがないことに対し、アンチ織田派の家臣達が業を煮やし、今川に関係する女性をあてがった。
その方法は一番簡単なのは、織田信秀の最後の一年で何人もの子供が生まれたのと同じ、当時の病床にある時には昼夜を問わず、枕元で経文を訓むという風習でしょう。
こうして勝手に手をつけたことを知った家康は激怒し、天正5年末に信康を城主から城将に降格し生母の於大の方を岡崎に入れ、その夫で賜姓松平氏の連枝格久松氏に相備えの副将として岡崎を任せます。
そのため岡崎城主郭奥御殿にいた五徳姫は、屋敷を新たにします。
そして今川に関係する三河衆を岡崎城に詰めさせ、生まれた子供に相応の算段(家臣に下げ渡すなど)が済むと、三河衆を元に戻した。
(この場合、女は側室にはなりません。)
『信康と御〇〇○を仲直りさせるために来た。〇〇○の時、○○、家康が於大の方へ、或いは〇〇が家康の母である於大の方へ〇〇〇〇お渡しになった』
信康は若君を取り戻し、於大の方との口論になった。他のことにも飛び火して問題に発展したので、家康がやってき、三河衆を召集して(誰かが手を貸したなどの疑惑があったのか)問題の解決を計り
「〇〇○時、(乳母、女房)が於大の方に(若君、御〇〇様)お渡しになった」
あるいは「女房が於大の方に御乳母様をお渡しになった」
などとも読むことも可能です。
実際にそういう関係で家康にとって、信康に「了承しかねる動き」があったとすれば、この男児が産まれたが為に、家康は織田家へ顔向けできなくなってしまったので、築山殿、信康をはじめ何人かの近習を殺さざるを得なかったという話にもなります。
もしそうなら、そこまでしなければならなかった家康の弱みとはなんだ?ということになりますが。
信康の自刃直後、家康は北条氏と結び、その結果北条氏の下に身を寄せていた今川氏真が家康のもとを訪れ今川に縁のあった家臣たちと交流している姿が描かれています。
今川家の家臣の娘ということはあったとしても、武田家の旧臣の娘ということや、五徳姫の嫉妬による讒言ということは、まずないのではないかというのが、今回の一つの結論です。
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