大名の使者は命がけ

 大名からの手紙を相手へ持っていく人を「使者」と呼び、書状を出す側の大名と信頼関係のある小者や僧侶、身分の軽い近習が多く、頭の回転が早く、弁舌爽やかな人物が選ばれます。

遣わす相手先は、取次同様ほぼ決まっています。


元々書状には副状を出す取次の名前のみ記載されていましたが、室町末期あたりから大名文書の末尾に「(取次の名前)申すべく候 (使者の名前)差しやり候」などと書かれ、使者の存在がクローズアップされるようになっています。

実際のところ相手先に参上して、大名の伝えたいことを申し上げ、相手先と交渉をする役目ですので、非常に重要なお役目だという話は何度かさせて頂きましたね。


それも勿論大変ですが、戦国時代は道中もとんでもなく大変でした。


 天文13年、あるいは16年(1544、又は1547)尾張と美濃で、井之口、あるいは加納口合戦と呼ばれる戦いがありました。これは斎藤妙椿死後の美濃争乱、船田合戦からの流れの戦で、美濃守護土岐氏を擁する織田信秀とそれを廃する斎藤道三の戦でした。

この時信秀は、越前朝倉孝景に手合いを求めており、朝倉孝景も美濃に向けて軍勢を送ったとされています。


 さて、この手合いを求めるために、信秀は越前一条谷城まで使者を送ったはずです。

美濃と尾張というのは、ご存知のようにまるでブロッコリーのような形をしていて、茎の尾張の頭にボワッとよく茂った葉っぱの美濃が覆いかぶさっています。そのブロッコリーの頭の向こうに朝倉孝景のいる越前一条谷がありますが、残念ながら敵領美濃を突っ切って、越前に行くことはできません。


 当時の信秀の居城である古渡城を出た使者殿は西へ、西へと進み、木曽川と長良川を渡り、桑名に入ります。

八風越え(菰野田光→近江八日市)、或いは千種越え(菰野千種→近江八日市)で、近江に向かいます。ここは近江保内商人(鈴鹿山越えを独占している商人、北伊勢四十八家の棟梁千種氏の支配下にある)が牛耳っている道です。

近江に着くと当時勢力を拡大していた六角氏の支配下を北上して今浜(後の長浜)まで行き、京極氏の支配下の北国道に入って今庄まで行くと北陸道を進み一条谷に着きます。

結構いろんな人の領地を通らなければならず、大変そうですね。


この頃は近江との関係が薄かった信秀は、「路次馳走ろじちそう」を求めることができませんでした。

「路次馳走」とはなんでしょうか。


NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

「真田信幸宛豊臣秀吉朱印状」 

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000515100/2000515100100040/ht096200


「今度関東八州・出羽・陸奥面々分領、堺目等を立てらるべき為、津田隼人正、富田左近将監、御上使として差し下され候。

案内者として同道すべし。然れば、其の地より沼田迄、伝馬六十疋・人足弐百人申し付け、上下共送付すべし。路次宿以下馳走肝要に候也。

   七月十日(朱印)(豊臣秀吉)

     真田源三郎とのへ」


これは秀吉が真田信幸に対して、案内人を沼田まで同行させて、使者達の安全な交通路の確保、宿所の確保の交渉をするように命じたものです。

これが「路次馳走」です。

もし従属、両属、多属をしている国衆がいれば、使者を遣わす場合、彼らの領地を通る時には、「路次馳走」を求めることができました。


朝倉へ使者を送った信秀は、馳走をお願いできませんでしたが、敵領を通らなくても良いだけマシだったかもしれません。


 大永5年(1525)からしばらくの間、北条氏康の父の氏綱の、上杉謙信の父親の長尾為景に宛てた書状というのは、大名文書としては長いので有名です。

当時、長尾家と北条家の間におられる山内、扇谷両上杉氏と北条氏は敵対しており、長尾家と結ぶのは政策的に重要なことでした。

しかしながらこの長尾家と行き来する道は、険しい上に敵領になり、ここを確実に往復出来るものは、とある山伏しかいなかったそうです。

残念なことにその山伏は、文武両道とはいかなかったらしく、口上を述べたり、相手方と交渉するなど出来なかった為、普通は書かないようなことまで書く次第になったそうです。

このように、安全な交通路がないことを「路次断絶」と言います。


敵領ではこうした使者が通過するのを捕らえることを命じています。その上敵領でなくとも、緊張が高まっていれば、敵の大名は他人の領地でも境目あたりでは家臣を遣わせ、捕縛令を出していることがありますから、用心をしなければなりません。


信玄や信長公は、それぞれ命運をかけた大戦の折には、全ての通行人を捕縛して、厳しく詮議するよう命じたことがあります。


 使者には規定の路銀と褒賞が渡されますが、このように敵領を抜けて使命を果たす場合、多額の知行地が与えられたり、特権や希望をかなえてもらえることができます。

元亀3年(1572)武田信玄は、敵対する織田領を通過して朝倉へ向かわせた使者が戻ってきた折に、恩賞として七十貫文(年収700万程度)の知行を宛てがっています。


 また重要な交渉ごとがある時には、取次が向かうことがあります。そうした時には、先ほどのように案内人が同行します。

大名から「路次馳走」を命じられた国衆は、自分の権力の及ぶ範囲までは確実に送り届けてくれます。

ところが、緊張地帯や外交が上手くいっていない、敵対関係にあるなどする場合は、交渉して通過させることが、難しくなってしまいます。ただの使者なら良いですが、同行しているのが大名家の宿老、連枝ですと何かあってはいけませんから、なかなか辿り着けない、立ち往生するという事態に陥ることもありました。このような場合を、「路次不自由」と言います。


結果として、天正9年の武田勝頼の里見義頼への取次は、北条氏領の通過が叶わず、取次がいくことを諦めて、案内人に交渉を任せざるを得なくなることもありました。


ですから、両属、多属の国衆は、周辺の国衆と普段から親しくしておくことはとても大事な役目です。


 また以前も取り上げましたが、今川の使者は、出陣中の信玄の元に書状を届けなくてはなりませんでした。この時は使者として僧侶を向かわせていますが、それでも流れ矢にあたる可能性もあり、これもまた命がけですね。



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