取次と使者

 (『戦国大名家でのお仕事』の「取次」を先に読まれますと、わかりやすいです)



 戦国期の大名の公文書の中に「役帳」「分限帳」と呼ばれる、自らの家臣一人一人の収入を記したものがあります。


有名なところでは北条氏康の『小田原衆所領役帳』がありますが、これの「他国衆」の項目に、武田家の家臣たちが名前を連ねています。


いくら同盟を結んでいる間柄と言っても、信玄の家臣が北条氏康から給料を貰ってるなんて、もしかしたら北条氏康は調略をしかけているのでしょうか?


いいえ彼らは、北条氏を担当している取次たちです。


 取次というのは、現代の外交官のように自分の国の立場で、相手の国と様々な交渉をするというのもあるのですが、自らの家で相手の家の代弁者として活動する側面もあったのです。


例えば織田家に於いて、明智光秀は長宗我部家の代弁者、出張所の所長みたいな立場です。


織田家の中に反長曽我部派の家臣がいれば説得したり、良い噂を流したりなどし、長曽我部家を好意的に考える人々を増やし、その家の世論を長曽我部家に有利になる方向へ向ける努力を求められることになるのです。


比叡山焼討ちに関して、足利義昭の前で細川幽斎(藤孝)が、信長公擁護の熱弁を奮ったのは、彼が織田家担当の取次だったからです。


その報酬として取次は、交渉ごとに金品を贈られるだけではなく、上記のように取次相手の家からも所領を宛行われることが少なからずあったのです。


知行高はそれぞれですが、現代の価格に直して五百万から一千万前後が相場のようです。


今川義元も武田家の取次穴山信友に「他の取次とは別格の入魂じっこんの間柄だから」と所領を宛行あておこない、「益々粗略無くお働きいただけますよう」とお願いをしています。

勿論これは取次をしている間のものですし、取次が交代したり、同盟破棄となれば返上することにはなります。

しかし同盟が破棄されても取次のルート(手筋)は保持され、そこで和平交渉がなされたりし、また和平が結ばれますと所領は回復されます。


また主人が取次先の家に従属することがあれば、それは取次の功績として、特別に知行が宛がわれます。

「これからも良き取りなしを」と、主人たちが家に馴染んで離反をしないように、より一層働くことをお願いされ、取次は家の中での立場が上がることになります。



 ところで最初に「武田家の家臣」と書きましたが、この複数形に入るのは、殿の側近の取次(小指南)がいますが、取次の「使者」も名前を連ねることがあります。


 取次の使者は、実際に書状を持って相手先に向かう人のことです。


紛らわしいのですが、大名文書の末尾の「なお〇〇申すべく候」「委曲いきょく〇〇申すべく候」の〇〇には取次の名前が入り、「添状、副状の発給は〇〇で、詳細はそこに述べてある」という意味になります。


取次は宿老、連枝などの重臣たちの指南、あるいは殿の側近たちの小指南ですから、本国を離れ相手先に出向くのは、余程の事態が勃発した場合のみになります。


実際に相手先に向かうのは使者たちで、書状では「△△差し遣り候」「△△差し下し候」と書かれます。


使者は取次の家臣ではなく、殿の直臣です。

御伽衆の僧侶だったり、側近の馬廻だったり、珍しいところでは、将軍家の御伽衆を雇ったり(武田勝頼)と立場はいろいろですが、頭の回転が早く、弁の立つ教養ある人が選ばれます。というのもおうおうにして、副状を記す取次も簡単なことしか書いておらず、詳細はこの使者が述べることが多いからです。


そして主人の意思を伝える使者は、取次先に出向いて、相手の事情などを聞いて、色々善後策を練ったりします。指南ら取次もそうですが、使者の彼らも便宜裁量権を持っており、相手方の元でアレコレと、どうすれば一番上手くいくのか考えるのが、大事なお仕事の一つです。


武田信玄が織田家に派遣していた使者は市川十郎右衛門尉で、彼が永禄12年(1569)長期間に渡って岐阜城に詰めていたのは有名ですね。



 これが裏目に出たのが、越相同盟の折の交渉です。


永禄13年(1570)上杉方の取次山吉氏は、北条氏方から申し入れた案件を、北条方が履行しないことに苛立ち、なじる書状を北条家の上杉家担当の取次、遠山康光に送りつけました。

ところがその申し入れ自体を知らなかった遠山康光は驚いて、主人の北条氏康に確認しますが、なんと氏康も知りませんでした。


つまりどういうことか……というと、指南の宿老の取次と使者が腹芸で交渉をしていたことを、主人の北条氏康の了承を取る前に、上杉方が連絡してきたということです。


このように主人の知らないところで許可を出して、それを反故にされるというのはないことではありませんでした。

殿との関係が、うまく行っていないと取次というのは、なかなか厳しいものがありますね。


 それが先ほどの北条家の取次、遠山康光の悲劇です。

彼は北条家の近習で、康光は北条氏康から偏諱を受けている氏康の側近でした。


相模の獅子と呼ばれた北条氏康が亡くなると、後継である北条氏政は上杉家との同盟を破棄し、武田家と結ぶことを決意します。


上杉家を担当していた取次たちは、ある日突然、「武田家との同盟が成立した」という話に驚き、氏政に抗議をします。


元々反上杉、親武田派の氏政に、上杉家を取り次いでいた人たちは冷遇され、特に遠山康光は居場所を失います。

というのも、謙信の跡取り養子のうちの一人が、遠山康光の甥(北条氏康と康光の妹の間の息子が越相同盟時の証人として、上杉謙信の養子になった)で非常に縁が深かったため、越相同盟には深く関わっていました。


北条氏政が上杉家を蔑ろにした(謙信が呆れた逸話が残っている)上に同盟を破棄したため、立場を失い失脚したと言います。


その後、甥である上杉景虎のもとに向かい彼を支えていた遠山康光ですが、結局、謙信亡き後の家督相続争い、御館の乱に巻き込まれて、景虎共々自害し果てました。


元は名君北条氏康の偏諱を頂き、妹を側室に入れるような寵臣でしたが、近習たちというのは代々の宿老たちと違って、家の後ろ盾がありませんから、殿の気持ちが離れると誠にあっけないものです。


これと同じような次第は徳川家の石川数正、織田家の明智光秀など、一代で成り上がった忠臣と言える人物に見ることができます。


通常、取次に求められているのは、ただ、ただ家同士の「かすがい」になることですが、立場の難しさに家を出るしかなくなる取次も、残念なことに少なくありませんでした。


そう考えると、当時的には破格の増収も、割に合わないのかもしれませんね。

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