戦国時代の正月

 (素人が手にする事のできる限られた史料の中でのまとめです。間違っている可能性があります。ご了承ください。)



今回は、戦国時代の正月の行事を見ていきます。


 正月に武将たちは主君である大名の城に出仕し、年始の三献の儀を執り行い、主従関係を確認します。

その後に宴会が行われ、吉書を交わしたり、連歌、茶、能などを楽しみます。

宴席では雑煮と、おせち料理ではありませんが、それなりのご馳走の膳がでました。


 また武将も自分の城に戻ると、同じことを自分の家臣たちと執り行います。

また、家がある程度大きくなると、そのブロックのリーダーの城へも顔を出します。これは大名の城へ出仕した帰りに、皆で寄って顔合わせをする場合もありますし、別の日に向かうこともあります。


近隣の城主同士が毎月行っている、連歌の例会を開き、新春の顔合わせをします。

それ以外でもお互い招き合い、振舞をして新春の交流します。


この日程は、別段元旦にするという訳ではなく、大名の都合に合わせて、日にちがずれたりします。


そんな中で、以下の正月のお祓いを兼ねた遊びが行われます。


⭐︎「毱打まりうち(ぎっちょう)」「打毱うちまり


これはホッケー、ポロに似た、中国から入ってきた遊びです。

元は端午の節会に宮中でされていましたが、平安も末期を迎える頃には廃れ、戦国当時は正月遊びとして広まっていました。

子供たちのうち、男児たちもこの正月遊びに精を出しました。


何人かチームを組んで敵味方に分かれ、毬杖さで(ぎっちょう・ぎじょう)という、笹竹の柄のついた、小さく長い六角柱のつちで、4cmほどの木製の小さな球を叩いて、毱門と呼ばれるゲートにゴールを決める競技です。

公家、武家では騎馬が多かったようですが、徒歩でも行われます。


この様子を踊りにした『打毱楽』という舞楽があり、この舞を皇子が素晴らしく舞ったという歌が、万葉集に残されています。

かつてはこの舞楽を、打毬の折に舞ったとされます。

『打毱楽』はYouTubeでも拝見出来ますので、興味のある方はどうぞ。


『コトバンク』毱打、打毬


https://kotobank.jp/word/%E6%AF%AC%E6%9D%96%E3%83%BB%E6%AF%AC%E6%89%93-241567




現在宮内庁では、復活させた「騎馬打鞠」をされているようです。

https://www.kunaicho.go.jp/culture/bajutsu/dakyu.html


ラクロスのような網をはったものを使用されていますが、昔の絵をみると槌形のものが戦国期は使われていたようです。



⭐︎胡鬼こき(こぎ)

羽根つきです。

今となっては、知識としては知っているけど、実際にしたことある人の方が少ない遊びかもしれません。


「胡鬼」とは古代中国語で「とんぼ」を指すそうです。とんぼは蚊を食べると言われ、羽根をつくカーン、カーンという音が、蚊が媒体として広まる病を防ぐまじないとして、平安期の正月の節会で行われていました。


 戦国時代も「胡鬼こぎ(こき)」と呼ばれ、男女関係なくされました。

羽子板は「胡鬼板こぎいた」(こぎた・こきいた)と呼び、元々は笏形のものが、羽根を突く部分が大きく長方形になりました。

羽根は「胡鬼子こぎのこ」と呼ばれて、「ツクバネ」という木の実に模した形で、木の皮は洗濯に使い、実の方は数珠にも使う、何かと役立つムクロジ(ムクロジュ)の木の実を頭にして、鳥の羽根を付けました。



https://www.ootk.net/cgi/shikihtml_s/shiki_597.htm

『四季の山野草』ツクバネ

(リンクフリー)


https://www.uekipedia.jp/%E8%90%BD%E8%91%89%E5%BA%83%E8%91%89%E6%A8%B9-%E3%83%9E%E8%A1%8C/%E3%83%A0%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B8/


『庭木図鑑 植木ペディア』ムクロジ

(リンクフリー)


現物は下の独楽の項に「勝瑞城館遺跡」の出土品のリンクに載っています。



 男色推進時代に一石を投じた『若気嘲弄物語にゃけちょうろうものがたり』で有名な一条兼冬が、天文13年(1544)に補刊した『世諺問答せげんもんどう』にはこのように書かれています。


「これはおさなきものの、蚊にくはれぬまじなひ事なり、秋のはじめに蜻蛉とんばうといふむし出きては、蚊をとりくふ物なり、こきのこといふは、木連子むくろじなどを、とんばうがしらにして、はねをつけたり、これをいたにてつきあぐれば、おつる時とんばうがへりのやうなり、さて蚊をおそれしめんために、こきのことてつき侍るなり」


この一条氏は非常に面白い一族で、古来よりの揚名官職(名だけの官名で、給与を含む実態を伴わないもの)について調べて書き残していたりと、何かと物議を醸し出しておられます。



⭐︎木とんばう

いわゆる竹蜻蛉たけとんぼです。

木や竹で出来た羽の部分の中央に小さな穴があります。

これも正月に飛ばして、夏の蚊の発生を押さえるまじないでした。


これも下の独楽の項のリンクに写真が載っています。


 ⭐︎紙鳶いか(しか)


「凧揚げ」も『和名類聚抄わみょうるいじゅしょう」に記述があり、平安期には「紙鳶いか(しか)」「紙老鳶しろうし」と呼ばれ、宮中の節会の行事としてなされていました。

上がり方で占いをしたり、音で破魔をしたとされています。


節会として廃れると共に、民衆化していったと言われています。

地方の凧には、起源を戦国期に置くものが多く、徳川軍が武田信玄に攻められた時に外部への連絡のためにあげた(当時はのぼす)、義元の戦勝祝いにあげたとし、そこから『戦国時代には戦で凧が使われた』とされていますが、当時の軍記では、実際に凧を利用したものを寡聞にしてまだ読んだことがありません。すみません。

ただ中国では、戦に使用したと言いますから、そういう使用法もあったかもしれません。


戦国期には平安期に中国から渡来した和凧のほか、南蛮系の菱形の凧が確認できています。


細く割った竹に布や紙を貼ったものになります。


⭐︎独楽

 こま回しも古くからの遊びです。

以前は藤原京から出土された物が最古とされていましたが、2020年8月、古墳時代の木製の逆円錐型(どんぐり)が大津で出土されました。


『大津市埋蔵文化財調査センター広報誌「むかし、むかーし」』

https://www.city.otsu.lg.jp/material/files/group/68/30.pdf


朝日新聞(有料記事ですが、無料公開部分に古代独楽の回し方の動画があります)

https://www.asahi.com/sp/video/articles/ASN8W3Q05N8TPTJB002.html


この当時は祭祀用で、吉凶を占っていたようです。


平安期には、中国から入ってきた唐独楽(竹製の筒の胴体に穴を開けて回すと音がでるようになっている)が伝わりました。


日本玩具博物館 2021年正月 竹鳴り独楽


https://japan-toy-museum.org/archives/monthly/%E3%80%8C%E7%AB%B9%E9%B3%B4%E3%82%8A%E7%8B%AC%E6%A5%BD%E3%80%8D


『和名類聚抄』に「古末都玖利こまつぐり(こまつむぐり)」(高麗つむぐり)としても出てきます。


平安期には相撲節会の際の吉兆を占う道具、或いは破魔の道具として用いられたとあります。

この時、独楽を回すのは、独楽びょう師と呼ばれる専門の廻し方がおられたそうです。


また女の子たちは竹ひごに布を巻き付けて、愛らしい独楽をつくったともされています。


『大鏡』や『太平記』にも、独楽の記述が見られます。


平安後期の『大鏡』の方は、後一条帝がまだ幼い頃、玩具を持ってくるように家臣たちにお願いをします。

その中で藤原行成が「こまつぶり、むらごの緒つけて」たてまつりました。

やり方を教えると帝は非常に気に入って、独楽を回しながら当時の住まいの南殿を歩き回ったという話です。

「むらごの緒」とはむら染にした、鎧のおどしの革紐のことです。

むちで叩いて回す、昔ながらの方法で、呼び方は「こまつぶり」だったようですね。


鎌倉末期から室町時代にまたがる南北朝時代の『太平記』の方は「コマ廻シテ遊ケル童」で、「こま」と呼ばれています。


同時代に成立した、西本願寺3世覚如上人の伝記を叙した絵巻『暮帰絵詞』に、独楽を回している少年たちの姿が残されています。

ネット上のもので拾えたのは、下記のものになります。

この頃には、紐で回すものもあったようですね。


もしかすると、球体のものは「独楽つむぐり」、球体ではないものは「こま」と呼ばれていたのかなと思います。


他の時期にも独楽で遊んでいますが、特に正月に邪気払いの呪いとして為されていたようです。


weblio 独楽


https://www.weblio.jp/content/amp/%E7%8B%AC%E6%A5%BD


また正月遊びではありませんが、独楽の一種、輪鼓りゅうごと呼ばれる、デアボロも流行ります。紐を使い空中で回転させるもので、安徳帝がこれを持って遊んでいる絵姿が残され、海中に沈まれた幼い帝を思う気持ちが感じられますね。


この輪鼓は室町時代には大道芸人の人気芸の一つになっており、民衆でも遊ばれていたそうです。


Wikipedia 安徳天皇

手にもたれているのが輪鼓です。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87



○徳島三好氏「勝瑞城館遺跡」

「勝瑞出土品、遊•学•祭•戦」

サイコロ、双六の駒石、羽子板、独楽、とんぼなど。


http://syugomati-syouzui.sakuraweb.com/sp/sp-syutudo-2.html


この他、戦国期に使われた様々な生活品が載せられています。

ここと朝倉氏の一条谷の遺跡出土品の保存状態は、大変素晴らしく、一条谷の復元された城下町は戦国小説を書かれる方には超お薦めです。



 これらは正月が明ける1月15日に行われる「三毬打さぎちょう」(三毬杖)という小正月の行事で、燃やされます。

戦国期には「左義長」とも書き、『信長公記』にも出てくる火の祭りですね。


https://www.weblio.jp/content/amp/%E4%B8%89%E6%AF%AC%E6%9D%96


『weblibo 辞書』 三鞠杖


まず三角錐に竹や笹竹を組み合わせ、その中に柴や藁をつめ、表面にウラシロ(シダの葉)を、先端には扇子や飾りをつけます。

周りには、短冊や領主(元は帝)の書いた吉書を飾ることもありました。

ちょっと和式のクリスマスツリーのようですね。


この中に、正月遊びで厄を祓った道具を燃やします。

「三毬杖」と書くのは、元々毱打で使った毱杖を使って、この三角錐を作ったからということです。


 早朝というのか、真夜中を過ぎた頃、烏帽子に素襖姿の陰陽師が囃子をして、和製ツリーに火をつけ、折烏帽子を被った囃子手が白い切り紙をつけた笹を持ち、また笛や鞨鼓かっこ、鼓や太鼓でにぎやかに囃し立てます。

華美な衣装を着た踊り手たちも加わり、皆で囃し立てながら、舞踊ります。


踊り手は、平安時代には金銀の細い布を巻いた短い木を持った子供だったそうですが、戦国期に至ると老いも若きも松明を持っていたという地方もあります(安土城のあった近江八幡ですな)

この左義長は戦国期には地方色が強くなっていて、調べる地方によっては、かなり違う形になっているかもしれませんね。


この時の竹の爆せる盛大な音が、邪気をはらうといわれていました。


戦国期には、更にこの音を大きくする為に、竹の中に爆薬を詰めたという話もあります。


三毬打の中には、戦国期には正月に領主と領民の間で交わした吉書の写しもいれます。


煙が天高く上がって天上の神仏に届き、文書の内容が実現すると言われ、これは後世には書初めを正月飾りとともに燃やすどんど焼きになっていきます。


左義長が終わると、望月粥(この日は旧暦では満月でした。元々は餅は入れませんが、戦国期には家によっては入れていたみたいです)を食べて、お祝いをしました。


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