戦国期の風習、風俗
室町、戦国のご贈答文化
室町時代の風習に「
財政の逼迫している朝廷に対し、鎌倉幕府が「
これは税や義務として金品を納めたのではなく、あくまで「厚意」でお金を差し上げているというのがポイントです。
室町時代になると、これがお金を含む「贈り物」をさすようになります。勿論、あくまで「厚意」ではあるのですが、政治的な色合いが強くなっています。
つまり贈与というよりも、献金であり、贈賄に近くなっているのですが、あくまでも社会的には単なる「厚意」であり、他意はないというスタンスな訳ですね。
八朔は旧暦「8月1日」のことです。
元は農村文化の収穫前の豊作祈願から収穫の祝いのことを言ったとされています。農村文化の影響を受けやすかった鎌倉幕府に伝わり、豊作祈願の「田の実を祈る」から「頼みを祈る」、あるいは「収穫の礼」から、何というか一年お世話になりましたという季節のご挨拶……お中元、お歳暮のモトというのか、つまりこちらも贈賄ですね、これに転換されていったそうです。
室町時代には様々なことが儀礼化されていきました。
まだ将軍の地位が崩れるまでは、毎月朔日(1日)には、在京の家臣たちは花の御所に参上して、対面の儀式を執り行って礼物を献上していました。
そして、大名たちの家臣は、自邸に帰って来た大名と同じように式三献の儀式をして、主従の絆を確認しました。
時代が進むにつれ、この朔日の対面は大名たちが下国したり、将軍がおられなくなったりして、何となく廃れていきますが、正月と八朔の儀式は残り、戦国末期安土時代にも引き継がれ、『家忠日記』にも「家中衆が(八朔の)礼に来られた」(天正7年、8年)とあり、家に仕える人々が深溝城主である家忠を訪問している様子が遺されています。
この八朔は現在で言えば9月初旬前後で、荘園などからの収入が手元に届く時期というのもあり、室町初期から一番経済が回った時期であったと言われています。
八朔の贈賄と訪の違いは、日を限ったものと限っていないものの差だけではなく、お返しのある八朔とない訪というように、こちらから贈ったものに対して相手側からのお返しがあるかないかというところがあるそうです。
贈る側としては八朔の日には、オリジナルデザインの意匠を凝らしたものを用意する人もいたそうです。
室町初期の話になりますが、『山科教言卿日記』(言継卿の六代前の当主)にも、様々な品を贈る算段をしている様子が描かれています。
伏見宮貞成親王は、燭台など金属製品を毎年オリジナルデザインで作らせ、引合(高級紙)と共に帝や院、将軍たちに贈り、練貫や太刀をお返しに頂いていたようです。(『看聞御記』)
また絵の描かれた扇を贈り合うのも流行っており、町物と呼ばれる既製品と注文して作ってもらう
また現代でも頂き物を、他の方にまわすことがあると思います。
当時も頂いたものを換金して他の人へ贈答品を購入したり、そのまま他所様への贈答品にしたりしたそうです。中には自分が贈ったものが、周り回って戻ってきたということもあったそうです。
それって、ちょっと嫌な気持ちになりそうですね。
桜井英治氏は『日本中世の贈与について』の中で「(室町幕府は)財源のほとんどを贈与システムに依存した、きわめて特異な権力体だった」とし、贈答という慣習をいかに無駄なく、政権に最大限の利益をもたらすか考えられていたそうです。
つまりそもそも贈られる物は消費される物ではなく、換金されたり、他所にまわしたりすることを前提とした物だったのだそうです。
勿論山科卿のように贈られた絵が大変気に入り、「重々、重々」と秘蔵の逸品にすることもありました。
そうした風習が最も先鋭化したのが、贈与目録である『折紙』で、それは贈与する金額が書いてある書状になります。
元々は「〇〇代」、例えば「太刀代」としてお金を包む形だったのが、金額を書くだけに発展し、本来はそれを後日精算していたのですが、段々と精算しないまま、次の人へ回すようになっていったそうです。
そうなると実際にはお金が要らない訳ですから贈る側、回す側としては、非常に珍重する一品となりました。
ところが、貰った人が現金化しようする時があるとそれは大変なことになります。
そうなると、最初の贈り主まで辿り、やいのやいのと取り立てをするという大騒動になったそうです。
また、「訪」のうち特別な訪問側に対して、歓迎の意で食事を出したり、お土産を差し上げるという風習があります。
このおもてなしの「訪」の最上級が帝の行幸で、それの将軍(天下人)バージョンが、以前拙作でも書きました御成になります。
この将軍の御成を受ける側は足を運んでくれた将軍に対して、主殿で行われる式三献で、何度となく礼物、引き出物を渡すとなっていたと書きました。
将軍御成の中で最も格式が高く、お金がかかるのは寺社への御成で、受ける寺社は公家や将軍、大名たちから奉納される逸品や神人たちが集めてくるお金などを、はきださせられるというシステムになっていました。
これは安土桃山時代まで続いた日本独特の経済システムで、集めたソレをまた将軍や天下人たちは褒美や祝いとして配布したり、寺社などに寄付、奉納するなどしました。
物の動きを見れば、将軍たちは自分の腹を痛めず横流しをしているだけなのですが、頂く側からすると将軍や天下人からもらう訳ですから、有難い訳です。
さてこうした知識があると、資料を読んでいる時に、意外な発見があったりします。
例えば『山科言継卿日記』の永禄12年(1569)8月1日の条に「信長が姑(本妻の母)に礼を述べるため会いに行く」と書かれています。
八朔の知識が無ければ、信長氏、なんの礼に行ったんだ?なんですが、日付を見ると違う景色が見えてきます。
永禄10年(1567)に岐阜城に入城し、美濃、尾張と二国の領主となった信長公は、前領主である斎藤家の正室に対して、下手に出て礼を尽くしているんだなと解釈できます。すると、これは政治的な配慮ではないかということになります。
つまり信長公の美濃攻略は世間的に、まず家督争いの時に後ろ盾になってくれた岳父である道三への恩義があり、そこからの復讐戦という形をとっていたのではないかということになります。
ということは、あの有名な道三が「信長の門前に馬を繋ぐ」と言ったとか、「美濃の譲り状を託した」とかいう話の出所がわかってくる訳です。いや、この譲り状とか台詞とかいうのがほんまにあったという話ではなくてですよ。
それと共に、常識に囚われない織田信長だとか、独裁者、恐怖政治などと称される信長公の緻密な経営者としての姿を垣間見ることになります。
その他、これは掘っていくととても面白い話になる感じですね。
その他、ですね。最近お気に入りの疑問です。
道三の正室である彼女は、道三が鷺山に隠居した折にはそちらへ移動したでしょうが、弘治元年(1555)義龍が挙兵し、道三が撤退した時、彼女が付いていったかは定かではありません。彼女が生まれたとされる明智長山城は、弘治2年(1556)義龍によって攻められ落城していますから、早い時期に信長公が保護し、岐阜入城の折に、共に美濃へ移住して鷺山辺りに住んでいたのかもしれませんし、道三が亡くなった時点でどこぞで庵を結んで公が援助をしていた可能性もあります。
そう考えると、「天下人の母、土田御前3」の最後で言及した明智光秀との出会いは、この辺りかもしれませんね。
まぁとりあえず、道三自体は美濃の人々に支持はされていなかったようですが、岳父の正室に対して下手に出て礼を尽くす新しい領主の姿は、儒教の教えが浸透していた当時、深い感銘を与えた可能性があり、美濃の家臣団の安堵に繋がったことでしょう。
こうした相手方への配慮が戦国時代、或いは信長公が推奨する敵領安堵のやり方だったとすると、佐久間信盛の杜撰な領地経営に対する不満は、追放への一つのポイントになったでしょうね。
知識が増えると、ちょっとだけ当時の彼らの姿が垣間見えて、面白いなぁと思いませんか。
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