戦国大名、寝るでござる


大名の寝間着は、下帯にお端折はしょりのない、対丈ついたけの絹の白い小袖だったと言います。

冬場は下に肌着を着たり、重ね着をして寒さ対策をしたのでしょう。

夏場になると、その白い小袖は脱いで、下帯一つで横になっていたと考えられます。

また、信長公のような大大名、或いは天下人になれば、当時ではお高い木綿の着物も着放題なので、もしかしたら木綿の小袖だったかも知れませんね。


本能寺の変の折に、侵入した兵が

「下帯に肩に白い小袖を引っ掛けた男が、奥から出てきて……」

と供述しています。

ということは、いざという時のために、小袖は側に置いてあるんでしょうね。

また刀は、寝ずの番で侍っている二人組の小姓が持っているものと思われます。


明治天皇の日常生活を書いた本の中に、その明治期でも、小姓にあたる少年たちは学校(学習院)通いつつ、当番で代わり番こで二人一組、二十四時間勤務で働いていたことが書かれています。

夜中まで続く宴に付き合い、明治天皇の出すクイズに答えて海軍などに問い合わせをしたという話も残っています。


大名家で当主となれば、小姓たちは数が多かったでしょうから、月に一度くらいの割合で、殿に付き合って過ごしたのでしょう。

弱小大名とかで、数が少ないと、大変そうですね……



戦国期には現代のような敷布団、掛け布団はまだなく、平安時代にむしろのような畳表を重ねたものから、畳が現在のような藁どこを使ったものに進化して、それを何枚か重ねていたものから、所謂和室のように畳を敷き詰めた、畳敷きの寝室が実現されました。


その上に上筵うわむしろと呼ばれる薄い綿を詰めた敷布を敷き、その上に絹のしとねを敷いたという話もあります。

夏場には、い草の寝茣蓙などを敷いたかもしれませんね。

大大名や北国の大名なら、極寒の季節は毛皮を敷くことがあったようです。


また同時に、寝台と呼ばれる和式ベッドも奈良時代から存在しており、秀吉夫妻は、天下人になってより、この寝台を愛用していたと言います。

秀吉は信長公の真似をされる方なので、もしかしたら、安土城には寝台があったのかもしれません。


掛け布団はふすま、夜着と呼ばれる着物の形をしたものでした。


この衾というのは、平安時代、元々宿直をする人が、冬に動きやすい防寒着として、考え出された、直垂ひたたれに蚕の繭である「真綿」を詰めたものだったとか言います。


公家貴族の皆さまは、何しろ昼間着てた着物を1枚脱いで、上から掛けて寝ていたのですから、「いいなー、いいなー」ということで、真似をして、着物の代わりに衾を上に掛けて寝る仕様になりました。


これは冬場の話ですね。


戦国期あたりでは、その衾の中に蚕の繭や大大名であれば、のちには綿花を入れていたようです。

木綿の栽培で、栽培はできたものの、綿花は取れたが、そこから糸にする技術がまだなく、暫くはこうした暖か素材として扱われていた時期もあったそうです。


夏場はやはり着物の形をした薄衣うすごろもの衾をかけて、裸で寝ておられました。麻の衣もこの時期にはいいものです。何度も水通しすれば、段々柔らかくなるそうですしね。

お腹冷えたら困るし、明け方冷えますものね……ええ。




鎧櫃よろいびつにいれておく春画などにも、夜着に包まれて同衾している人々の姿が遺されています。

なかなか大きくはありますが、二人入って、ぐっすり寝られそうな感じかと言われれば、結構密着しないと、お尻とか足とか、何処か出そうです……。


ことが終われば、なんらかの切っ掛けをもって、自分の衾に、冬場であれば「うっわ!さぶ!」とか言いながら、戻るんですかね?

微妙にこう浪漫がないですね。

どっちがどっちへ戻るんすかね?

事を致してた方はぬくぬくでしょうが……

小姓のお尻の掻き出し話といい、なんかもう、余韻も夢もありませんが、現実的な生活なんでもう、そんなもんですかね。



しかし、人というのは、やはり何か掛けたいものなんですかねぇ?

普通にモフモフの衾を着て転がって寝たほうが暖かいのでは……と思うのですが。

まぁ、昔の皆様は夜な夜な、独り寝は嘆かないといけない生活でしたから、衾を着物の様に着込んでいられなかったのかもしれませんね。

致すのが難しいですよね。着たままじゃ……ふう。




そして敷き、掛けときましたら、枕という話になります。

サイトによっては「戦国期の武士は丸太を枕にしていました」と、恰もいつも戦場に居たかのような、誰が修行僧やねんと問いたくなることが書いております。

いや、枕あったから。

古来から、枕という存在は確認ができています。


先ずは草木で編んだ茣蓙を枕型に丸めたり、枕型に編んだりするのが「草枕」

また茣蓙を、何の草木で編むかというのが、センスの見せ所でした。

井草やがまの茎、葦、蓮子はす、または藁。真菰枕というのも確認できています。

中でも井草を編んだ枕や、あるいは細く裂いて編んだ竹の枕は現在でも夏場に使用されている方もおられるのではないでしょうか。

また、きめ細かく編んだそれの中、薬草や蒲の穂綿、ススキの穂を入れたりしていたようです。

そんな編んだりするのが面倒くさい方には、刈った草の茎の両端を括って、中に蕎麦殻や穂綿などを詰めたのが草枕の中で「くくり枕」と呼ばれるものです。

流石に戦国大名が普段、茎で作ったくくり枕をご使用されてはいなかったと思いますが。


勿論、布製の枕もあり、中にはやはり面倒くさかったのか、布の再利用を考えたのか、くくり枕にしたものもありました。

中身は、上記と同じ薬草などだったり、そば殻だったり、穂綿だったり。


蒲の穂綿は、厠の壁を擦って、乾かした物は火口ほくちという、火を点ける着火剤として使われたりしていました。

またその花粉はそのまま傷口にすりこめば、止血剤になるなど、とても優秀な植物でした。

水辺の湿地帯には生やしておきたい、植物ですね。



それから丸太ではありませんが、「木枕」というものもありました。

箱状の枕の上には薄い布の頭あてを置いて使っていたようです。その木の木目を楽しんだり、あるいは漆を塗ったりしています。

また、木枕の上に上記の草で編んだ枕や、布の中に穂綿や蕎麦殻を入れた(括り?)枕を置き、その上から布を置いて使用されたようです。

石枕というのもありますが、これはあまり使ったという絵や文献は見たことがありません。

でも、夏場などひんやりしていいかも知れませんね。



 さて、話は季節に戻り、夏場の話に戻ります。

戦国期、当時既に蚊帳は存在しており、蚊遣かやりという乾かしたヨモギを火鉢で燃やしたり、また先程の蒲が茶色い穂をつけた頃、茎を長く切って乾かした物を燻らせた後、蚊帳を吊るしたようです。


よもぎの蚊遣火は、普通の火に比べて、明かりか暗かったので、戦場で奇襲の時に身支度を整える際、焚かれていたとも言います。


よもぎ、というのも非常に有用な草です。


冬場にはこの乾かしたよもぎを、戦褌の腹部分の二重になった部分に入れて、寒さよけにしたと言います。

多分、武家屋敷の庭にはよもぎを生やしており、よもぎの季節には皆で頑張って採取して、乾かしていたのでしょうね。しかし、夏も使い、冬も使い、その他には薬草としても使いで、1年分となると、相当量が必要な気がします。


さて、よもぎの話は置いといて、 残されている室町時代の絵を見ると、蚊帳の中に主人と女性が眠り、小姓のような童が主人のすぐ側の蚊帳の外で、もう一人は入り口あたりに転がるようにして寝ています。暑かったんすかね?

主人の手の近くには団扇が転がっています。

平和な暑い夏の夜という感じです。


その団扇ですが、元々は薄い木で作られた顔を隠したり、邪を祓ったり、或いは公家貴族の熱い飲み物や食べ物をさます道具だったようです。

それが、室町時代には、細く裂いて編んだ竹と和紙を使って作られるようになり、送風力が驚くほど上がり、虫を追ったりしたそうで……あおがなかったといいます。書いてあります。ええ。確かに。


戦国時代では、他には鉄や檜などを漆塗りにした、軍配団扇が発達していますね。

またそれが、旗印になったり、そっち系が目立ちます。


しかし、戦国期になりますと。

「信長公記」の「おどり御張行のこと」の段にですね。あ、このおどりというのは、かの有名な商業都市、津島で行ったコスプレ盆踊り大会の話です。

信長公が天女のコスプレして、女踊りを披露したという、お茶目なイベントですね。


そのお礼に津島の方々が、わざわざ清須城まで来て、踊りを披露しにやってきた。

その時に、とても喜ばれた信長公が、踊って汗まみれになった津島衆を

御団おんうちわにて冥加みょうがなくあをがせられ」(団扇で、勿体なくも扇がせられ……)と書かれています。


てことで、扇いでおられただろうなと思います。団扇は暑さ退治に使われていたはず。それが人というものだと思います。



更に寝所では、油皿を和紙で囲った灯台が、赤々とあたりを照らしています。


あ、冬場の話に戻りますが、火鉢も奈良時代から存在しており、戦国期には現代の陶磁器と同じような少し丸みを帯びた火鉢が主流でした。

他には脚のついた箱型の陶磁器の手炙りも出土しており、大大名の家なら、一晩燃やしていたかもしれませんね。


秀吉が薪炭奉行に取り立てられた時、あまりにその掛かりが激しいので、薪炭部門の役人たちに何故かと問うと

「お小性衆たちが手炙りに、沢山持っていかれる」

と返事が返ってきて、秀吉は

「しかしながら、それを節約しろとは言えば士気が落ちますな。

むしろ、必要ならばドンドンお使いくだされ」

と言って、中間マージンを取られない、産直システムを作ったとか、植樹に力を入れたという段があります。

この薪炭は、当時の木の消費に拍車をかけているところでもあり、大名家では問題になる部分でありました。


ということで、信長公のように金持ちの一族ならまだしも、貧乏大名の家では、庶民や他の家臣共々、暗くなれば節約をしつつ、衾に潜り込んで、小姓やご内室の皆さんに抱きついて暖を取っていたことでしょう。



さて……

暮れ六つと呼ばれる鐘が鳴る、日入にっちゅうさるの刻の正刻しょうこく(凡そ夕方六時頃)になると閉門で、城の門が一斉に閉まります。

そこから、侍女や本日宿直の家臣たちが見回りを始め、火の始末などを確かめます。

宵五つの鐘が響く、いぬの刻の正刻(夜八時頃)黄昏こうこんになりますと、寝ずの番の兵たちを残し、皆様眠りにつくことと相成ります。


かくして、戦国期の夜は、静かに更けていきました。

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