戦国時代の風呂事情


 戦国期の風呂は、蒸し風呂だというのは、有名な話です。


当時の入浴施設は、上級の公家の屋敷や、大名、有力な家臣達の屋敷、本城に設置され、接待などに使われていたと言います。


さて、そうなると疑問です。


庶民、貧乏な公家、有力ではない家臣の皆さんは、どうしていたのでしょうか。

また、入浴施設を持っていた方々は、普段どれくらいの頻度で、お風呂に入っていたのでしょうか。

そして、どんな形でその蒸し風呂に入っていたのでしょうか。


更に、現代のようなお湯にジャブンと入る風呂は、なかったのでしょうか。


この辺りを見ていきたいと思います。


おおよそ、文化というものの多くは、宗教を起点としたものが多いので、寺院の方を見ていきましょう。


どうやら、大きめなお寺には必ず「浴堂」というものが、あるようです。


 我が国最古の施設!と書いてある、東大寺の大湯屋は、YouTubeでも見る事が出来ます。

その僧侶の説明によると、湯屋は、蒸し風呂形式、かけ湯式で使用し、部屋の中央には、湯船と呼ばれる大きな鉄製の……水抜きの木の栓のついた大きなたらいみたいな物が置かれています。

元々は、掘った穴に据え置いていたそうですが、今は井桁に組んだ太い木の上に置かれています。

後ろ側の部屋で焚いたお湯を運んで、入れたのではないかと言われていますが、湯船はなかなか大きそうですので、ほかの施設のように、後ろの焚き場からお湯をといで流し込んでいたのかもしれません。


湯船の部屋は土間で、簀の子、更にはその上に麻布を敷いて使っていたという話もあります。

そして、その湯船の湯を体にかけることもあると、僧侶が身振り手振りで説明されています。



と、いうことは、そんなにお湯は熱くはなかったのでしょうか。

最初に入った人は熱々ですが、後の方に入った人は、あまり、蒸気もなさそうで、冬場は寒そうですね。



この辺りを調べるのに、国立歴史博物館出版の『中世寺院の姿と暮らし 密教、禅僧、湯屋』という本を見てみます。すると「上醍醐西湯屋指図」という間取り図、復元模型が載っています。これは15世紀後半の寺院の風呂の様子を描いたものだそうです。


浴堂の中は、五つに分かれています。

まず「前室」「湯船の部屋」「焚き場」が並んでいます。

それから、湯船の部屋の左右に、「小風呂の部屋」と「水風呂の部屋」があります。

湯船のある部屋は、「温室」ともよぶそうです。そういえば、大湯屋も元は「温室堂」と呼ばれていたそうです。


着替えをしたと言われている前室は、温室を囲む形でL字型をしています。

Lの短い方の辺は、玄関というのか、出入り口になっています。

長い方の辺からは、観音開きの戸、玄関のある方からは、引き戸で温室へ入れます。


四方を部屋に囲まれた、中央の温室は、正方形です。


温室の壁は端板はたいたで、焚き場側の壁近くに大きな鉄製の「湯船」が置いてあり、焚き場に設置された大竃から、といで直接お湯が流し込まれるようになっています。


玄関と同じ方向には、「小風呂」と書かれたスペースがあり、そこへ引き戸で入れます。

小風呂から、直接、前室にはいけません。

小風呂には、また焚き場の竃(大竃より小さい)に隣接して、円形の湯船が置いてあります。

小風呂と反対側には、観音開きの扉の向こうに、水風呂の部屋があり、外側に長方形の水船が置かれています。


温度は分かりませんでしたが、これは熱くても、熱くなくても安心です。

おそらく、これは湯船のある温室で、垢を浮かせた後、小風呂で流し、温室にまた入り、水の風呂で水をかけて、体を冷ましたりしつつ、じっくりと過ごしたのでしょう。


大湯屋も西湯屋も、沢山の人が入れそうです。


さて、そう大きくない風呂も残っています。


北広島の国史跡万徳院歴史公園では、中世の蒸し風呂体験ができます。こちらは、16世紀末に、毛利元就の孫、毛利元長が建立した寺院の浴堂です。

湯殿の中に、風呂屋形が作られ、焚き場からの蒸気のみを取り込む形で、名古屋城にも残っている形式になっています。

屋形は小さく、本当に少人数しか入れません。

こちらは、蒸気浴なので、湯が煮えたぎっていても大丈夫です。


東大寺のお湯加減は不安ですが、とりあえず、部屋の中に湯船が据え置かれて、直接、蒸気を充満させる形式と、隣で煮えたたせて、蒸気だけ取り入れる形があることが分かりました。


蒸気だけ取り入れるものは、少人数用、据え置き直接方式は、大人数用なのかもしれません。


 では上醍醐西湯屋や東大寺の浴堂は、誰が使っていたのでしょうか。


仏教には、お湯を立てるのに必要な、浄水、燃火、淳灰じゅんかい澡豆そうず蘇膏そこう、楊枝、内衣うちごろもの七物を整えると、七病を廃し、七福を得るというお経が存在しています。


⑴浄水とは、清水。

⑵燃火は薪。

⑶淳灰は樹木の灰汁、シャンプーですね。いつも読んでくださる方は、麒麟屋が実際に洗ったのを覚えてくださっているでしょうか。

⑷澡豆は、豆製の洗顔石鹸。

⑸蘇膏は湯上りの肌につけるクリームです。牛や羊の脂や樹木の脂から作りました。

⑹楊枝は歯ブラシ。枝を解したものです。

⑺内衣は、湯帷子ゆかたびら浴衣よくいと呼ばれるお風呂で着ている着物と、お風呂から出た後、着せ掛けて、タンタンと軽く叩いて水分をとるタオルがわりのものがありました。


そのお経に従い、衆生を救う為に、浴堂では、「施浴」が盛んに行われました。

施浴とは、多くの人々に入浴を施すことですね。

光明皇后が、745年に法華寺を開き、「から風呂」を置いて、施浴をし、御自ら癩病者の膿を口で吸い取ったら、その人が黄金に輝き始め、仏の姿を現したという話は有名です。


そうなると、この湯を沸かした頻度が気になってきます。

奈良は興福寺の室町時代の大乗院別当、経覚の日記『教覚私要鈔』に拠ると、夏以外では月に四〜八回ほど立てて、夏場は毎日だったそうです。

信仰が行き届いていた当時では、有力公家、大名家、武将の屋敷でも、これに準じた形になっていたはずです。

さすが、お風呂好きの日本人です。


 また、城郭内には、必ず大名家、有力国衆の布施を受けたり、収入源である領地を安堵されている寺がありますから、こうした施浴というものが、頻繁に行われていたことでしょう。


京や奈良では、町風呂として、大きな湯殿、浴堂があり、山科卿や三条卿もそれを利用していた様子が残っています。

こうした町風呂だけではなく、山科卿、また在京の武将たちは、薪を持ち、自宅に入浴施設のある邸宅にお邪魔していたようです。


これで、庶民の皆様も、貧乏公家の皆様も、無事にお風呂に入れていることがわかりました。

しかし、近くに大きなお寺のなさそうな、城郭の外に住む庶民の皆様はどうしていたのでしょうか。


 当時は、「講」という、仏事、神事を行う集まりが村々であり、その中に「風呂講」という集まりがありました。

近くの観音堂や薬師堂に、薪を持ち寄り、その後、茶や酒を飲んだり、漬物や惣菜を共に食べて親睦を図ったそうです。



ところで、先ほどから「浴」と「風呂」と出てきていますが、この「浴」と「風呂」の違いはなんでしょうか。


実は、現在の風呂というのは、当時の「浴」にあたり、当時の「風呂」というのは、宴席や茶会を伴う「浴」のことを言いました。


つまり、よく聞く「風呂振舞い」というのは、ただ単に「浴」をするだけではなく、そのあとにそうした、娯楽、親睦を目的とした会が必ず執り行われるということです。


元々は、その茶会、宴会は、「前室」で行われていました。

それが、大名クラスでは、会所に移してするようになっていましたが、戦国期には、庶民はまだ前室でしていたと考えられています。


 また、『教覚私要鈔』には、風邪気味だからと、僧侶が湯を沸かして、入浴の準備をしている姿が、記録されています。

入浴とは、宗教的な、あるいは親睦、娯楽的なものだけではなく、治療を目的とした役目があったようですね。

確かに「信玄の隠し風呂」を始め、数多くの武将たちが、温泉に湯治に出かけているのは、当時の記録にも遺されています。


有馬温泉には、秀吉の作ったという岩風呂、蒸し風呂の遺構が発見され、蒸し風呂の予想図などが展示されています。


岩風呂とは、今日私たちが入る、それと変わりのない、岩で囲まれた天然温泉です。

しかし大きさ的に恐らく、湯をかけ、体を洗う「小風呂」の役目をしていたのではないかと思われます。

サウナ式のものは、天然温泉をひきこんだもので、小屋で温泉の湯の蒸気を浴びる形だったようです。


こうした蒸し風呂、お湯を焚き場で沸かすものを「湯風呂」ともいいます。


その他、同じ蒸し風呂形式ですが、「石風呂」と呼ばれるものもあります。

これは地面を掘り下げて据えた大きな石の炉で、火を燃やして石を焼き、水をかけて蒸気を発生させるものでした。

石の炉の上に小屋を作り、竹などの簀の子の上から水をかけます。

床に松葉を敷き詰めたり、薬草、藻塩などを温めたともあります。


また、炉を露出させたり、ただ大きな石を組み合わせ、その内部で火を燃やして、周囲に座り、焼けた石に水をかけて蒸気を浴びるという、西洋にもある蒸気風呂もありました。



「石風呂」は、中伊勢地方の雲林院氏の家臣、野呂氏の館城の遺跡から、発掘されています。

これは非常に素晴らしい遺構で、炉、井戸、石組み遺構がセットで残っており、武将の館城でどのような形で、浴室が作られていたかが分かります。


また、『東国紀行』に著者の宗牧が、那古野城に下向してきた時に、平手政秀に「湯風呂、石風呂よなど」念入りにもてなされたと書かれています。

那古野城には、蒸し風呂が二種類あったということが分かります。

大名家では、一つだけではなく、複数浴室を作り、家臣や客人をもてなしていたことから、社交の重要性、そして文化水準、経済力の誇示の重要性が偲ばれます。


 しかし、どうも、やはり、ジャブンと浸かる湯の風呂は、なさそうです。


明治天皇の一日をまとめた本に、浸かるお風呂がない理由が書かれています。

それは、下半身は穢れており、上半身は清いという考え方が徹底されていて、上半身と下半身が同じ湯に浸かる、というのは、ありえないことだったそうです。

これは、神道の考え方で、庶民は江戸中期くらいには、ジャブンとお湯に浸かっていたのですが、天皇家ではそうはいかなかったのでしょうね。


しかし、仏教には、精舎に沐浴場があり、浸かってたのでは、と思うのですが、どうなのでしょうか?

有名な竹林精舎の近くには温泉地もありますしね。

しかし、仏教はインドでは壊滅的な被害に遭い、現代ではヒンドゥー教が席巻していて、よくわかりません。(ヒンドゥー教では肩まで浸かります)

中国の方では、例えば楊貴妃の沐浴場が残っています。

どうも、日本には神道の考え方が深く根付き、なかなか受け入れられなかったのかもしれません。


 箱根の方にも「太閤の湯」、また山形の方には伊達の隠し湯があります。

ここ見ると「滝風呂」という温泉の湯が絶え間なく、上から落ちてくる形になっています。

これなら、温泉の湯を直接浴びつつ、お清と穢れ問題を解決できます。


縁起をかつぐ戦国武将たちは、真面目にお湯に浸かっていなかったのかもしれませんね



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