母と子の絆(土田御前と信長公)

以前、信長公が実母土田御前と不仲だったとは思えないと書きました。


まず、あまり女性に興味がなかったような太田牛一は、この辺りの話は書いていません。

ほぼ後世の噂話や書き手の常識などからの構築となっています。

特に信長公推しとしては、のちの信長公の残忍さは幼少期の母親からの愛情不足によるものだという説は噴飯ものです。


 信長公は、乳母によって育てられますが、これは土田御前が授乳拒否をしたのではなくて、信長公に限らず、貴人の子供は乳母によって育てられました。

当時の風習として当たり前のことですね。


生まれる前から正一人、副二から三人の乳母が、政治的なバランスを考えて選ばれます。(人数は増えることもあります)

基本的に正は当家から、副の一人目は嫁いで来た方の実家からおおよそ母親が信頼している女性が選ばれたといいます。もう一人は、家の方針ですね。

この三人の中に授乳する乳母が含まれている場合もありますが、含まれていない場合もあります。


 実際に乳を与える乳母が決まるのは生まれてからで、決まるまでは「乳付ちつけ」と呼ばれる、子供と反対の性の子供を産んだ一族の近い女性が乳を与えていました。

信長公であれば、信秀の姉妹、従姉妹、或いは叔母で女児のお母さんというあたりになるでしょうか。この女性は、生涯に渡って、乳を与えた子供の後見的な立場になるようです。

これは乳母よりも先に、乳を飲ませることで、一族の一員であることを胎内に刻む。また性が違う子の親の乳を飲ませることで性が交差して丈夫に育つという考え方だったそうです。

……実際は咥えさせるだけで、当時の儀式上乳以外のものが色々与えており、足りない分は、乳付けの人の子供の乳母がやっていたものと推測します。


傅役が決まるのは、基本的にもう少し後になります。


この頃、信長公は土田御前とともに勝幡城で育っています。みんなが待ちに待った嫡男は乳母たちに囲まれて、お父さん、お母さんに見守られながら、勝幡城の主郭の奥御殿で暮らしていたと思われます。


ここで出てくるのが「乳を噛み破る気性の激しい吉法師を疎んだ」説です。

これはまた後日詳しく追求したいと思いますが、元になっているのは乳兄弟である恒興の子孫の家臣が書いた『池田家履歴略記』の「今年三才小児知発の時なれは乳母の生質を撰はる」という一文です。訳してみましょう。

「今年(天文五年)数えで三歳、知恵の発達、自我が出てくる時期になったので、次代様である信長公のこれからの成長に相応しい、性格、才能を持った乳母の選定に入った。」

この後選考方法として「乳の噛み破り」の話を出して、養徳院の乳は噛みつかなかったので採用になったと、乳母の性質の話がたち消えそうな話が書いてあります。


当時は、赤ちゃんは基本的に無個性な存在であり、授乳者の気質や行状が乳を通じて影響するとされていました。

ですから、ここから示唆されるのは当初の乳母たちの気性や行いが宜しからぬと、城主夫妻から見られていたということです。

つまりもし土田御前が疎んだとすれば、当時の常識からすると吉法師ではなく、乳を与えていた乳母だったということになります。

この頃の卒乳は数えで5歳になる正月までですので、今でいうと4歳までになります。離乳食は食べさせていますが、離乳食の内容、進め方が相当変わっていますので、もの足りなかったり、嫌になって乳母の乳首を噛み噛みする子は、信長公だけではなかったと思われますし、「痛っ!」という乳母の反応が面白かった可能性もあります。


またこの頃土田御前は、信勝を妊娠中だった可能性もあります。

妊娠中は妊婦の心身の患いが、胎毒となって胎児に影響を及ばすと考えられていたので信秀が注意を払って交代させたのかもしれませんね。


そして、38年頃那古野城へ移ります。

この移動の前後に信勝が生まれたと思われます。那古野城には7、8年みんなで仲良く暮らしています。

この間に秀孝、信包が生まれます。

それから土田御前は夫である信秀と共に古渡、末森と移っていきます。


何故信長公は別居だったのか。

当時の武家の本拠地を移すことは余りありませんでしたから、ここがまた「信長公嫌われ問題」のポイントにされています。

土田御前があの子いやだわぁーと言ったのでしょうか?


これは、織田弾正忠家の政策なんじゃないですかね。

信秀も天文年間(1532〜)の初めあたりに父親の信貞から勝幡城を譲られ、信貞は木曽川近くの木ノ下城へ移っています。その信貞に正室や信秀の弟である織田与次郎信康たちも一緒に引っ越し、信康は1537年に木ノ下城を大改修し「犬山城」としたと書かれています。


織田弾正忠家は、濃尾平野に勢力を分散して、領地を押さえるという考え方なのでしょう。(信長公の兄弟をご参照ください)

ただ信貞が木ノ下城へ移住した頃、信秀は二十歳を越えたころだったのに比べ、信秀が古渡城を築城した時信長公はまだ十歳でした。

この十年の差は、信秀が正室を返すなどして嫡男(信長公たち)が生まれたのが遅かったのと、恐らく戦況による戦略的なものだと推測されます。

因みに古渡城と那古野城は、城壁は通りを挟んで並んでいたのではないかと思われるほど近くに建っています。


本当に土田御前先導で、一緒に住めないわ!ということなら、もう少し離れた所に居を移すでしょうし、正直言って大名家でもない一士郷の出の土田御前と、跡目が確実になった嫡男信長公とでは、弾正忠家における重みが全く違い、土田御前が別居と言い出した場合、いかにお袋様といえども出されるのは土田御前の方だったということを念頭に置きたいものです。


以上で一部に言われているような、土田御前が信長公を嫌って出て行ったという奇妙奇天烈なお話はかなりガセネタだとわかります。


 次にうつけだったので嫌だった説に入ります。

公記の記述の矛盾を突かず、そのまま扱うならば、数えで19歳辺りに信長公はかの有名なうつけ生活に入っていました。

よく幼少期から破天荒な姿の信長公が描かれていますが、『信長公記』を信ずるなら、「十六、七、八までは別のお遊び御座なし」と非常に真面目だったように書いていますので、うつけに入るのはお父さんが亡くなった後になります。


しかしこんなセンセーショナルな跡取りの噂は、あちこちで話題になりそうなものですが、どうもあまりのことに信じてもらえなかったのか記録に残ってません。

織田家と武田家の結婚話が持ち上がった項で、甲陽軍鑑にも「あんな珍妙な格好をしていた男の血が我が方に入っては!」と反対する家臣もいません。むしろ「御屋形様亡き後、信長公みたいなのが理想」という意味の記述が見えます。

うつけに直に見たはずの斎藤道三の反応は、記録も残ってないです。


信長公後見である織田玄蕃宛の道三文書が、例として出されることがありますが、これは文中の「三郎殿様御若年之儀候」の部分を訳す人の捉え方になっています。

普通に読めば「家が治まっていないこと、信長公がまだ若いので、苦労はあるだろうけども頑張れ」的な励ましが書かれているだけのような気がします。

これはその手紙を頂く前、道三と信長公が顔を合わせた正徳寺の会見以降信長公のうつけ話は記述が消えますので、今更うつけを蒸し返されても。


ということで、信秀が亡くなり、林たちが敵対するまでは信長公はうつけではありませんし、当時の風習を考えると土田御前が信長公を疎んだという説は成り立ちにくいです。



さて信秀が1551年に亡くなると、信長公と信勝の間に隙間風が吹き始めます。

この時信長公17歳(数え18)、信勝16〜11歳(17〜12)、秀孝11歳、信包8歳です。

信勝初登場の場所が、葬儀か萬松寺で行われた銭施供養なのか、意見が分かれるところですが、『信長公記』の記述の流れとしては、銭施供養の話から改行もなく続いていますので、死後に行われた銭施供養になるのではないかと思います。この時既に信勝は幼名ではありませんし、服装からして元服後の13歳から16歳くらいでしょうね。


次に問題の抹香投げつけ事件ですが、これも非常に胡散臭い事件です。

この抹香投げがまた葬儀なのか、銭供養なのか、四十九日法要なのか、一周忌なのかは定かではありませんが、前の話が銭施供養である以上、葬儀というのはなさそうです。


それと銭供養と焼香の間は改行されており、別の日の出来事の可能性が高いと考えられます。「信長御焼香に御出で」から、しばらく読み進めると「仏前に御出で」と、わざわざ抹香投げに至るシーンが別にあります。

この短く切り詰めた文章の中で、わざわざ焼香にまかり出ることを繰り返すのも不可解だと思いませんか。そうなると、最初の「御焼香に御出で」は、別の法要に行かれた時という意味でとったほうが自然な気がします。


銭供養の話なのか、回忌法要なのかいずれにせよ、この時信長公は織田家の当主になっていますから、喪主であるか、施主であるはずであり、法要が執り行われた萬松寺(父親の菩提寺桃厳寺は、萬松寺東堂)の建っている場所の城主であるはずです。

なのに、あたかも客のように書かれている可能性に注目したいです。


当時の法要の形態は流動化しているので断言できませんが、回忌法要の場合は喪主は数日前には寺に参籠し、風呂振振舞を行ったり、歌会をしたりしていることが多いです。

またこれらは施主の奉行が立てられ、寺と家臣とで綿密な打ち合わせがなされますのでどうなんでしょうかね?


はっきり言いますと、信勝派が勝手に末盛城に桃厳寺を作って(現存しています)、法要を営んでいたのではないかと私は考察しています。


実はですね、現在、信長公が立ったまま焼香しというのが「うつけだ」と言われていますが、これね、当時の風習では、もし信勝派が勝手に法要を執り行っていたと考えるならありうる話なんですよ。

というのも座ると触穢になるので、立ったままというのは反対に客として来た、というより勝手にきたことが、当時であれば強調されている一文になっているのではないかと考えています。

触穢になるとあとで精進潔斎の日々を送らないといけないので、大変厄介なんですね。施主であれば最早座らずにはいけませんし、正式にお呼ばれした客ならこれも如何ともしがたい訳です。


ということで『信長公記』に描かれているように、信長公が客のように焼香をしにやってくるというのは、うつけだからというより、まるで信勝が跡目を相続したかの印象を世間に与えるいう意味で異常事態なんじゃないかと思います。


信長公は現在面白おかしく伝わっているよりも、当時の人と同じくかなり迷信深いですし、そうなると本当に萬松寺の東堂で、施主である信長公と良識人の平手政秀を筆頭に家臣団や僧侶たちがこんなことする?という話になります。

抹香投げについても、信勝が勝手に自城で行った可能性があり、その否定に信長公が抹香を投げに行ったかもねということを心の片隅に置いてください。


うつけに関することは、余りにも印象的なせいで「うつけ」ありきで考察をされることが多いのですが、うつけが原因ではなく、当時の風習や考え方を考慮して、なぜうつけ姿をしていたのか一度考えてみる必要があるのではないかと思います。そうすると人々の感情の流れが浮き出てくるように感じます。

そしてそうした時に土田御前は本当に、うつけなので信長公を疎んだのかという疑問が湧いてきます。


 では信長公のことは嫌いじゃなかったけども、それよりも尚、信勝を溺愛していた結果、信長公を疎む結果になったのでしょうか。


信勝に関しては、本人の人物像を示す逸話があまり残っていません。


『信長公記』に遺されている逸話が本当かどうかはわかりませんが、武将としての信勝の性質を示すものが二つ残っています。

一つ目が弟、秀孝が御曹司にあるまじき軽率な振る舞いで、叔父の家臣から謝って射殺された時に、怒りに任せて攻め上り、その居城守山の城下を焼き払います。城下に住んでいた町衆や家臣たちはどう思ったでしょうか。

戦国期の大名は、公平で理性的でなければ国衆や町衆からそっぽを向かれます。


もう一つは、稲生の戦い(1556、9)で本人が出陣していない点です。他ならぬ自分と兄との跡目争いの戦であるにも関わらず、柴田勝家と林秀貞が大将として立っています。

実は上記の守山戦の時も弟の秀孝が亡くなった場所までは行っているのですが、そこから先は柴田勝家と自らの若衆である津々木蔵人に、大将を任せておられます。

これは常に戦に出続けている信長公に対するアンチテーゼなのかもしれませんが、もしこれが本当であれば一家の主人としてはいただけません。


この当時信勝は岩倉織田氏、斎藤義龍と交流していますが、稲生の戦いの前年の道三、義龍戦からの道三への援軍に出た信長軍との争いの長良川の戦いの折に、留守の清須城の畑を岩倉軍が燃やしたというのみで、いっその事挟み撃ちにしとけば勝機はあっただろうにという感じでちょっと見劣りがします。


戦国期という乱世に弾正忠家の跡目を信勝が継いだら、恐ろしいことになりそうです。


できの悪い子ほど可愛いというやつでしょうか。


この戦国期の女性は腹の据わったドッシリとした、強い女性が好まれます。

特に、跡継ぎを生むことを期待される女性には、先ほど挙げた「胎毒」が回ってはいけませんから、情緒の安定した理性的な女性を求めたいところでしょう。

押し付けられた正室なら仕方がありませんが、土田御前は側室からのステップアップです。

人を見る目のある信秀が、側室の中から土田御前を継室に選んだのは、そういう安定感があったからだと思います。


そう考えると知的でどっしりとした女性が、家が荒れると分かっている「溺愛して」という行動を取るでしょうか。しかも相手は当主としては、勇猛果敢とは言えない信勝です。

心優しい当主といえば、家康の父の広忠です。彼は非常な善人でしたが、結局松平家を大名家から国衆へ家格を下げてしまいます。その様子は皆リアルタイムで見聞きしていたはずです。


稲生の戦いで信勝が敗北を期した後、土田御前は間に入って頭を下げます。その後、信勝が再度謀反を企てた時に信長公の謀略に加担し、信勝を清須に誘います。

そして信勝が誅されるとすぐさま子供達を清須に呼び寄せて、安土城に至り信長公が本能寺に斃れるまで共住みをしています。


この辺りに強かな戦国の女性の姿が見えますし、前後不覚に溺愛するような女性には思えません。


むしろ、信秀、土田御前夫妻が信勝に一抹の不安感を持っていたとしたらどうでしょう。

信秀の死後に信長が信勝の家臣団を整えているのを見ると、亡くなるまで信勝の独り立ちを許していません。末盛城は最初から信勝の城として築城し、そこで家臣団を整えてやっていても良かった筈です。

お家騒動に発展しかねない、信勝の精神的な弱さを危惧をしていたのではないでしょうか。


信秀の兄弟は基本的に仲が良く、力を合わせて弾正忠家を盛り立てて行きました。しかし、信長と信勝はそうではなく、林、柴田という重臣が仲違いを起こさせるように持っていったと書かれています。

これが本当かどうかはまたわかりませんが、少なくとも信勝自らが立ってではなく、家臣たちに神輿に担がれるようなタイプだった可能性は高いのではないかと思います。


当時の風習として、正室の産んだ初めての男児から三人目の男児までは、「嫡男候補生」として、長男が元服するまでは基本的に平等に育てられます。

優先順位は正室の長男ですが、当時は乳児の死亡率が高いので、保険が必要でした。

つまり弟の信勝(1535〜42年生)は嫡男候補になりますが、土田御前の三番目に男児である信包(1543或いは48年生)は信長公と、少なくとも九才も歳が離れている為、嫡男候補としては考えにくかったと考えられます。

また、公記に信包よりも歳上と記されている秀孝(1540〜41生)はもしかしたら、側室の子供で嫡男候補になり得ない出自だったのかもしれませんね。


というわけで基本的に、信長公の対抗馬となりうるのは信勝のみだったということになります。しかも利用しやすい性格なわけです。

信勝の暴走には、兄に対するコンプレックスがあったのかもしれません。



土田御前の実家や本名などは一切わかっていません。

信長公の嫡男を産んだ生駒氏と土田氏は、縁戚関係であると言われています。(生駒家に残る文書には、土田御前の名はありません)

また、信秀の母は海東郡土田村の出身であり、嫡男の生まれない信秀に一族の女を側室に勧めたという説もあります。

同じように当主の信長公に嫡男が出来ないのを気にした土田御前が、側室を勧めたということもあり得る話です。この辺りはさっぱりですね。


ともあれ、実家が「小折城」と呼ばれるほど、立派な屋敷だった生駒氏と繋がるのは、信長公にとって悪くない話だったはずです。


信忠の出生が、1557年ごろとされていますので、稲生の戦いの頃には既に小折城に通っていたことになります。

もし土田御前が勧めていたのなら、あるいは土田御前が生駒氏と縁戚関係であれば、確実に信長公との仲が悪いとは思えないところですが。

今後土田御前に関して分かれば良いです。


一般に流布している信長公と信勝の話は、家康の孫である家光と忠長の話の焼き直しのようにそっくりです。


少し注意をしておきたい箇所だと思います。


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