燃える寺社のレトリック(比叡山焼討)

 現在、信長公の比叡山焼討ちに関して、「極悪非道」「神を信じぬ信長公」という流れがあると思います。


そりゃあ信仰心厚い当時のことですから、神社仏閣を焼討ちするなんて、とんでもない……

当時の人々もさぞやお怒りでしょうよ、と思う処です。

家臣の皆様も、うぇぇってなったかもしれませんし、光秀が本能寺の変を起こした理由はこれだ、なんて言われる事があります。


しかし、歴史を紐解くと、結構、神社仏閣は焼かれています。


この「焼討ち」自体が、立派な戦術だったということは、「信長公記」を読んでもよく分かります。


信秀が那古野城を攻略した際に、その城下町を焼き、若宮社や天王坊が焼けて再建した話や、信長公が清須を攻めた時に、城下町に火をつけて「裸城になった」とか、周辺の田畑、町屋のみならず、寺社が焼け落ちている事が窺われます。


このような、寺社を含む敵領焼討ちは、平将門の乱(930〜940頃)を描いた「将門記」(11世紀頃成立)にも確認出来、古今東西、枚挙のいとまがない事例であることは事実です。


いやいや、それは城郭内のことで、運の悪い類焼で、そりゃあ、仕方がないんじゃないかと思いきや。


元弘元年(1331)、笠置寺に入られた後醍醐天皇を攻め、陶山義高達が境内の所々に火をつけて、「わつかに残りけるは 千手堂六角堂大湯屋はかり也」という次第が記録されています。


この後醍醐帝の誕生から細川頼之の管領就任までの約50年を描いた「太平記」を読むと、やはり城郭外に建っている寺社を何度となく攻めています。


特に暦応元年(1338)に行われた、岩清水八幡宮焼討ちは、僧坊などからの類焼ではなく、まさに神宝を祀ってある社殿に火を懸けて、無惨に燃やされています。

岩清水八幡宮は、禁裏から庶民まで広く、篤い信仰を集めていた神域でしたが、決して例外ではなかったようです。


それは、その寺社を敵が占拠してるという事情で仕方なくなのか、というとそうではなく、佐々木導誉は鷹狩の帰り道に、家臣が妙法院の木の枝を折り、それを見とがめた山法師に腹を立て、焼討ちをしました。


 では、寺社を焼討ちにするのは、アドレナリンを放出しやすい武士だからか、というと、これもそうではなく、百姓と下司の確執で、百姓が籠る寺社を焼き、更には燃え残った「湯屋の釜を打ち割、持ちとる」とか。

寺社へ納める税の遅延を咎められ、焼討ちをかけ、ご神宝を奪い去って売り飛ばしたとか。

官吏の皆様も、庶民の皆様も、追い込まれた末の所業ではあるかもですが、焼討ちの後に、乱取りも行われ、何となく神域を攻めたという、申し訳なさが伝わってきません。


 その乱妨狼藉は、下級官吏や庶民だけではありませんでした。

武家たちも、燃やすだけでは飽き足らず、狛犬を打ち壊し、神宝を盗み出し、阿吽の像を叩き壊して薪にし、経文を売り払うという記録が残っていますから、結構、寺社を焼き、攻め込む。そして、攻め込むどころか、その後、チャッカリと有難いはずのご神宝や経文、仏像を乱取りをして、売り払っている事が分かります。


 では、この神を神とも思わぬ狼藉は、乱世の武家や庶民の荒廃した、哀れな姿なのかというと、これまたそうでもなく。


これらに先立つ保元元年(1156)7月11日の未明、禁裏におかれましては帝が、崇徳上皇の籠る白河北殿の西隣、藤原家成邸に「火を放て!」と命じ、見事に白河北殿は類焼。更に帝は、残党を討伐するために、源為義が宿所にしていた、円覚寺を焼き払いました。


このように、歴史を振り返れば、上は帝から、下は庶民まで、遠慮なく寺社に火を放ち、現在の私達が当時の常識として仮定している、無条件な聖域への畏れというものは感じられません。


 では、神に対する尊崇の念、というものが無かったのかというと、非常に信心深く、言動の基、考えのベース、判断基準には、信仰というバックボーンがビシッと立っていたことは分かっています。


 寺社を焼くことは禁忌であったが、信長公の新時代的な「合理性」が、それを成す事が出来た的に語られることもあります。

しかし、見てきた通り、寺社を焼くことは、以前からあった事例で、「新時代の」「合理性」とはあまり関係のない話のようです。


あるいは、高師直や佐々木導誉の「婆娑羅ばさら」をあげることもありますが、それでは南都焼討の、清盛の息子の平重衡は「婆娑羅」だったのか、帝はどうなんだという論が必要となりますし、そもそも、しきりと焼き討っているので、日本人は、国民的に「婆娑羅」で、「新時代的、合理性」を常に持っていたという展開になっていきます。

じゃあ、そもそも禁忌じゃないじゃん?


まぁ、焼討ちする帝は天孫降臨ですし、その赤子である私たちも、神仏を越えて尊いって話かもしれません。

それでもいいんですけど、どこかウロボロス状態ですね。


 では、かくの如く、昔から私達日本人が行ってきた、寺社焼討ちの、神威を侵すそのラインというのは、何なんだということになります。


 ところで、帝が、源為義が宿所にしていた円覚寺を焼き払ったとか、笠置寺に入られた後醍醐天皇とか、サラッと読んでいますが、この源くんと後醍醐天皇。彼らはアジール(避難所)としての寺社に逃げ込んだのではなく、一つの城塞都市としての寺社に入ったという点を見逃してはいかぬのではないかと思うのです。


本来、私たちが想定している「不可侵である聖域」としての寺社が成立しているならば、僧兵はいませんし、帝や公家貴族がお越しになられた時に、文官だけを伴うはずです。

しかし、問題点として出しましたように、寄宿、兵の駐屯地として、寺社を利用しておられますし、寺社も粛々と受け入れておられるようです。


私たちが、「寺社は絶対的な聖域」とする考え方は、「世俗を超越している」が基礎になっています。

しかし、寺社というのは、裏方である金融、経営部門というのがあります。

庇護者や善男善女の皆様からの喜捨だけではなく、寄進され収得した荘園を経営し、金融業に係わり、更には僧兵、山法師という、警備部門の方々もいるという、外から見ると世俗的な側面が、「神道護持、仏法護持」の組織の発展に寄与していることは事実です。

つまり、私たちのイメージする「絶対聖域」というのは、よくよく分析してみれば、ガンジーの無抵抗主義とか、アッシジの聖フランチェスコ的なものであって、伊勢長島一向一揆とか、顕如の暗躍は違うんじゃないかということになりますし、そもそも軍事の駐屯地になるのはどうよ?ってことになります。


ここの清濁のせめぎ合いのラインですね。ここのラインは何処から来ているのか。


 当時の概念で「無縁」というのがある、という話を以前いたしました。

例えば、殺人が起こった場合、有縁の場起きた場合は、正式な手続きを取りますが、無縁の場だった場合、私闘とみなし詮議に及ばないとします。

寺社は、無縁の場に相応します。

これはどういう理論になってるか、というと、「神の支配する場で、俗世ではない」というものです。

ですから、本来、寺社は政治不可侵な場な訳です。


ところが、そもそもこの「無縁」の定義の基は、世俗における「神の場」という概念の発見です。

「無縁」論において、寺社が先にあって、「無縁」という概念ができたのではなく、街や村における「神による無縁の場」という概念ができ、後に寺社も「神仏の取次の場」なので、無縁の場所であるという定義が出来ました。


分かりにくいんですが、神仏に対する純粋な尊崇の念と、「無縁」という社会的概念と係わりが出来た時に、寺社は「無縁の場」規定されて、その後、様々な付与価値が創造された、というのが、寺社における神域の概念の成り立ちではないのかと考えるわけです。


そして、この付与価値を創造する過程で、「無縁」の場を利用者ファーストで規定した曖昧さが、世俗と聖なるものの融合という、カオスな「神域論」を形作ったのではないかと考えられます。

つまり、神仏は絶対であり、尊いんだけど、尊い神様たちとの交流の場は、次第に聖俗入り混じったカオスさを増していったといいたいわけです。


ということで、当時の意識としては、寺社というのは「荘園領主」的な立ち位置の、「パワーを与え、運命を司る聖なる神仏に、取り次ぐ業務としての神域」を経営する組織ではないかという話になります。


先の御所焼き打ちの際、「保元物語」によると、御所に近い法勝寺が類焼することを危ぶんだ源義朝の意見を、信西入道(藤原通憲)が『法勝寺程の伽藍をば 一日の内に建てさせ給うとも 豈難あにかたかるべきや』と退け、『速やかに火を懸けて 攻むべきなり』と言ったといいます。

ま、実際言ったのかどうかは、定かではありませんが、そういう考え方が一般に容認される状況だったことが判ります。


義朝の「ヤバくね?」という「神聖な神仏」に対する畏れはあるけども、「無縁の場」としての寺社は、焼いても再建すれば良いという考えがあるのですね。


 ここで見て頂きたいのが、寺社同士の対立による焼討ちです。


永保元年(1081)延暦寺と園城寺が対立し、園城寺が焼討ちに遭います。すると、その報復に園城寺の大衆たちが、延暦寺を襲います。その後、まさに火の手は末社にまで飛び火していきます。

更には、保延6年(1140)延暦寺は、再び園城寺を襲い、焼討ちにします。

その後、永万元年(1165)延暦寺は、興福寺末寺である清水寺諸堂を焼き払います。延暦寺ぃぇ……


「平家物語」によると、この永万元年の延暦寺による清水炎上の際、「罪業本より所有なし 妄想転倒により起る 心性源より清ければ 衆生即仏なり」と扇動して、信仰心篤い信者の皆様にこの和讃を唱えさせながら、火をつけさせたとあります。

根井浄氏の研究(「正像末和讃と平家物語」)によると、これは、平安末期から鎌倉時代まで、広く流布されていた和讃であるそうです。


 これは仏の三宝印「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」を絡め、

「無常の世界(現世)において、一切皆空、空即是色であるという真実を忘れた、この世的なる価値観の間違いから罪業が起こる。しかし、その罪業というのもまた、我なるものはなく、その心が清いものであれば、いかなる罪も許され、私たちは即、仏となるのだ」

という意味合いではないかなと思います。詳細を知りたい方は、仏教書を紐解いてみてください。すみませんね。

和讃は一種の宗教的な謡のようなもので、みんなでワンワンしていると、トランス状態になりそうですね。


つまり、心が清ければ、何をしてもいいんだという念仏で洗脳をして、火をつけさせた訳です。

しかし、後味が悪かったのでしょう。稙田誠氏の研究によると、「その罪を懺悔するため如法経を書いて供養を催した。供養の際にある僧が『これで円城寺を焼いた罪により地獄に留まることはないだろう(大意)」と語ると、皆安堵した」そうです。


如法経とは、一定の作法に基づいて、お経(基本的に法華経)を写経し、供養するものです。

ということで、それなりの供養をすれば、寺社を焼く罪は消えると高僧が、保証したことになります。


ちょっと、まとめてみます。

尊い神仏というものと、その取次所があり、その取次所は実相ではないので、焼かざるを得ない場合は焼いても仕方がない。

その心根が清ければ、罪ではない。

例え罪であろうとも、それなりの供養をすれば消える。

このように、比叡山延暦寺が保証したんですね。

つまり、寺社を焼くことの罪状の免罪符、レトリックを、寺社自ら作り出したということです。


ということは、信長公の行った「比叡山焼き討ち」そのものは、新時代的な合理精神とか、婆娑羅を以ってする、天下を揺るがす大事件ではなく、ありがちな戦闘事例で、しかも当の比叡山が、心根が清らかなれば罪もなし、更には然るべき供養すれば、地獄にも留まることはないと保証しているという、何とも言えない自分の首締めてます的なものであった、ということです。


そういう社会的通念が、当時あったということを横に置いて、一度、比叡山焼討ちを見て頂けるといいなと思います。































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