京の都の銭湯事情

 さて今回は史料に残っている室町、戦国時代の京の風呂事情をもう少しだけ詳しくみていきましょう。


まず前回までを軽く振り返ります。

入浴というのは元々蒸し風呂形式のものがあったようですが、仏教の「温室教」によって更に広がりました。また施政者が供養として施浴を行いました。

室町時代には公家、武家では「風呂」とは「浴」と「宴」のことを言い、「浴」+「宴」という形態から様々な「会」が生まれました。

例えば「法会」というのは、「浴」と「儀式(読経)」と「宴」のセットを指しました。喪主は遅くとも前日には寺に入って沐浴をし、供養のために歌を作ったりし、親しい人から差し入れを受けたりします。そして当日僧侶による経の読誦が終わると、場を移して宴がもたれます。この宴は当初ただ会食をするだけでしたが、次第に歌会(歌と宴)になったり、茶会(茶と宴)になったりしました。


また茶会の原型として、禅宗の「淋汗茶湯りんかんさゆ」(淋汗茶会、淋汗の茶とも)が有名です。この淋汗茶湯の定義というのは、非常に難しく、様々な解釈があります。

とりあえず「淋汗」というのは、『禅林象器箋』によると、元々は禅宗の寺で夏の間毎日風呂に入る、そのことを指したそうです。そこから入浴すること自体を、林間、淋汗というようになったのではないかとされています。そしてまた「茶湯」は元々は「闘茶」(利き茶、茶の産地などを当てるなどの遊戯)だったと言います。ここから「浴」と「茶」それから「宴」の茶会の原型ができたと言われています。


戦国時代には、「浴」のない茶会や歌会なども出てきたようですが、正式なものには勿論、浴がついていました。


また公家、武家だけではなく、庶民も施浴を利用するほか、「風呂講」として最寄りの寺院へ薪と食事を持って集まり、独自で「浴」と「宴」を楽しんでいました。


 さてこれらは主催者は別として、多少の持ち出しはあるものの、客、利用者は基本的には無料のものです。


 入湯料(湯銭)を払って入る「銭湯」は、当時「湯屋」と呼ばれており、平安末期に成立したと言われる『今昔物語』(巻26第17話 利仁将軍若時従京敦賀将行五位語 )に「東山辺に湯湧かして候処有り」というセリフで出てきています。更には鎌倉時代の僧侶日蓮の『日蓮御書録』には「湯銭」という言葉が出てくるそうです。

そこから時代が下ると共に、京の都のあちこちに湯屋ができている様子が『祇園社記』(祇園執行日記、杜家記録)などに記述が残っています。


 南北朝の動乱の時代の到来し、京の都にも戦が頻繁に起こり始めます。

この頃には銭湯が一条室町、三条室町、四条、五条堀川、正親町、祇園大路などに出来ており、確実に存在が確認出来るものは二十軒ほどと言われています。(最盛期には6000を数えたとも言いますが、ちょっとよく分かりません)


湯屋ではそれぞれお湯が沸くと、法螺貝を吹いて営業の開始を知らせ、それを聞いた老若男女がワラワラと集まっていく様子をイエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが『日本教会史』に書き残しています。


南北朝時代には合戦の合間に敵同士湯屋で顔を合わせることがあっても、そこで争いになったりすることなく、わりと和気藹々としていたそうです。オンオフがハッキリしていたのでしょうか。当時の武士道は大変興味深いことです。


しかし室町時代に入り時間が経過していくと、残念なことに盗難や喧嘩が起こった記録が記されるようになっています。

刃傷沙汰になることも少なくなく、こうした事態に東寺では「無骨ノ仔細多候」と自寺の関係者には銭湯に行かず、東寺の湯屋に入るように求めたと言います。


こうした湯屋の代金はおおむね一文程度だったそうです。一文というのは現代でいえばいくらくらいになるのか諸説ありますが、5〜50円くらいと言われています。この幅は何の値段を基準値にするかで上下してしまうので、10倍の振り幅が出ていますね。おおよそ生活に関するものは値段が低くなるので、50円よりは安いでしょうが、まぁ最高値は50円ほどという感じで今回は見ていきます。

さて一回50円前後の入湯料で、気楽に湯が楽しめる銭湯を重宝していたのは、庶民たちだけではありませんでした。

『山科言継卿日記』でも町屋の湯屋へ足を運んでいる様子が残されています。しかし流石に公家ともなると、喧嘩や盗難にはうんざりするのは仕方のないことです。


彼ら公家たちは「合沐ごうよく」と呼ばれる、一定の時間湯屋を貸し切るシステムを利用していたそうです。

「合沐」は元々「止湯」と呼ばれる貸し切りのシステムから発生しています。

「止湯」は鎌倉時代中期に書かれた『沙石集』(弘安6年(1283)成立、仏教説話集)に「湯屋ニ止メ湯シテ女房入レ参セン」が初出と言われています。

そこから公家たちが神事を執り行うに際し、町屋の湯屋を「止メ湯」にする慣習が生まれたらしく、貸切にして入っている記録が多々残っています。

公家たちがこうした公務のために、一人または複数人で貸し切りにして入浴する「止湯」に対して、私用で何人か集まって貸し切りにするのを「合沐」と言ったようです。

つまり「合沐」は、複数人が湯銭や薪を出し合って、一定時間他の人を入れないようにして、盗難や喧嘩などに遭うことを防いでいたわけですね。

貸切にする値段は、応永15年(1408)の止湯が五十疋とあります。

一応百疋が1貫と言われていますので、五十疋は大体50文程度になるでしょうか。

一応……というのは、実は疋と銭や文は併用されておらず、一疋が何銭、何文になるかは当時定まっていませんでした。

一疋は30文とする話(『徒然草』)もあり、そうなると五十疋は150文になってしまいます。

普通に入れば最高値で50円程度で、五十疋50文なら合沐は2500円。五十疋150文なら7500円。

何人で割るのかは定かではありませんが、貧乏な公家さんには毎回7500円はちょっと厳しいかもしれませんね。



 「風呂 洛中洛外図」でググって下さると、「上杉本洛中洛外図屏風」に描かれている当時の湯屋を見ることができます。

こちらは『山科言継卿日記』にも出てくる一条の湯屋で、下帯姿の男性が蒸さたり、髪の毛を結い直してもらっていて、大変リラックスしておられます。









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