父と息子の絆(天王坊の考察)
天王坊は那古野時代、信長公が通ったとされる学問所です。
場所には諸説ありますが、那古野城を手に入れた信秀が、主家である下尾張守護代に許しを願い出て早々に手を入れていること。
同じく天文七年(1538)に天王坊宛の所領安堵状を発給していること。
同じ時期に復興した「若宮社」の伝承で「那古野荘中市場の天王坊の南に建ち」とあることから、天王坊は那古野城下にあったと考える方が自然な気がします。
徳川美術館収蔵の慶長時代以前の尾州名護屋古地図(特別展のみ)、または名古屋市博物館、那古野村古図(ネット閲覧可能)というものがあります。
ここに当時の本城である那古野城を出て二、三百米歩いた現在の名古屋城の三の丸あたりに、「氏神天王様、天永寺」という建物が並んで建っていることがわかります。当時は神仏習合ですので。
その東隣には「八王寺」という寺があります。
また更には、近くの安養寺由来には「安養寺十二坊の首班が天王社」と云う話もあります。これらの寺社仏閣は信秀が那古野を手に入れた後、再興したと言われています。
とりあえずこの辺りが、ここが天王坊だったのではないかと思われます。
さて、この天王坊ですが、現在信長公が学問所として通ったとされていますが、信長公記にはそのようなことは一切書かれていません。
この天王坊の下りは、「天王坊は信長公の学問所だった」という形で読もうとすると、非常に分かりにくい文章になります。
以下、新人物往来社の桑田忠親 校注版の公記の一部を掲載させて頂きます。
「備後殿(信秀)は 取り分け器用の仁にて 諸家中の能き者と御知音なされ 御手に付けられ 或る時 備後守 国中 那古野にこさせられ 丈夫に御要害仰せ付けられ 嫡男織田吉法師殿に、一おとな 林新五郎(林秀貞)
御不弁限り無く 天王坊と申す寺へ御登山なされ 那古野の城を吉法師殿へ御譲り候て、熱田の並び古渡と云う所に新城を拵へ 備後守御居城なり。御台所 賄 山田弥右衛門なり」
と書いてあります。
この前半部分は、織田家の状況について書かれ、弾正忠家が下尾張守護代の三奉行の一家で、代々武篇の家(武名高い家)であることが書いてあります。その続きで、「信秀公はとても心遣いの良い社交的な人物(辣腕家)で、様々な家の人たちと親しく交わり、味方に付けていき(我が物とし)、国中のものを呼び寄せて、手に入れた那古野城を堅固な城塞都市にして、嫡男吉法師殿にコレコレの人たちを付けた。」
ここら辺はまぁこんな感じですね。
ところが、突然主語が二つに分かれ
「吉法師は何かと不自由なことが多かったが、そんな中で天王坊と云う寺に通って学問をし、信秀は那古野の城を吉法師殿へ譲って、熱田の近くの〜(以下略)」
になります。
この訳文から天王坊と云う学問所が出てきたわけです。
当時の武家の若様たちは寺で教養を身につけましたので、そういうことも成り立つのですが……
何故、吉法師が突然御不便になられたのか。
自分つきの家臣が増えて、色々うるさく言う人が増えたからでしょうか?
では、もしこれが「信秀」と云う主語で統一した場合どうなるでしょうか。
「信秀は何かと不便なことが多かったので、天王坊と云う寺へ入って、那古野の城を吉法師殿に譲って、熱田の近くの〜」
と云うことになります。
では、何故信秀が御不便なことになったのか。
これはその前の部分にかかってきます。
ゆくゆく吉法師こと信長公が跡目を継ぐに当たって、信秀はまず信長公付けの家臣決めていった。
そして、那古野城を譲るつもりだったので、自分の目が届くうちに、何かと城の運営をさせてみていた。
すると命令系統が二つに分かれ、賄(経理)も別にしたので、色々不都合が起こってきた。
また先日まで自分の重臣だったものに何か申し付けようとしても、そうはいかず、また家臣たちもつい吉法師ではなく、自分の顔色を見るので、なかなか不便なことが多く、自分は天王坊に移った。
そう考えると、話がスッと通る気がします。
また天王坊は、後に逃れてきた尾張守護斯波氏嫡男岩龍丸主従、そしてその弟を入れさせているところから、相応の格式と広さがあったことが推測できます。
何しろこの斯波氏ご一行様は天文二十三年(1554)若武衛様(嫡男岩龍丸)とともに挙って川狩に出かけ
「内には 老者の仁体僅かに少々相残る」
(清須城内の守護屋敷の中には、老人が少々残っているだけだった)
と云うくらいで、その隙をついて同じ清須城の守護代屋敷に住む守護代織田氏の家臣に、守護大名斯波武衛は殺されてしまいます。
他の若君が残っていたので、その側近はいたでしょうが……
川狩りに行っていた残りの家臣たちは馬を那古野城に向けて走らせ、信長公に助けを求めました。
そして、この天王坊に入り、信長公から二百人扶持を充てがわれています。
そう考えると、信秀が本城で暮らすのと大差ない暮らしが出来たのでしょう。家臣はその宛てがわれた城下の屋敷が有りますしね。
戦国時代の文書を見ますと、非常に端的で、わかりやすくを心がけたものが多いです。
ですから、一文で二つ主語を持ち込むよりも、前文からの流れで、信秀を主語にした方が当時風なのではないかという気がします。
もう一つの傍証として、天正三年(1575)十一月のこと、信長公は信忠に家督を譲った折に、居城岐阜城も明け渡し、自らは茶道具を持って、佐久間信盛の私邸へ移り、翌年から安土城の建築をさせていることが、「信長公記」に書かれています。
また、秀吉も天正十九年(1591)、甥である秀次に家督を相続させる決意を固め、聚楽第を譲り、翌年から伏見城を築城しています。
信長公は、基本的に父、信秀の行動を踏襲し、秀吉は信長公を模倣していますので、ここでは、織田氏本城那古野城を譲った後、主郭に近く、格式の高い天王坊に家族を連れて入り、古渡城を築城したと見る方が妥当ではないでしょうか。
さて、こうして信秀は、吉法師が立派に城主として采配を振るっているのを見極めて、天文十四年(1545)ごろ、古渡城へ移っていきました。
しかし、行ったっきりではなく、しばしば足を運んだのではないかと考えられます。
と言うのも、天文二十年(1551)信長公と共に那古野城にいる乳母、大乳ちの方、後の養徳院が信秀公の娘を生んでいるからです。
古渡城というのは、那古野城からそんなに離れたとこじゃないんですね。
歩いて一時間もかからないようなところに建てています。
その後、末盛城を築きますが、そこもまた離れた場所じゃない。
徒歩で一時間半ほどです。
戦国期の皆さんは、現代の私たちに比べればもう少し機動力があるでしょうし、馬で走ればもっと早いでしょうね。
とにかく何かあればすぐに駆けつけられる場所です。
菩提寺も那古野に置いている。
あの抹香投げつけ事件のお寺も、この那古野城です。
いや、だからこそ、あの話の胡散臭さが増すのですが、それはまた今度追求したいと思います。
とにかく、信秀の信長公への気持ちが離れていないのがよく分かります。
敵領近くに入れ置いている、長男の信広とは扱いが全く違うわけです。
そういうのを考えると、那古野という重要拠点に大事な嫡男を入れて、成長を見ながら、少しずつ、少しずつ、手を離していっています。
信秀公と吉法師との絆は強く、丁寧に巣立ちをさせたという気がいたします。
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