困ったことに良く似てる(フロイス)

(この項は宗教系の話の上に私見ですので、気になる方はご遠慮ください)


「悪魔は彼らにいくつかの事柄において、キリスト教のそれに酷似している外見的な儀式を与えることに尽力した。そのことで我々が彼らに説いていることと、彼らの有していることとは、全て同じ事柄である、しかしながら、深く聞く時にはたちまち混乱してしまうのだと言うようになった。彼らは三位一体にして阿弥陀如来、そして釈迦は十二人の弟子と彼の生涯についての四人の年代記作者を持つほどの無限の奇跡を持った人類の救い主であると言うのである」

(イエズス会日本書簡集)


(注 キリスト教の教義「父と子と聖霊の三位一体」イエスの十二使徒と四つの福音書 釈迦の十大弟子 )



ルイス・フロイスを始め様々な宣教師たちは、未開の地である日本に上陸を果たし、無事に布教を始めました。


彼らはキリスト教だけが正しい宗教であると信じており、異教徒達に正しい宗教を教え救うことに、余りある情熱と使命感を持っていました。

故郷を捨て、困難な旅を経て布教活動に勤しむ彼らは、キリシタンの中でも特に不屈の闘志を持つ人々だったことは間違いありません。


 寺へ日参して僧侶から聴聞を受けるという生活習慣を持った日本人たちは、誘われるがまま宣教師たちの元へ通い始めました。

他の国では話を聞いてもらうのも一苦労だった宣教師たちは、気軽に足を運んでくる日本人に嬉しい悲鳴をあげました。


同時に岩のような揺るがぬ信仰心を持つ宣教師たちは、日本の文化に触れ、困惑していました。

武家の家臣団は修道士、大方様にかしずく侍女たちは修道女のような静けさと規律と秩序に満ちています。

彼らが大切に飾って祈っている彩色された仏像は、偶像崇拝を邪悪なものとする彼らには大声で言えませんでしたが、まるで聖母像のように見え、フロイスをして書き遺さずにはいられないほどでした。

更に彼らの年間の宗教的な行事のいくつかは、自分たちの行事に恐ろしく酷似していました。


 ところが宣教師たちが呆然としている間に、日本人は不満を持ち始めました。

彼らにとってお互いの学びや教義について納得するまで話し合うことが重要なことでした。なのに宣教師ときたら、こちらの論のベースとなる常識について、何も知らないことが分かったからです。

それらの宗教的な知識を持たないことは、日本人にとって無教養で野蛮な事でした。そんな人の話を聞く必要はありません。


布教対象者の人々の不満に慌てた宣教師たちは、この国の宗教について学び始めました。


すると恐ろしい事に野蛮な国の民に信仰されている邪悪な宗教は、余りにもキリスト教にそっくりだったのです。


しかも日本に来る前に彼らは様々な用語を日本語訳しましたが、選りに選って肝心の「デウス」のことを「天道テントウ」と訳してしまっていました。(のちに天主と変更)


室町末期、日本では天道思想が空前絶後の大ブームを引き起こしており、天の摂理が自分たちの行いを見て吉凶がもたらされるという考えが常識となっていました。

そのため人々は日頃から行いを正し、天道の摂理に叶うよう心がけていました。


夫々それぞれが天道を心に止めて日夜お寺に参詣して後生を願うべし」


日本人の為のキリスト教布教本「吉理師端往来きりしたんおうらい」には、このように書かれています。

これを読んだり、聞いたりした当時の人々は「ワシらのとおんなじや」と親近感を抱きました。


キリスト教こそが唯一の正義である、と考える宣教師たちは思いました。

「ここは悪魔の支配する国だ」

悪魔は邪悪なことに、唯一の正しい宗教であるキリスト教の模倣をして、この愚かにして善良な日本人を騙しているのだ。おそらく。


そんな彼らの苦悩を余所に、和をもって尊しとする精神の日本人は、古来より様々な文化や風習を柔軟に取り入れ、日本独自のそれに練り上げていったように、今回もまた、キリスト教を柔軟に取り入れ、自らのものにしようとしました。


戦国の人々にとってキリスト教というのは、大きな生命の流れの中で神道と仏教が出会い、また儒教が加わり、尚且つ個性を失わず、それぞれの役目を新たに取得しながら共存していく思想の一つでしかありませんでした。


神は常に居まし、我々を見ている。

神は一つの道理システムである。


それは「善因善果、悪因悪果」の縁起の法であり、例え悪事が異熟果として今世成功したように見えることがあったとしても、その真なる判決は来世に持ち越される。全て不昧因果である。

正しい事とは、儒教の教えるが如き在り方であり、外では王法に従い、心は仏法に従う。望みがあれば、作法を整えて功徳を積み、神に祈り結果は神の御心に委ねることが大事である。

何故なら正義は神にあり。


そして乱世に生きる日本人は、より神に近づく新たな方法論をキリスト教に求めました。

それは「絶対のシステムと、その取次所である宗教並びに宗教施設」という、再三出している無縁論に基づいているのではないかと思います。


学び始めた聴衆に安堵の思いの宣教師たちでした。


しかし、ある日のことです。

どこの民衆も現世利益的な側面を求めますが、雨乞いの折に誘われた宣教師は我が御技見せんと必死で祈り「デウスの御恵で雨が降った」と喜びます。

しかし彼らは「天道の御助け」だの「神明の御加護で」などと言い、自分たちの祈りが彼らの中で埋もれて同化したものになっていっている事に気がつきます。


当時のキリスト教は先進的で現世利益的な側面はなかったという説がありますが、「聖水によって癒された」「十字架の旗指物のお陰で、鉄砲で撃たれたにも関わらず怪我がなかった」とか『日本史』(ルイス・フロイス)に書いてあります。また勿論科学技術面では違うでしょうが、「聖水を悪魔にかける」のは「悪霊よけの呪符を貼り付ける」日本と同じレベルの気がしますし、宣教師たちが雨乞いをした時点で、結構現世利益的で呪術的なんじゃないかという感じです。


さて世界に類を見ないブラックホールのような包容力を持った宗教観を持つ日本と、我神以外に神なしのキリスト教の本当の出会いが起きました。


 キリスト教は西洋などでも「異端である」「魔女である」と、宗教的な争いを起こしていたことは皆様もご存知でしょう。

フロイスは「悪魔」「邪教」と罵る言葉を書き、報告書をイエズス会本部へ送っています。しかし本部に送らないものに関しては、「同じだ……」「まるで我が救世主のようだ」と素直な思いが書かれており、フロイスの混乱と苦悩が滲んでいます。


一卵性双生児は、お互いの差別化のために、正反対の性格を身につけやすいと言いますが、宣教師たちも日本人の知性の高さ、善良さは認めつつも、差別化のために殊更に、勝手に共存してくる未開の宗教へ、違うことをアピールし、攻撃をするようになっていきました。


 ただ日本の寛容な宗教観には、一つのルールがありました。


天下人信長公は安土宗論の後、負けた法華経の僧侶に「お前たちの宗旨を良く言う者が誰一人居なのは、お前たちが人を攻撃するからである。お前たちが自分の主旨を弘めている分には誰も悪く言わないが、人を攻撃するから憎まれる」と教え諭しました。(安土宗論 法華宗僧侶 日淵著『安土問答実録』)


折伏をしない。信仰を強要しない。相手の自主性に任せる。


それは建前なのかもしれませんが、秀吉も同じでした。

準管区長ガスパル・コエリョ宛の三か条の詰問書は「何故、信仰を強要するのか」「何故牛馬を食用にするのか」「何故日本人を奴隷として売買するのか」でした。

これを詳しくしたのが、天正15年6月18日の伴天連追放令になっています。


イエズス会が日本の寺社を破壊するようキリシタンに教唆していることを秀吉は責め、他の宗教と同じようにおとなしく共存するように。そしてそれができないのならば、シナへ退去するように申し伝えました。


「もし退去するだけのお金がないのならば、そのお金を出してやってもいい」


そして宣教師たちは秀吉と交渉し、国外退去ではなく長崎へ居を移しましたが、キリシタンとなった信徒たちの寺社への破壊活動は止むことがありませんでした。


排他的な信仰によって他宗教を迫害することは、天道的に見ると、「無道」或いは「非道」な行為で、最早天の御加護は無く、武運もないだろう致命的な行為でした。

このような非道を、治世者である秀吉は許しておくわけにはいかなかったのです。


まぁ日本でも、比叡山延暦寺とか宗教間抗争をしていたのは事実な訳ですけども、他宗教の殲滅を計っていたキリスト教とはまた違うのでしょう。

また大きなきっかけとして、伊勢神宮を攻撃したのがやばかったのではないかと言われています。

伊勢神宮は神仏習合の確立していた時代に於いても、「禁経教 禁僧尼」として、二の鳥居の中に仏教的要素が入ることを禁忌としていた別格の存在でした。

日本という国に対する当時民衆の概念は「神国」であり、その中心にあったのが伊勢神宮だったのかもしれません。

他の寺社仏閣や日本最高の祭主の帝の御所が焼けたり、打ち壊される分にはいいんですけど、伊勢神宮はだめというのは、なかなか興味深い感覚です。


しかし高山右近ら、勝たねばならない使命を持つ戦国キリシタン大名たちは、何故キリスト教にはまり、キリスト教を捨てなかったのでしょうか。


 宗教系、スピリチュアル系の本を読んでいますと、「同じ(心の)波長同士が引き寄せられる」という主旨のことが書いてあります。突然胡散臭くなりましたね。

例えば、これを読んでいるあなたは、戦国か歴史か雑学が好きでしょう。勿論たまたまな方や、そんなのには興味ないけど麒麟屋のことが好き!って素っ頓狂な方もおられるかもしれませんが、普通は戦国か歴史か雑学に興味があると思います。これが先ほどの胡散臭い話の例です。

「似たもの同士」とか「類友」とか、カテゴリーとしてそこですね。「似たものに引き寄せられる」


キリスト教と天道は入り口がよく似ているので、日本人にとって学び、取り入れることにためらいはなかったと思います。これが「天道とデウスがそっくりだった事件」の一つのキモです。

深く学ぶに連れ、取捨選択して足場が天道に置いたままの人々と、ズッポリはまった人に分かれていきました。キリシタンを選択した方々は、日本で説かれていた天道よりも、キリスト教の方が親和性が高かったのでしょう。


ではキリスト教にあって、天道には無かった、あるいは少なかった要素とはなんでしょうか。

これはですね、クリスチャンの方に失礼な話で、私は大学以外はミッションスクールにお世話になったので申し訳ないのですが、「悲劇性」なんじゃないかと思うんですよ。

イエス様と釈尊などの創始者のご生涯、日本神道に関しては神話などを見比べて、イエス様の純粋で激しく短い人生は凄いです。だからこそ末長く語り継がれたという側面もありますが、本当に激しい。ゲッセマネのくだりとか一緒に脂汗が流れそうです。

お釈迦様の入滅時のご年齢は80歳と言いますから、当時的には長生きだったと思われます。天照大神のご年齢は定かではありませんが……

それぞれに尊いご苦労はされていますが、あまり悲劇という感じはありません。


そうした創始者の人生の傾向というものを教えは内包し、熱心な信者は創始者との同一化を望み、再現しやすくなります。

つまり高山右近や大友宗麟たちには、そういった迫害、悲劇、激しい純粋性、短く太く生きるなどに惹かれる心の傾向があったのではないかと思います。


そして彼らは天道てんとうに従っていた熱心さを持って、天道デウスに奉仕をする訳です。デウスへの奉仕の中で最大のものは、邪教の撲滅であると当時の宣教師たちは教えていました。

そして終末思想が語られ、裁判の時が近づいていると煽られ、他宗迫害は激しさを増していっていました。

もし途中でおかしいなと思ったとしても、邪教として天道系を迫害してしまった彼らは、天道に立ち戻ることは罪悪感からも難しかったでしょうね。


双子の兄弟のようにそっくりだったキリスト教と天道は、ここにおいて相容れぬものになりました。


その流れは、江戸期にも受け継がれます。


島原の乱の発端となる寛永14年の一揆の生き残りの山田右衛門作(一揆軍副将)の証言の記録(『山田右衛門作口書写』)に「他宗の出家、キリシタンにならない者を」皆殺しにして蜂起したと書かれています。


島原の乱の記録を見ると、終末、予言成就、奇跡の発見が語られ、「神の王国」の樹立として地域を占拠し、たまたま通り掛った通行人ですら、追い返すのではなく、キリシタンにならなければ殺すというエキセントリックな排他的活動が見られます。

この流れはよく「飢饉と施政」と一緒に語られがちです。しかし終末思想には深く影響を与えたかもですが、彼らの主張はあくまで「このような恐ろしい世相はキリスト教を信じぬ人々への怒りである。だから悔い改めよ。少なくともキリスト教を認めよ」ですから、主客転倒な失礼な話かもしれませんし、「恐ろしい世相は天道に反した行為があったせい。悔い改めよ」という日本の考え方と相変わらず一緒だった訳です。


もしキリスト教に他宗殲滅の激しさがなければ、この二つの思想と日本はどうなっていたでしょうか。秀吉や家康は鎖国をしていたでしょうか。


天道は社会の表面から姿を消し、日本人の奥深く感覚的な志向として沈殿し、明治期に再来したキリスト教は穏やかに円熟したものとなっていました。


気を悪くした人はごめんね。













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