戦国時代のヘアスタイル
信長公といえば
……なんですけども、肖像画を拝観いたしますと、茶筅髷じゃなくて、
一体、当時のヘアスタイルというのは、どんな感じ?
歴史というのは、時の流れであり、一点を見るためには、少し過去に遡って見ると、よりわかりやすくなります。
ということで、戦国期の髪型をみるために、武士が台頭してきた、平安末期あたりから見ていきます。
平安時代から室町前期あたりまでは、武家も、ご存知のように、
烏帽子に関しては、別に条を設けないといけないほど、種類が豊富なので、最近長くなりがちの話が、更に長くなるので、置いておきましょう。
今回のテーマは、ヘアスタイルですね。
そう、烏帽子の中は、どんな感じだったのでしょう、ということを暫し見ていきます。
室町初期までは、武家の正式な場での帽子は、
髪の毛は
みんなの茶筅髷です!
なんだ、歴史ある結い方なんですね!
因みに男性の髪の毛を纏めて、束ねて、
基本的に頭頂部分は、総髪です。月代は剃りません。
その総髪を、頭頂よりやや後ろの頭上に集めて、元結でグルグル巻き上げましたのが、茶筅髷ですね。
しかし、巻いた先の、先っぽはタランとたれてます。茶筅というより、小筆……或いは豚のシッポみたいな感じです。
それが流行の移り変わりで、鎌倉期中期からは、烏帽子の前を高くし、髷を収納せず、後ろから、ヒョロリンと、出す形に変わってきました。
この時の髪型は、茶筅髷からの流れで、後頭部で結ぶポニテだったのが、曲げた方がカッコよくね?と、
烏帽子は、元々、烏帽子の内部の後ろ側に、縫い付けてある
しかし、髷を外に出すとなると、そのやり方では結べなくなりますね。それで、紐を烏帽子に回し掛けて、顎下で結んで固定する形になりました。
さて、さて、 頭頂を出すのが恥ずかしい時代というのは、
兜を被れば頭頂は隠れますから、流石に烏帽子を脱いで、被ったのでしょうか?
古い時代の兜を見ますと、頭頂部に穴が開いています。空気穴でしょうか?
いえいえ、なんと、
なんともはや、烏帽子を意地でも脱がない!という気概を感じますね!
しかし、ただでさえ鉄製の兜の内部は蒸れます。その上に涼しげな素材で作ったとしても、烏帽子を被れば更に熱がこもります。そこで、兜の穴から出す、髷だけを包む形の烏帽子になり、更には月代を剃るようになりました。
その後、兜の穴から髷を出さなくなると、髷の元結を切って、髪の毛を下ろし、首の後ろで軽く結ぶヘアスタイルが定着します。
奥様、お嬢様とおなじ、
髪の毛の長さは、肩を過ぎた辺りのようです。
さて問題の普段です。
此方はですね、月代は剃らず、総髪で、なんと!茶筅髷。時代が移っても、茶筅髷です。
皆さま、戦国期は茶筅髷も、ごくごく普通の髪型だったようですー!
ツーブロックやリーゼント、ドレッドヘアみたいな、してると先生から「ちょっと、吉法師くん、職員室へ来なさい」と言われるヘアスタイルでは無かったというわけです。
なんだか、信長公記に問題そうに書かれていますが、問題なのは、茶筅髷の方ではなく、元結の色の方だったのでしょうか?
そのほかのヘアスタイルとしましては、やはり総髪で、ポニテ、或いは2つ折り髷にしていたようです。
でも、戦国大名、戦国武将の肖像画で、茶筅髷をされているものは、お見かけいたしませんね?
実は茶筅髷は、或いは、茶筅髷をソフトにしたポニテもそうなんですが、毛量がある程度ないと、非常に大層、貧相な髪型です。
平安時代の、公家の烏帽子を取った姿を描いた、絵画も残っていますが、下膨れの尊顔と合わせて、弁当に入ってる醤油差しのような面白さが醸し出されています。
これは、ですね。
お公家さんとは違い、武家は戦の度に月代を抜いたり、剃ったりします。月代を何度も作っていると、だんだん生えなくなってくる。
加齢と共に毛量、太さが減量する。
こうした事情で、若い頃は茶筅髷やポニテをしていた武将たちも、歳を重ねると二つ折髷になるという流れがあったのではないかと推察されます。
何しろ肖像画は、特別な事情がない限り、死後の法要に合わせて描いてもらい、寺へ奉納するという形でした。
戦国期の乳幼児の死亡率は高いのですが、一旦成人すれば、大名、武将の死亡率は、然程高くありません。たしかに戦はありますが、身分が高くなれば、なる程、戦場での死亡率は減るというのは、いつの世も同じです。
ですから、肖像画を奉納される身分の方々は、どうしても、どうしても中年期以降のお姿になり、毛量少なめになります。
また、せっかくの肖像画ですから、普段着ではなく、正装かそれに準じたお姿であり、多少なりとも色をつけた、映えるお姿です。
となると、普段は二つ折りにしてない殿であっても、整然と綺麗な二つ折り髷姿になり候、ということになります。
現在ゲームキャラの公は、ボーボーとした髪に、ボーボーと勢いのある眉毛が大変な感じです。
これは、今始まったキャラ化だけではなく、江戸期、明治期、大正期と時代を追って見ても、毛がボーボーしていますから、信長公の男性的な人生には、ボーボーと男性的なスタイルが似合ってる!と思われていたのがよく分かります。
しかし、信長公の肖像画を拝見しますと、全体的に薄毛の質であられることがわかります。眉毛も薄く、髭も横に流しながら、軽くまとめているようです。
四十代後半の晩年だからかな?と思いましたが、ご子息たちも薄毛そうなので、元々薄毛な質だったのでしょうね。
月代にペタンと頭頂に持ってくるスタイルは、桃山時代、江戸初期に描かれた肖像画に、稀に見られます。しかし、毛先も揃っておらず、まるで頭頂に羊羹を乗せたような江戸期の髷とは、雰囲気が違います。
毎日、月代を剃る習慣というのは、基本的に戦国期には無く、戦さ準備の為に、竹の毛抜きで、黒い血を流しながら抜いていたようです。
坊さんが剃刀で剃っているのを知った信長公が、真似をして、武家が剃刀を使うことが広まったと言われています。
伸びかけの結べない時期は、かなり、むさ苦しそうです……
さて、月代部分の伸ばしかけの髪を後ろに撫で付けたり、髷を結うのに、何か押さえてくれるグッズが欲しいものです。
首級改を含む葬送系の史料を見ていますと、死者の死化粧、首装束の時に、「水をもて結う」という表現が出てきます。当時は水で撫で付けて髪の毛を整えるのは、生者には禁忌であり、また且つ、整髪剤的なものを使用する習慣があったということを現しているのではないでしょうか。
そこで資料を見てみますと、江戸期でいう鬢付け油へ発展する整髪剤が当時からありました。
少し古くなりますが、鎌倉時代に藤原信実によって編まれた『今物語』に
「待賢門院の堀川、上西門院の兵衛、をとゞ日なりけり。夜ふかくなるまで、さうし(草子)をみけるに、ともし火のつきたりけるに、あぶらわたをさしたりければ、世にかうばしく、にほひけるを、堀川、ともし火はたき物にこそ、似たりけれといひたりければ、兵衛、てうじがしらの香や匂ふらんと付けたり。いとおもしろかりけり」
という下りがあり、このあぶらわたというのが、壺に油を吸わせた綿を入れておき、髪の毛につけていたものであるといいます。
この油は、江戸後期に書かれた『守貞漫稿』によると、「昔は」一般的に貴族は胡桃の油で、庶民は胡麻油だったと書かれています。
上西門院の兵衛はお洒落だったので、丁子油を使っていたのでしょう。
こうして、髪油をつけて、髪の毛をまとめておられたのでしょう。
また、肖像画の公のように、軽くまとめている髭の方は、髭専用の整髭剤が、古来よりあったようです。
ムムム、これは男色の方でも使えそうな話ですね。
この真葛の水も、髪の毛に使用していたかもしれませんが、残念ながら、寡聞にして、使用したという史料の方は、発見出来ておりません。
とりあえず、なんと言っても、髭は鼻の下の事ですし、顔は毎日洗ったそうですので、水溶性のモノのほうがいいですよね。
ということで、普段髪の毛は、髪油をつかい、総髪を後頭部で束ねて、茶筅髷にしたり、髷にしたり、二つ折り髷にしたり、色々していました。
お髭も真葛の液で、軽くスタイリングして整えておられました。
勿論、殿のスタイリングは小姓の仕事で、切った髪の毛や髭は、紙に包んで場合によっては、流れ箱に入れて、土に埋めました。
呪われてはいけませんものね。
ということで、今回は戦国時代の髪の毛について、でした。
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