殿、嗚呼、我が殿!(戦国期の忠義心)

 戦国期というのは、権力が公家社会が武家社会に移り、それが独自の社会的機構へ移り変わる時代でした。

それは、公家、武家衆は元より、村に住む百姓たち、村を追われた無頼の衆にとっても同じであり、戦国乱世のクライマックスに至った永禄期以降は、そこに生きる一人一人が、乱気流に錐揉みになるような、経験したことのない混沌とした日々でした。

コロナな私たちのようなものですね。


 戦国期というのは、私たちが想像するよりも尚、恐ろしく貧しい時代です。

五十万石の大名であったとしても、国衆たちに分け、直臣に分け、実際の彼の直轄地からの実入りは一から二万石程度だったといいます。そこから、使用人たちの給料を払い、着物や武具を整えたりしました。

時代は少し後になりますが、ヴァリニャーノの「日本巡察記」に、大友宗麟から聞いた話として以下のようなことが書かれています。

『彼(大友宗麟)が五カ国の領主となって最も富裕であった時でさえも、毎年我等(在日イエズス会)が一年に費やす銀の半分量とても使うことは出来なかった。』


大名ですらそうですから、そこから分けられる国衆、直臣たちは大変です。

例えば、「明智光秀家中軍法」(福知山 御霊神社所蔵)によると百石と言えば、軍役は六人(甲冑をつけた者一、馬一疋、指物一、槍一)の下級武士になっています。

戦国期における石高の実収入計算は非常に難しいのですが、「和算で遊ぼう!江戸時代の庶民の娯楽」の佐藤健一氏によると、米一石を買える単位である一両が75000円であることから、江戸期に於いては百石は750万円、戦国期に於いてはもう少し下るかと思います。

つまり700万円前後で、奥さんと自分、自分と五、六人の家臣、それから使用人たち、それから子供達、合計十五、六人を養っていかねばなりません。

彼らはまともに米を食べることも叶いません。雑炊のようなご飯を、一日二回食べて、馬を飼い、戦にも備えなければなりません。

着物もほぼ着たきりに近かったと言います。


戦国期の武士の家の家政について生々しい話をまとめている「おあむ物語」の主人公は、三百石の知行取りの娘でしたが、その貧しさたるや、上記の下級武士の貧しさに引けはとりません。


その貧しさは、大名たちが公役として食糧や衣服、建築などを領民や家臣に課しましたことにも原因があります。

後の天下殿、豊臣秀吉の浪費ぶりは激しく、大名たちは秀吉に大量の金品を送らねば、領地の安堵が出来ないために戦々恐々としたと、ヴァリニャーノの前掲書にあります。


まるで戦後の時代のように、苦しく、貧しい生活です。そして、戦となれば、命の保障もなく、命があっても負傷兵となるやもしれません。

江戸時代であれば、一揆が起きるかもしれませんし、豊臣政権の崩壊の一因には秀吉のこの浪費ぶりがあるかもしれませんね。


しかし、それ以前の乱世の時代には、殿の「志」という大きな夢がありました。

この殿にこそ付いていけば、未来は明るいのだと、今より生活が良くなるのだという希望を持って彼らは耐えていました。

仕え甲斐のある主人に仕えることこそ、彼らの生き甲斐でした。


江戸時代のように、生まれながらに主君が決まって、問題無用に運命共同体の主従関係で、自分の死ぬまでの人生どころか、子孫の人生すら見えるというものではありません。

自分が選んだ主君の志に共感し、苦楽を共にし、お護りし、夢を共に実現することに喜びを感じ、切ないほどの愛情を主君に抱いている姿が遺されています。


ある戦さ場で、家臣の一人が足をやられているのを見た主君が、馬を降りて乗るように勧めました。

すると、その家臣は恐れ入ってお礼を言うどころか「なんとも うつけなる馬の降り処かな!」と言い放ちます。

家臣にとっては、主君こそが夢そのもので、失ってはいけない、かけがいのないものだったのです。

「殿がおりて、我を乗せるなど、心得違いも甚だしい!」

鼻息荒く、親切な主君を罵り、主君を再び馬に乗せると、尻を叩きます。


 またこのような話も遺っています。

戦国大名、国衆の直臣たちというのは、元々は百姓身分の者がほとんどです。

というのも、以前、戦国大名、国衆というのは、地頭が発展した形であると申し上げました。地頭が大名へ進化していく時に、その支配下にあった百姓たちのうち、惣村、惣郷の上位組織で、次第に「侍」衆と呼ばれるようになっていった武装集団が、大名、国衆の直臣です。


 信長公の時代より少し前の頃、ある大名が鷹狩に出かけました。

ちょうど田植えの時期で、道行く主君は馬を緩やかに走らせながら、領地の農民たちが泥だらけで苗を植えているのを眺めていました。

すると、その中の一人の百姓が汗を拭きながら、何気なく顔をあげました。

そして、馬を並べて側を通りかかった大名と目が合うと、顔色を変えて、田んぼの中に蹲ってしまいました。

その姿はこのように書かれています。

「破れ帷子かたびらを着、高端折りに端折りて、玉袴を上げて、我も早苗を背負いて、目づらまで土にして行く」


その家臣は、士分であるのに、百姓をしている姿を見られたことを恥じたのですね。

「主人より、取り立てて頂きし我ならば、かような姿をご覧に入れるとは、何とも面目なし」

すると、大名は「こんな苦労をさせてしまって」と、反対に自らを恥じて、謝ったといいます。


「予、弱小なる身上なれば、かいかいしき宛行も得させざるに」、それでも「命くれんといさむことの有り難さよ」

そう涙をぬぐい

「かくては天下を心がけ、一戦せん事、汝どもを頼りなり」

彼は天下殿になるどころか、大名家から国衆に家格を下げました。しかし、嫡男を人質に出して、家を守るその姿に感銘を受けた家臣たちは、彼の死後も家を守り、人質に出した嫡男殿の帰りをひたすらに待ち、貧しい生活の中、食べるものも食べず、着る物も惜しみ、ひたすらに切り詰めて一部屋一杯の米、金銀を蓄えました。

その忠義心は、人質の嫡男殿の心を動かし、主家を裏切り、見事天下を取りました。


そう、徳川家康の父、広忠の話でした。三河武士の真骨頂ですね。


三河武士の彼らに限らず、戦国期の忠義者は自らの主君が描く天下泰平の夢、立志にかけました。そしてその夢の実現に、自らもまさしく不惜身命で生きました。

彼らの物語は、この世的な結果はどうであれ、その献身の姿は胸を打ちます。


現代の日本でも、身命を賭けて、志を立てる政治家の出現を祈念して止みません。













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