戦国大名からの手紙 (書札礼)②
さて、そもそもになりますが、戦国大名の外交文書は、相手の大名との交流が目的です。
お付き合いが今まで無かった方にお手紙を差し上げる場合、まず取次に任命された宿老や一門衆の重臣が、家臣を伴って相手方の取次と話し合うことになります。
これは直接出向きます。
この最初の会見は、国境を接している場所ならそこですが、接して無い場合は、お互いの友好国に場所を借りたり、気を使います。
罠があるかもしれませんし、決裂して戦になるかもしれませんから。
また反対にトントン拍子に進み、いきなり同盟を結ぶ話まで進むこともあるので、殿との事前の打ち合わせを綿密に
特に今まで敵対関係にあった家同士であれば、より気を使わないといけませんから、細心の注意をもって『殿のことをなんと呼べばよいか』『どの程度の格式で折り合うか』など、色々擦り合わせをします。
こういう初回であったり、非常に重要な局面であった場合は、会合場所を決めて現地に取次として、近習や重臣が複数で赴いているようです。
実はですね。「取次に任命された」と書きましたが、この取次は後から大名が追認する形が多かったようです。
戦国期は、親兄弟、親戚が違う家に出仕していることがあります。また、以前はそこに所属してたとかいうのもあります。
また嫁の親戚がとか、友達がとか、武芸や趣味の師匠が同じとか、親しくしている商人が先方の城にも出入りしているとか、何らか縁があり、話が出来る相手がいるという重臣や近習がいます。
このような伝手を持っている家臣が、そろそろと「
またどうしてもいないということになりますと、相手方の近習や重臣を調べて、これはという人物にダイレクトに手紙を出すという手もありました。
しかし、今と違ってSNSが発達している訳では有りませんから、戦国時代の武将たちは、普段から社交的で無ければ出世できそうに無いですね。
てか、そこから情報が漏れたり、転仕のキッカケになったり、裏切ったりとかありそうですね。
さて「柴田勝家の紹介だったから、なんとか信長公に話をしてもらえた」という意味のことを書いてある文書(赤松氏)があったりします。
相手をよく吟味して、選ぶことは大事なポイントだったようです。
ですから、すでに取次をしてくれている人が、なんだか心許ないと思えば、別のこれは!という相手方の家臣に「これはどうなっていますか」と問い合わせを入れて、チェンジするという事もありました。
つまり、取次というのは、大名が上から押し付けるものではなく、家臣の個人的な関係を利用した外交手段な訳です。ここは戦国期を理解するのに、重要なポイントの一つです。
この個人的な人間関係を中心においた取次関係というのは、家中に於いても同じです。
家臣たちは個人的な関係のある宿老、一門衆の「指南」と小姓、上級の馬廻などの近習からなる「小指南」を挟んで当主とやり取りをすることになります。
つまり貴方が信長公の家臣になった場合、重臣クラスで転仕した時には親しくできる側近、いざとなれば光秀くんのように親しい上級女房がいるとかが望ましいということになります。
そうすると、当主が何を考えているか情報を教えてもらえますし、此方の意図をいい塩梅に伝えて貰うこともできるということになるわけです。
前田利家や熱田の加藤家なんぞは、身内が小姓だった訳ですから、便利だったでしょうね。
中級ならまぁ殿と意思疎通する機会もなかなかありませんが、上司に気に入られるか、同僚に早く馴染んで誰か紹介してもらうか、小姓くんをたらしこんで「ア~」な関係に持ち込むかするといいと思います。
この辺りを踏まえますと「秀吉の出自」でも書きました「戦歴のない秀吉が、いきなり垣内家に対して領地の安堵する取次の立場にあった」という史実が浮き彫りにする、「中村の貧民の息子の猿」説の異様さをご理解いただけるかと思います。
また、信長公の父、信秀が亡くなりますと、宿老林秀貞が、信勝の宿老柴田勝家と共謀し、二人の仲を裂きますが、ここにその取次制度の悪弊が見て取れます。
信長公が元服までは、信勝と信長公は、ほかの兄弟とは違い同等でしたから、文書のやり取りは直接出来たものと思われます。
しかし、元服すると信長公が公に嫡男、次期当主となり、信勝との立場に差が出ます。
信長公は直接信勝に書状を送ることは出来ますが、信勝は信長公の近習宛に出さねばなりません。
更にお互い家を構えるようになると、基本的に重臣たちが間に入ります。
この時、信長公に直接話をしていた近習の小指南が誰かはわかりませんが、指南は林秀貞、対する信勝側は柴田勝家、小指南は稲生合戦で亡くなった小姓頭だったかも知れません。
彼が稲生合戦で亡くなると、信勝は近習の津々木蔵人を重用して、柴田勝家を蔑ろにしたとありますので、彼が柴田勝家の小指南になったのかなと推測しています。
さてこうしてお互い取次が決定し、そこで書札礼についての話し合いが持たれ、色々決まりますとおもむろに大名は文案を練り、祐筆に書かせることになります。
「
端的に言葉少なく分かりやすく、そして単刀直入に。
これが外交文書の要点のようです。
京のぶぶ漬け的な社交術ではないようですね。
戦国大名は、分かりやすがモットーということです。まぁ勘違いされて戦になっても困りますものね。
この文書は信長公がやり方を変えるまでは
1、政治的な要件、及び贈答儀礼(別に描かれる場合もあり)
2、交渉案件を「一つ書き(一、何々。一、何々。と箇条書きにしている文書)」で記入したもの
ざっとざっくり、ダイレクトにかつシンプルに書いて送り、詳しくは添え状をみてね?と指定して置きます。
それから
3、添え状
になっていました。
この添え状、或いは副状が添えられていないと、いかなる大大名の書いた書状であろうとも、『本物』として見てもらえません。
天正十六年三月に伊達政宗が北条氏直に送った文書に、添え状が付いていませんでした。そのことを北条家の伊達家担当取次の北条氏照が、伊達家の北条家担当取次の片倉景綱に一応確かめている書状が、片倉家に残っています。
内容としては
「政宗公から、氏直公に手紙を貰った時に、我が家担当取次と決まっている貴方からの添え状が付いていませんでした。その為に氏直公がとても心許なく思いました。どうしたことかと聞きますと、貴方は留守だったそうですね。
これからも特別な間柄として、入念に仲良くしてください。」
という感じです。
次回は具体的な文言についてみていきたいと思います。
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