戦国大名からの手紙(文書の種類)

 今回は、大名の公的な文書について見ていきます。

丁度戦国時代は、新しい書式である「印判状」が普及していく過程にあり、それぞれの大名家に於いて変換期にあたっていました。その為いつも以上に、一概には言えない部分があることをご了承ください。

基本的に永禄から天正にかけて、書式が書札礼における薄礼に向かって流れていく傾向がありました。


また分類を含む内容に関して間違いがあるやもしれませんので、使用される時には自己責任でお願いします。


①起請文、願文 

神仏に誓って、自らの言葉に偽りがないことを約束する文書です。

確約する内容を前書、たがえた場合、神仏の罰を受けることを旨を記した部分を神文と呼びます。

前書きには、「すること」を書いたものと「しないこと」を書いたものがあり、神文部分には神社とか神様の名前が記され、どのような神罰を受けるか書かれています。


神に誓うので、誓詞とも呼ばれます。


起請文は契約関係にある主従、同盟、講和で交わされますが、圧をかけたい場合に送られることもあります。

同盟関係の起請文は、何度も案を出して、お互い納得いく形にしていきます。


起請文は通常「牛王紙」(熊野牛王宝印)の裏に書きます。

下の立場から出されるものや、念を押したいものには血判が押される場合もあります。


大名や武将から出されるものには、判物はんもつが用いられます。

※判物 差出人の花押が付された物。(後述参照)


起請文の特徴は、書止文言が「仍如件よってくだんのごとし」(記載の通りである)になるところです。

この書止文言は後述の、上意下知形式の命令や決定を通達する文書に書かれるもので、身分が対等だったり、目上の人に使わないと言われています。しかし何故か起請文には、この書止文言が定番になっています。

これは戦の後に大名に提出される報告書にも、この書止文言が使われます。


牛王紙

「じゃらん 世界リゾート熊野倶楽部 宿泊施設ブログ」


https://www.jalan.net/yad398080/blog/entry0001378512.html?yadNo=398080&aid=0001378512&convertedFlg=1


願文は神仏に対して、嘘偽りないことを表明するものです。

宛先が人間であれば起請文、神仏であれば願文になります。


起請文、願文に関して、是非ともお勧めしたいサイトがあります。

リンクを貼ると連絡しないといけないんですが……現在までに連絡先が分からず、申し訳ありませんが、ググって頂けると嬉しいです。


生島足島神社の文書です。


甲斐武田家の起請文、願文の写真、読み下し文、現代語訳、解説など、丁寧な掲載で非常に勉強になります。

また信玄公に起請文を提出した武将の城の地図まであり、甲斐武田家を題材にされた小説を書かれている方は勿論、戦国時代に興味のある方には超おすすめです。




 大名が家臣に向けて出す文書には、発給方法として大名本人が発給する「直状形式(直状式)」と、近習が「殿はこう仰せである」と発給する書形式(奉書式)」とがあります。


日付の下の部分に奉者の名前が書いてあるものが、奉書形式の文書だそうです。


直状形式は多くの場合、本文は祐筆が書いて花押を本人が付す物で、勿論、直状形式の方が厚礼になります。

室町初期までは下文くだしふみと呼ばれた上意下達形式の文書で、戦国時代では直状形式の花押の付された文書を「判物はんもつ」と呼びます。


判物には花押だけのものもありますが、花押と「天下布武」などの印章(判子)が捺されている物もあります。


それに対して印章が捺され、花押のないものを「印判状」と言います。

印判状の初見は現在のところ、長享元年(1487)今川氏親(今川義元の父)が発給したもので、禅寺で使用されていた禅林印章の影響を受けたものとされています。


多くの武家たちは禅寺で教育を受けていた為、こうした習慣には馴染み深く、領地経営や軍政に多くの文書を出さなければならなかった彼らにとり、大変便利であっという間に広がりました。


印判状には、よく使われたものに朱印状と黒印状があります。

現存する武家朱印状の初出は黒で、朱印状の初見は同じく今川氏親の永正9年(1512)のものになります。


律令制の公文書の影響のせいか朱印が正、黒印を副とする傾向はありますが、まだ戦国当時では全国的に統一されてはいませんでした。


武田勝頼のように、宛てがう石高によって色を替える当主もおり、色分けは当主の考え方にも依るようです。

基本的に礼に厚い東国に比べると西国では割と曖昧で、また東国でも家や当主によって変わりました。


天下人としては信長公はその優劣の区別はなく、ただおおよそ黒印状は普段の書状、朱印状は判物に変わる文書という傾向が見え、秀吉が朱印状を公的なもの、黒印状は私的なものとし、それを家康は引き継ぎました。


戦国当時に於いて、朱印、黒印以外にも黄印、紫印などもあり、また武将たちは大名に憚って朱印状は使用しなかったと言います。


また印判状は民政、軍事両面で多くの公文書、また書状にも使われましたが、基本的な流れとしては、時代が下るにつれ、奉書式印判状の占める割合が増える傾向にあり、更に直状式印判状でも具体的な内容は書かれず、「詳細は〇〇(取次の家臣の名前)の文書で」としているものが増えます。


おおよそ代々「家」に所属しているという意識の強い守護大名系では案外印判の占める割合が多く、「殿」と個人的な繋がりで主従関係を結んでいるという認識が強い西国の戦国大名系には判物、少なくとも直状形式の印判状が多く、中には印判状をほぼ発給していないのではないかとされる大名すら存在しているそうです。


書止文言に関しては、領地では上位者になりますので、書状のような「恐々謹言きょうきょうきんげん」などは使いません。

相手と極端に身分差がある場合は、書止文言もなく「候也」で終わります。

下知状では「下知如件げちくだんのごとし」「執達如件しったつくだんのごとし」などが使われ、そのほかのものでは「仍如件よってくだんのごとし」「状如件じょうくだんのごとし」などが使われています。


また書式の薄礼化にしたがって、書止文言も「候也」で終わるものが増えていく傾向がありました。


この他、印や花押の位置、月日を書くか、どう書くかなど様々な決まり事があり、厚礼と薄礼が細かく決められていましたが、こちらも薄礼に移っていきます。




 文書に関してまとめますと

大名から発給される上意下達文書は、直接出される「判物」「直状式印判状」の2種類と、主人の意を下命するために側近たちが出す「奉書式印判状」に分類されます。


 では、その文書の種類を見ていきます。

この分類は麒麟屋がまとめたもので、専門的には間違っているかもしれませんので、おおよそと思ってご覧ください。


②官途状

名乗、官途を与えるもの。

基本的に判物が用いられましたが、次第に印判状に移っていきます。


元々律令制の任官名で「六衛府」の官職名を「官途名」、国司の官職名を「受領名」と言います。勿論、これらは朝廷から叙位されて名乗るものでしたが、南北朝時代から将軍の推挙で叙任されるようになります。


更に守護職が力を持ち始めると、その家で独自に官途受領名を家臣に与えるようになりました。その後戦国大名が台頭してくると、同じように褒賞として、家臣に名乗りを与えるようになります。


受領名(〇〇守、大膳など)を与えるものを「官途書出」、輩行名に六衛府に因んだ官名を組み合わせた名(太郎左衛門尉、五郎兵衛など)を授けるものを「仮名書出」と呼びます。


③感状

戦などの功績を称える書状です。

領土などを与える場合には別のもので、感状はひたすら誉めたたえるだけになります。


基本的に判物が用いられていましたが、年代が下ると直状式印判状も用いられるようになります。



春日部市郷土歴史資料館

「北条氏政の感状」

http://www.boe.kasukabe.saitama.jp/siryoukan/shuzou29.html


 ②と③は家臣の功労に対して名誉を与えるものです。


 では現物を与える時にはどういう形式になるのでしょうか。

ものを与えることを「宛行あておこない」と言い、それを通達する文書を「宛行状」と呼びます。その中で戦国時代中期まで重要だったのは、土地を与える「所領宛行」(知行宛行)で、与えることを約束するものを「宛行約束」、神社仏閣に対しては「寄進」「奉納」になります。



④宛行状(所領宛行状)


平安中期に、上の立場のもの(組織、個人)から下の立場のもの(組織、個人)に出された命令書の書式である「下文」が元になります。

室町三代義満が直接花押を付して発給する「御教書形式(御判御教書)(直状)」に改め、それが戦国時代では「判物」として踏襲されていました。


長らく判物が用いられていましたが、直状印判状へ、更に奉書式印判状へと変換して行きます。

これは戦の恩賞として最も重要とされていた「所領宛行」が、他の物(茶道具や茶会許など)へ変換し、要の部分の重要性が薄れた為に全体の薄礼化に拍車がかかったものと考えられています。


「岐阜県公式ホームページ」

「土岐頼芸知行宛行状」

https://www.pref.gifu.lg.jp/page/127678.html


16世記前半の判物です。



⑤宛行約束状

近い将来所領などを与えることを約束するものです。

奉書式の印判状と判物があります。


戦の直前に「今度の戦で素晴らしい軍功を立てたものにはコレコレを褒賞としてやろう」というものが多く、当初は所領が主であり、判物で発給されていましたが、「所領宛行状」同様、軍功=所領では無くなるにつれ、印判状に変化していきます。



⑥寄進状

神社などに土地や銭、名物などを、奉納寄進する時に発行される文書です。

これも元々は判物でしたが、次第に奉書式印判状も多く見えます。

大名が自ら戦勝祈願や家族の病気平癒などの願掛けをして、それが成就をした場合には、直状式の朱印状が発給されるようです。




 既得権益を承認することを安堵と言い、それを書状にした物が「安堵状」と呼ばれます。

この安堵に関する書状は出す頻度の高いもので、宛先は家臣、寺社、そして郷村に対するものがあります。

相手の格や内容によって、書式が変わります。


⑦所領安堵状(知行安堵)

最もポピュラーなものです。

現在所有する土地をそのまま保有することを認め、争いが起きた時には支持することを約束するものです。


寺社への所領安堵は、重要な大社宛のものは判物が多く、中小社には奉書式の印判状が多いようです。

何かの都合で同じ日に発給することになった時には、直状印判状も見られます。


「市立米沢図書館 デジタルライブラリー」

武田勝頼知行安堵状(知行宛行状)

https://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/MC006.html



⑧跡目安堵状(相続安堵状)

安堵状の中でも武家の代替わりの折に、家督を承認するために発給されるものを「跡目安堵状」「相続安堵状」と呼びます。


これは武将家の家格により判物だったり、直状式印判状だったりするのですが、当主が討死だった場合は、判物で出されるようです。


⑨安堵状

⑦、⑧以外のものを安堵するものです。


寺社に対する安堵状の内容は、武家の家督相続の安堵状と同じように、寺、住持職の安堵もあります。大社には判物もありますが、直状式印判状もあります。

また竹木の権利を安堵するものもあり、そうしたものには奉書式印判状が出されることが多かったようです。


また家臣の役職を安堵するものもありました。




 行政上の優遇策として、その時、その時伝達されるものも多いです。

木製の札を立てて広く知らしめるものと、それを通知する文書があります。

札は禁札きんさつ制札せいさつ、制符とも言います。


禁制きんぜい


「禁制」と後述の「法令」は似ているのですが、「禁制」は永続性のない、その時々の物事に対応して出される文書です。


寺社に対し陣取りをしたり、乱妨狼藉をしないように求めるもの、竹木の伐採をしないように求めるものなどが出されました。

町屋、市場には押し売りや押し買い、郷村には乱妨狼藉など、不当行為を働かないように命じるものになります。


前半部分に禁止事項がかかれ、後半部分に違反した場合の処罰が明記されるものもありました。


寺社に対しては戦国初期までは判物でしたが、次第に大社に対しては直状式印判状、その他には基本的に奉書式印判状で、奉行人連署の下知状様式で書かれることが多かったようです。

下知状様式とは、書き出しの文言があり、その後に禁止する事柄が、「一、〇〇之事、一、〇〇之事」と事書きで記されています。

書き出しは初期には「禁札」。それから「禁制」へ、更に「掟」に変わっていきます。書止文言は「下知件如げちくだんのごとし」あるいは「仍執達如件よってしったつくだんのごとし」(〇〇の意向である)になります。


「東寺百合文書WEB」

「織田信長禁制」

http://hyakugo.pref.kyoto.lg.jp/?p=279



⑪諸役免除(役免)

税金や公事を免除するものです。

室町初期から中期にかかる頃は判物もあったようですが、中期以降は直状式印判状、そして奉書式へ変わっていきます。


⑫過所

関所の通行許可証です。

印判状で出されます。初期には直状もありましたが、奉書式で下知状様式で出されるもののようです。


紙の文書以外では、過所旗があります。

現存する最も古い「過所旗」は文永九年(1271)二月、鎌倉幕府執権北条時宗が発給したもので、海上通行許可証になります。


戦国期では、有名な海の大名村上水軍のものがあり、Wikipediaでも閲覧することができます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/村上水軍


⑬伝馬

宿駅にその大名や武将が配備している馬を、有償、無償で貸すことを許す文書です。一貫して奉書式印判状が使われます。


武田信玄が北条氏に嫁がせた黄梅院殿に付けた取次に対し、月三頭まで伝馬を無料で使用することを許可した印判を発給しています。

非常に興味深いものなのですが、残念ながらネット上で見られるものはありませんでした。

「戦国遺文 武田氏編」に載っています。



 それから相手に対して、いわゆる命令を下す命令文書(下知)もあります。


⑭命令書

受け取る相手に、具体的な指示を出す文書です。

基本的に印判状が使われますが、判物は書状の色合いが強いものに稀に見ることがあります。


元々は年貢の催促、人足や兵糧、木材、舟の物資の徴発など、郷村宛に出されていたものが、次第に多用されるようになったようです。個別に指令を出すものは奉書式印判状、広範囲に命令を出すものには直状式が使われるようです。


出陣の知らせもここに入ります。


それから面白いものに、知行ではなく扶持(給金)をもらっている家臣たちに、何月何日に奉行人の元に取りにくるように命じたものがあります。

これは一年に一度ですが、毎年決まったものは直状式印判状、臨時に出すものに関しては奉書式印判状が使われていたようです。



⑮掟、法令(法度)

命令指示のうち、禁制のようにその時々のものではなく、永続性のあるものを「掟」と呼びます。

領地でのしきたり、取り決めのようなものが当初の形であると言います。


「禁制」と似ていて、書き出しに「掟」(御掟、掟事、定、定申など)と記して、法令を「一、〇〇の事、一、△△の事」という条文を事書き形式で書き、発布者の名前を記載します。


大名の発布するもので一番大きなものに、領地支配のための分国法(戦国家法)があります。

戦国時代最大級を誇る171ヶ条に及ぶ伊達家の「塵芥集」、武田信玄の行政に関する上巻57ヶ条、家訓下巻は99ヶ条の「甲州法度次第」、駿河今川家の33カ条からなる名作「今川仮名目録」などが有名です。


またこうしたものに追加したり、実情に合わなくなって校正したものを発布することもあります。

多くは郷村に対してで、一揆を起こしがちな一向宗を禁じるなど、強い通達が特徴です。


領民や家臣同士の裁判の勝訴側に与えた裁許文書も、その件に関しては永続性があるため、ここに分類できます。

訴えた側と訴えられた側の名前、それぞれの言い分、これに対する裁許を記してあります。

訴えの重要性、その関係者の家格などによりますが、多くは下知状形式で書かれているものが多いようです。


これも同じく個別に出すものには奉書状が使われ、広く知らしめる場合には直状式で出されることが多いようです。

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