戦国大名への手紙 文書に見る家格、立場


 今回は「書札礼」における「格」、「立場」というものを見ていきます。


 まず、手紙の出し方です。

いわゆる起請文は違うのですが、基本的に「手紙」は同格か、下の立場の人には出したい人本人に直接出せますが、目上の人に出す場合は、その人の近習に出す形になります。


「連枝」と呼ばれる人々が、大名や一家の当主に手紙を出す場合も同じです。


同じ家だとしても息子達は、父親が当主の間は、父親の近習に宛てて手紙を出します。

甥が当主の場合、例えば織田信長公の叔父信光も、織田家当主を継いだ信長公に対しては近習に宛てて手紙を出します。


 もし息子が、別に一家を構えていた場合はどうでしょうか。

織田信長公の次男、伊勢北畠家を継いだ北畠具豊こと織田信雄。或いは、武田信玄の後の後継者、諏訪四郎勝頼。また西国の雄、毛利元就の3人の息子のうち、吉川元春、小早川隆景。

当主の父親から個人的な手紙を貰ったとしても、勿論、父親の近習に宛てて返事を書きます。


では国衆などで、自分の息子が本家を継ぐなどした場合、どうなるでしょうか。

例えば、織田伊勢守家当主の弟の立てた家である木之下織田氏では、兄(伊勢守)に男児が出来なかった為、嫡男を養子に出しました。この場合も、勿論我が息子であったとしても、息子の近習に向けて手紙を出します。


 戦国期の大名の中でも、討死や病を得ることなく、無事に嫡男に家督を相続させ、隠居をした方もおられます。

また家臣たちに迫られ泣く泣く隠居をした方もおられますが、とりあえず、当主を退いた彼らからの手紙というのはどういった感じになるでしょう。


まず御隠居の殿にも、御側衆の近習たちは侍って、御隠居専任の奏者として使っています。新しい当主である殿と兼任の祐筆や近習というのはいないようです。

そしてやはり、新当主の息子に対しては、基本的に近習に宛てになりますが、なりはするのですが、中には上から目線で直接出す方もおられます。


また、天下人と呼ばれる信長公は、織田家の家督自体は信忠に譲っていますが、立場は上になりますから、勿論、これまで通り、信忠は近習宛に手紙を出し、信長公は直接信忠に手紙を出します。


しかしこれも一定の臨機応変さがあり、秀吉が母親に従兄弟に関する詫び状を出すときには、はばかって母親の側近の侍女に手紙を出し、いい感じで詫び状を披露してくれるようにお願いしています。


 さて同じ家なら、大体立場の上下は分かりますが、他所の家であれば、家格の微妙な差はちょっと分かりにくい場合が多いですね。

特に大名同士の場合は、家格に差があっても、やり取りをしています。

そうした場合、外交文書の書止文言かきとめもんごんをみてみるという手があります。


書止文言とは、末尾の締めの言葉になります。これは武将が書く手紙も同じですので、文書を見るときには、是非チェックしてみてください。


お互いの家格が同じである場合の書止文言は、一般的に「恐々謹言きょうきょうきんげん」になります。

「おそれながらつつしんで申し上げる」という意になります。


相手が自分より上の場合は、「恐惶謹言きょうこうきんげん」になります。

こちらは、「恐れかしこまり、つつしんで申し上げる」という意になり、「恐々謹言」より恐れ入り度が深くなっています。


更にもう一段階、相手が目上だなという場合は、「誠恐謹言せいきょうきんげん」になり、「深く恐縮し、つつしんで申しあげる」と、頭が上がらないようなニュアンスになります。

さらに古くは「誠惶誠恐謹言せいこうせいきょうきんげん」という言い回しがあったそうです。その他、『古事記』(712)上には「誠惶誠恐頓首頓首さいこうさいきょうとんしゅとんしゅ」という書止文言が書かれています。頓首とは、頭を打ち付ける中国式の礼法で、日本では書止文言として使われました。「誠惶誠恐謹言頓首再拝」(頭を打ち付け、二回続けてお辞儀するという意)とも書くそうです。

こうした言い回しを昭和初期の文豪達が好んで作中に使っておられますので、馴染みのある方もおられるでしょう。


また「謹言」の代わりに「敬白」が使われている場合もあります。「敬白」も「謹言」と同じく、「敬って申し上げる」という意で、近年も使われる場合がありますね。

実は敬白は、元々は僧侶に対して使うものでした。


また現代でも稀に使う「謹言」は、ちょっと目下の方に出す時の書止文言になります。

更にかなり目下の場合は書止文言は使わず、「候也」で終わります。


これらは「外交文書」と呼ばれるものに見られるもので、「仍件如よってくだんのごとし」などで終わる命令文書、そして何故か同じく「仍件如」などで終わる起請文には書かれません。


 また「書止文言」がどの書体で書かれているか、というのも、「格の差」を見るのに重要なポイントです。

崩して書いてある「草書」で書かれているものより崩し方が緩い「行書」、「行書」より更に当時「真」と呼ばれていた、やや崩し気味の「楷書」で書かれている方が厚礼です。


 また同じく文字で言えば、宛名のところの「〇〇殿へ」の文字も要チェックポイントです。

基本的に「外交文書」に「様」を使うようになるのは、一部西国を除いては秀吉が天下を取った後になります。


それまでは武家、公家共に「殿」が一般的です。しかし鎌倉時代より前では僧侶に対しては「殿」を使わないのが礼儀でした。僧侶に対しては「斎」になるそうのですが、頭の回転の良い方は「あれ?」となっていることと思います。

室町、戦国時代では、僧侶も敬称をつける場合は「殿」「御房」になっています。


そして、同じ「殿」でも、「とのへ」と平仮名になっているものが、一番の薄礼になります。



 室町幕府将軍が土岐氏へ出している文書では、明徳より前では「殿」を使い、「謹言」で終わっています。

明徳年間に入ると「殿」を使ってはいますが、書止文言が「候也」で終わるようになり、文亀にはいると「とのへ」となってしまい、更に大永年間に入ると「美濃守」「左京太夫」(土岐頼芸(弟))から「次郎」(土岐次郎頼武(兄))と家格が駄々下がりのまま、回復することはありませんでした。


これは将軍家自体の家格が下がったために、反対に威信を示すために文書では尊大な態度に出たという理由もあるのですが、なかなか受け取る側としては厳しいものがありますね。



この宛名の書き方にも色々有るので、また改めてまとめたいと思います。



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