戦国大名からの手紙・手切之一札

 あまり知られていませんが、同盟や主従関係が崩れる時、大名、国衆たちは「手切てぎれ一札いっさつ」と呼ばれる書状を送りあう武家の作法がありました。


 この文化、風習の存在は、 同盟が破棄される過程で、大名達が仲介してくれた同盟国に対して、「相手方から送られてきた『手切之一札』と自らが送った『手切』の写しをお見せする」、或いは自らの同盟国に対して「このような事情で止むを得なく、〇〇と手切をし、攻めることになった。ついては送られてきた手切とこちらから送った手切の写しを披露する」という文言のある文書を送っていることから確認することができます。


また、例えば両属だった国衆が、大戦おおいくさが起こるに際して、こちらだけの所属を表明することがあります。そうした時に「〇〇へ『手切』をすること」と通達し、その後に軍を動かすことを促しています。


このように相手から送られてきたもの、また自分を送った手切の文書は、大名同士であればその同盟を仲介した家や送られた方の同盟国で廻されて写しが取られます。そして戦を起こす場合、この手切がなされたのちに、兵を動かすのが武家の作法であるとされていました。

こんな丁寧な文化を持つ日本って素敵ですね。


 ではこの手切の一札とは、どのようなものだったのでしょうか。


この手切文書の現物は「手切」と銘打ったものがないため、分類上ハッキリとしないそうなのですが、そうではないかとされるものは、実は皆様もよくご存じであると思います。


例えば、甲斐の虎武田信玄と織田信長公の罵り合い。

同盟関係ではありませんが、秀吉の北条氏直への宣戦布告状。

また佐久間信盛への折檻状も、主人から出された主従別れの手切の一札と言えます。 


 そうなんですね。

相手の落ち度をあげつらい、それがいかに極悪非道な所業であるか、いかに自分に不利益を及ぼしたものであるか、またいかに天道的に是非に及ばぬものか書き連ね、それに対してこちらは正義を実現するためにやむを得ず手切をせざるを得ないと自らの正当性を主張するのが、手切の一札の特徴だそうです。

なんだか奥ゆかしい日本人の文化とは思えないなぁ、と思いませんか。

それ故にこの手切の文書が、現代においては一人歩きしてしまっている部分も無きにしも非ずです。


 これは、古来より戦を起こす時に僧侶たちが武家を廻り、挙兵を促した「勧進」と呼ばれる行為からきているのではないかと思われます。


元々「勧進」というのは仏教の伝道から始まり、大仏の建立や寺社の修繕費用、また橋や道路の整備など「作善」を促すために身分を問わずお勧めすることを言いました。

この辺りは、歌舞伎の演目『勧進帳』の弁慶の、焼失した東大寺再建の勧進のために諸国を廻っているとして、止められた関で読み上げる「勧進帳読み上げ」で、よく知られていると思います。


それが鎌倉時代、南北朝時代になると、お抱え僧侶、山伏たちが各地にいる武家をまわって、挙兵を促す行為をも言うようになってきました。

僧侶や山伏達は、元々の勧進のために各地を廻っていましたし、とても弁が立つ方が多いので、挙兵の勧進にもぴったりのお役目でした。

して、その内容は、元の勧進と似たり寄ったりで、〇〇殿の挙兵は天下泰平のためである、このような非道を正すためである、という「大義名分」を歌い上げたものでした。


それぞれの領地に住う武士達を、そこから引き離して戦さ場に駆り出すというのは、褒賞だけでは無理で、「大義名分」を立て、それを説くことが必要だったのです。正義と夢とロマンって感じですね。


決して武士、武家という人たちは、アドレナリンを放出しやすい特殊な人種ではなく、勿論個性として戦闘的な方もおられたでしょうが、多くの人たちは現代の私たちと変わらない、痛いのは嫌だなとか、戦は怖いなと思っている、そういう人たちだったのです。

それを天下の為に、あるいは正義を推し進める為に、そしてその戦に乗ることにより家名が高まるよと説かれて、よしと立ち上がり、その報酬として……という話になるわけです。


 時代が下り、室町時代に入ってくると、各地の守護職が力を持ち、そして世は乱れ始め、更に戦国大名が興り始めます。

その過程で非常に力を持っていったのが「天道思想」になり、人々はこの思想に基づいて行動をし始めます。(拙作「戦国時代の死生観」)


戦の勝敗を最終的に決めるのは神であり、勝つためには自分の天道的な正しさをアピールする時代に入りました。


相手がいかに極悪非道で、自分は神の正義を樹立するために同盟破棄に到らざるをえないかという事情を、同盟国の家に知ってもらい、納得をしてもらうことは非常に大事なことでした。

天道的に間違った相手にくみしていては、自分まで間違った人間になってしまい、神様から見放されて、戦で負けてしまったり、悪いことが起きてしまうかもしれませんでした。

また家臣団との雇用関係が緩やかだった当時、正しい殿である必要があった彼らは、家臣団に納得をしてもらい、家に居着いて、戦さ場に行ってもらう為にも、自分がいかに天道的な正しいか主張する必要がありました。


それゆえにこの手切の文書は、手切をする両者だけではなく同盟国に送られ、写しを取ることが必要でしたし、家臣団たちに聞かせて納得させることも求められていました。


またここに大きく影響するのが、「武士の対面」「面目」というものだというのが、窺い知れます。

 

 自分にも悪いところがあった。

自分があの時、こうしておけば、また結果は違ったかもしれない。

そんな奥ゆかしさは、この時代、寝床の中でコッソリ考えるべきことで、表立ってはとにかく、自己の正当性を主張することが武士には求められました。


豊臣秀吉が天正17年(1589)11月24日に送った書状です。


「北条氏直宛豊臣秀吉条目 天正17年(1589)11月24日」

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

https://trcadeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2000515100/2000515100100040/hideyoshi003/


天下人信長公が本能寺で斃れ、それを継いだ秀吉は北条氏に、「沼田領の3分の2を北条氏に、名胡桃城を含む残りの3分の1を真田氏に与えるから、上洛するように」という旨の「沼田裁定」を下していましたが、それを北条氏が承諾することはありませんでした。

そればかりか、真田分とした名胡桃城を攻撃し、奪取されたと真田より伝えられ、秀吉は激怒して北条家へ書状を送りました。


内容としては、北条氏が上洛命令に従わなかったことを不問としていたのは、徳川家康のとりなしがあったためだが、それを良いことに名胡桃城を奪取したのは約定違反であり、大罪にあたる。その悪辣な所業は天道に背いており、北条氏は天下の罪人だ。秀吉が勅命にて征伐してやる。年が明け次第、北条氏直、氏政両名の首をはねるというものになります。


これに驚いた北条氏は「名胡桃城占拠に自分は関与しておらず、家臣が独断でやったことである」と弁明しています。

しかし秀吉は聞かず、自ら送った宣戦布告状を大名達に観覧させて、小田原攻めに向かいました。


 上洛を無視されることは、秀吉の対面を汚すことでした。家臣たちは秀吉には指導力がないのかな、上様(信長公)のような威厳がないのかな?と思ったかもしれません。

しかし秀吉は家康の顔を立てて、なんとか我慢していました(と、秀吉は主張する)

ところがその上、約束違反をする北条氏は、秀吉を舐めくさっているし、家康の面目を潰した。

許し難い。このまま放置しておくと、せっかくの天下泰平(秀吉の治世)は揺らぎ、また戦乱の世に戻ってしまう。


もう討伐しかない。


こういう動きを示唆しているわけですね。



 その北条氏もまた、武田信玄が甲駿相の三国同盟を破棄して、義元亡き後の今川領を侵すにあたり、信玄より説明を受け納得したにも関わらず、後に信玄に手切を入れています。


当時の信玄の天道的な立場は、非常に微妙でした。

まず嫡男義信のクーデター事件の発覚です。彼の正室は今川氏娘で、義信は親今川の旗手です。その彼がクーデターを起こしたということは、義元を失った今川家を蔑ろにする方針が武田家の中であったと見られても仕方ありませんでした。

その上信玄は、今川家の怨敵である織田氏娘(養女)を四男勝頼の正室に迎えます。

このことで今川家と武田家の仲に亀裂が入りました。

さらに信玄は、今川家から独立した松平元康に近づき、同盟が模索し始めます。


怒った今川家は上杉家との同盟を考え始め、武田家と今川家では手切が行われました。


「駿(今川氏)は、越(上杉氏)と語らい、信玄の滅亡を企てていることが明らかになったので駿河を攻めざるを得なくなった。」

そう信玄はうそぶきます。

そうして今川から送られてきた手切と自分が送った手切の写しを、北条氏に送りつけて、自分の正しさと今川の極悪非道さを訴えました。


北条氏はもちろん今川氏からも書状を受け取り、実情は分かっていたでしょうが、もはや今川は川面に浮かぶ泥舟です。

北条氏は、武田信玄の言い掛かりに近い言い分に、納得した顔をしていました。


ところがそこまでは良かったのですが、今川領を攻めるにあたり、信玄は今川氏真の正室北条氏娘である早川殿の保護を忘れて、早川殿は戦火の中、あろうことか徒歩で逃げ落ちる羽目になります。


これは武田信玄が北条氏政を軽く見ている証拠になり、氏政の「武士の面目」を潰す行為に当たりました。

激怒した北条氏政は、信玄に対して「自らの野心によって隣国を侵した」と断罪した手切を送りつけ同盟を破棄し、今川氏真を保護することにし、三国同盟は完全に潰れました。



 信長公が現代において第六天魔王と呼ばれるきっかけになったのは、武田信玄に宛てた書状からです。

この書状は残っていないのですが、ルイス・フロイスが書き残していることで、現代にそれが伝わっています。

でも普通に考えると、なんで部外者である彼がそれを知ってるのか、おかしくないでしょうか。


 信長公は信玄から頼まれていた武田、上杉の和睦に関する書状を、三方ヶ原に信玄が出陣した直後に送っています。


信玄と信長公は同盟を結んでいますから、本来、信玄は出陣を決めた段階で、信長公に連絡をするのが武士の礼儀です。

勿論、奇襲であったり、連絡ができないこともありますが、武田家と織田家の同盟には、信長公の清須同盟の相手である徳川家康に関する条項も含まれていましたから、三河に向かうのなら、徳川家に関してどういう処置をするか、話を通さなければなりませんでした。


ところが、信玄はこれをマルッと無視して兵を動かし、全くそれを知らずに、信玄のために骨を折っていた信長公は、面目を潰され激怒します。


信玄は信長公に対して、過去の比叡山焼討ちを蒸し返し、「天台座主沙門信玄」と署名しました書状を送りつけます。天台座主は天台宗のトップですね。沙門とは出家した僧侶のことになります。

それに対して信長公が「第六天魔王」と署名し返した。

そういうことを、フロイスが「おもしろきことあり」と書き残しています(『耶蘇会士日本通信』1573年4月20日付書簡)


ではなぜ、信玄の手紙と信長公の手紙の内容を、フロイスが知っているのかという点です。


これは、実質「手切の一札」になったために、信長公が手切の手順を踏んで、兵を動かすにあたり、まず信玄から送られてきた書状と、自分が相手に送った書状の写しを、同盟国や家臣達に披露をしたのでしょう。

ルイス・フロイスは信長公の家臣や同盟国の人たちのうち、キリスト教徒になっていたものから聞くか、ご本人から聞いたということになり、布教の妨げになる仏教を敵視していましたので、大喜びで書き留めたという流れですね。


ということは、兵を通告なしに動かしたことをなじられた信玄は

「お前はあの比叡山を焼き討ちにしたではないか。なんと極悪非道なことだ。私は比叡山の僧侶たちを多く庇護している。彼らの訴えを聞くに、もはやお前を許すわけにはいかない。天と天台座主になり代わり、仏敵であるお前の首をはねてやる。」

そういう意味のことを書き、それに対して

「お前の武士の作法を無視したやり方は、天道的に非道である。

そんなお前ごときが比叡山のトップを名乗るなら、その天台宗とやらは邪教である。お前が天台座主を名乗るのであれば、天道的な是非は非らず。私はそれを叩きのめす正義の第六天魔王となろう。天に成り代わり、お前の首を刎ねてやる。」

と返したという次第が読み取れます。


意地の張り合いとか、ブラックジョークなどと言われていますが、この「手切」の文化を知ると、武将や大名達の酷い物言いとされているもの真意が分かる一端になるかと思います。

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