巨星堕つ時1

 戦国時代の大名たちというのは、まさに乱世という闇の中で、強い光を放つ巨星のような存在感だったのではないでしょうか。

そんな彼らが亡くなる時、特に横死や急死だった場合、占いや不思議なことが全盛期だった当時、何か予兆や怪異が起こったとされています。

今回は、そちらを幾つか見ていきましょう。


 街道一の弓取りと名高い今川義元が、桶狭間に向かい最期の出兵をする1週間程前から、駿府の城下町の辻々に、夜な夜な啜り泣く幽霊が出たそうです。

当時の常識では、道か交差する場所はあの世とこの世の境目だったので、冥府より警告が現れていたということになります。

また尾張沓掛城より出陣の折には、落馬して塗輿に乗っていくことになり、この落馬が不吉であったとされています。

しかし当時、輿は許可制で身分によって、形、担ぐ高さが厳密に定められてた為、義元は新規、または攻略する予定の土地を訪れる時には、自らの家格を誇示する為に輿に乗る行動パターンを持っていました。ですからこの時も、最初から輿に乗っていく計画だったと思われます。

これは桶狭間後に凶兆を表すために作られた話かと思われます。


 その義元を討った織田信長公の亡くなった天正10年(1582)というのは、おりしも天体ショーの多かった年でした。旧暦2月には低空に赤と白のうごめくオーロラが出現し山火事のように見え、4月には彗星が出現しその後半ばになると火球が空を横切り、5月には日蝕が……

なんとも華やかな上にも、ゴージャスですね。

不吉な予兆に恐れ慄く禁裏に、当の本人となる信長公は、日蝕について西洋暦による解説をし、和暦からの変更を提案したとかいわれています。

しかし信長公にそれをつたえたであろうフロイスもこれらを、本能寺での信長公横死と関連づけて凶兆であったと書いています。


そして天下人として安土城から最期の上洛をし、中国へ向かう前に愛用の香炉が夜な夜な騒いだと言われています。

愛用の香炉は、布に包んで鎮めさせたそうです。

この時、気がついてくれれば!とか、そんな安易に鎮まらず、もっと根性入れてガタガタせよ!とか思ったりしますな。


 厠で急死された軍神上杉謙信にも同じく、死を告げる話があります。

謙信の家臣に、父親の代から仕えた柿崎弥次郎景家という忠臣がおられたそうです。この方は文武両道の非常に有能な武将で、北条氏の取次を務め、越相同盟締結にも多大な貢献をされていました。更には謙信の関東管領職の就任式の際には、太刀持ちを務めるなど、謙信からの信頼も絶大なものがありました。

残念なことに天正2年(1574)11月22日、病死されているのですが、その後謙信の死の半年ほど前から、枕元にこの柿崎氏が座っているのを、近習たちが見たと言われています。

天晴れな忠臣ですが、枕元で見守るだけではなく、一言「お酒は大概にしなされ」と言ってくだされば……と思った近習も多かったのではないでしょうか。


これには、おどろおどろしい異説があります。

先程の柿崎氏なんですが、生前のある時厩番を仰つかります。この厩番というのは、ご存知の方も多いでしょうが、現代のドラマや小説のイメージとは違い、武家では古来より殿の信頼厚い重臣がなるもので、柿崎氏にはぴったりの役職ではあります。

さて御屋形様より信頼厚い重臣の柿崎氏は、管理者として不要になった馬を京で売らせました。

このうちの一頭を、なんと織田信長公が買い求め、上杉家のものと知り、厩番の柿崎氏にお礼の文を遣わせたそうです。

ご丁寧なことですが、これが不幸の手紙になってしまいます。

柿崎氏は信長公から礼状が届いたことを、謙信に報告をしなかったのですが、天正5年(1577)に事を知った謙信は、織田家への内通と判断し、柿崎氏を殺害してしまいます。

それ以来柿崎氏は無実を訴え、夜な夜な謙信の枕元に立ち、半年後に謙信は急死します。そのため謙信の死は、柿崎氏の怨霊によるものだと囁かれたそうです。


たしかに天正4年(1576)2月に両家は同盟を破棄しており、天正5年9月23日には手取川合戦がおきていますが、どうでしょうか。

しかしそれ程に、謙信の急死は衝撃的なものだったのでしょうね。


 さて関白秀吉の死の床の枕元に立ったのは、元主君の織田信長公と言います。

これは有名な話なので、ご存じな方も多いでしょう。


「藤吉郎!そろそろ良い時分にあろう。さてもこちらに参れ!」と大声で呼びかけ、秀吉が「上様、しばしお待ち下され。それがし、上様の仇も討ち奉りご奉公した身でござりますれば」と申し上げると、「貴様は余の倅を酷い有様にしたではないか!く参れ」と声を荒げると、首根っこを鷲掴みにし、病床から引きずり出したそうで、実際に床から数十センチほど体が出ていたといいます。

時は慶長3年(1598)7月1日と、日付まではっきり遺っているのは、これを秀吉から前田利家が聞き、利家の最初の家臣である元小姓村井又兵衛長頼(利家の家老)の次男長明(重頼、小姓として利家に仕える)が聞き、『利家公御夜話』に記したためです。

この『利家公御夜話』は「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」で無料にて、閲覧が可能です。


これは予兆ではないでしょうが、同じく慶長3年、方広寺(京都)の御本尊としてお奉りしていた如来像より、元安座されていた信濃に戻りたいと御告げがあり、お戻しするということがあったそうです。この如来像は武田信玄が、甲斐へ持ち帰り、その後京へ持ち出されていた物だそうです。

何故、秀吉に訴えたのかは定かでは有りませんが、死期が近づいてる秀吉なら、返してくれると踏んだのかもしれませんね。




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