戦国時代の会話(信長公の話し方)
私は信長公推しなので、公は生前どんな風にお話しされていたのかなぁ?と、思うことがあります。
ということで、信長公の話し方というのか、当時の皆様の話し方というのはどんなものだったのか、今回はふんわりと考えてみたいと思います。
これはほんの一例で、特に方言などへの考慮はしておりません。
さて「山椒魚」「黒い雨」などで知られる井伏鱒二は、あの本能寺の変の時に信長公とともにいた博多の豪商、
秀吉は天下人信長公の威厳ある態度や口調を真似することで、周囲に虎の皮を被ったわけですね。
これはありうることです。
アップル社は、天才と名高いスティーブン・ジョブズ氏のプレゼンのスタイルを踏襲して、カリスマ性のあるクリエイティブな社のイメージの不変性をアピールしました。
先代と同じような言動をすることで、先代を思い起こさせ、その湧いてきた恐れや憧れなどのイメージを利用するというテクニックですね。
ということで、【神屋宗湛の残した日記】は、宗湛が何故注意深く秀吉の言葉だけはそのまま、執拗に書き写し続けたのか、そこに着目した短編です。
なるほど、本能寺の変への考察も出来そうな感じもします。
ただ【神屋宗湛の残した日記】は、著者の考え方にシンパシーを覚える方以外には、その執拗に書き記したというセリフも少なく抜粋感があり、これを参考に論を練るのは危険かと思う部分はなきにしもあらずです。
しかし細かな城の内部や、茶室のしつらえ、当時の諸侯の動きが感じられて、中々面白い読み物ですし、ザックリ把握したい場合には廉価でありお勧めです。
元になっている【宗湛日記】もそのものではありませんが、『神屋宗湛日記』の「神屋宗湛日記」二冊、「神屋宗湛日記献立」二冊、「宗湛慶長元和日記并献立」一冊、「宗湛日記 見聞書」一冊、計六冊を底本として纏めたものが発刊されており、興味のある方はこちらを手に取られた方が良いかもしれません。
さて、文禄3年(1594)、聚楽第の北ノ丸を造営していた頃の話です。
宗湛は、堺の商人であり茶湯の天下三宗匠と名高い今井宗久と共に、茶室を作るのに呼ばれていました。
3日はかかると踏んでいましたが、思いの外1日早く完成し、たまたま登城していた宗湛は座敷に入り、茶道具を拝見していました。
すると加賀梅染めの小袖に萌黄色の袴をつけた秀吉が声をかけてきました。
「『飯を食はうか』(何か頂くか)と申され」宗湛は「『忝けなし』(どうもありがとう)と申し上げ」、お茶を点ててもらいます。
飯という単語が口頭で、ご飯や食事の意味を持つのは、江戸期を待たねばならず、この頃の「飯」は「召し」が発展して、口にする物一般を丁寧に言う時に使用される漢字だったそうです。
また「食う」というと、現代では少々荒い言い方になりますが、平安期の「食ふ」が進化したもので、マナーに沿った食べ方を示し、語感としては、現代でいう「頂く」あたりに相当するそうです。
また食うは、ご飯などの固形のものだけではなく、薬などの粉末を水に溶かしたり、煎じたものにも使われることもある動詞になるそうです。
ですから、発音的には「めしをくおうか」みたいな感じで、「一緒に何か口にするか」と一緒に飲んだり、食べたりすることを誘ったことになります。
では食事をすることは、どのように言ったでしょうか。
時は
※ 跡見の茶事
基本的に朝、昼にある茶事に参会できなかった客から所望されて、道具をそのまま使って催す茶事。
茶室の手前で秀吉が問いかけました。
『
宗湛は畏まって答えます。
『宗久のところにて、はや下され候』
(宗久のところで、すでに頂きました)
すると秀吉は
『さては、茶ばかり飲ませうづよ』
(それでは、お茶だけ進ぜようぞ)
と『御諚ありて候』(仰せられた)
御諚とは、貴人の命令や強制力を持った言葉を指します。
このような非常に強い意志を持った言葉が使われているのが注目点ですね。
本能寺からまだ5年、秀吉の権力意識の高まりと、宗湛の微妙な心の動きを感じさせます。
それから茶室に通り、秀吉は「長ゾロリ(背の高い胡銅の花入)に薄板を添えたものを出して来させると、床に置いて話しかけます。
『博多の者に、花を入れさせうぞ』
(宗湛に、花をいけさせよう)
と言葉をかけ、更に重ねてこう言います。
「『入れずば、筑紫にはやるまいぞ』
(いけなければ、筑紫(博多)には帰さないぞ)との御諚」
と、また「御諚」が出てきます。
これは何故か不思議なことに、無理難題だったようで、気を利かせた今井宗久が、横からあれこれ断りを入れます。
すると秀吉は
『されば、入れて見せんづよ』
(それならば、私がいけてみせてやろう)
とお側衆に黄色い
それからしばらく雑談が続いたようで、それが終わるとようよう
『茶を飲まうか』と秀吉が言い、自ら茶を点てたそうです。
7年後の聚楽第での会話は、お互いざっくばらんさが漂い、こなれた感じがありますが、大阪城の方は緊張感が漂っている感じを受けます。
この会話がなされた前の年である天正14年には、天正大地震により徳川家康を攻めるのを断念し、融和策に変更して妹旭姫を嫁がせました。そしてこの年には九州を平定したところです。
そこを押さえると御諚からの流れで、少し引っかかりのある会話になっています。
つまり不可解な花入の問答に、本来察するべきポイントが別にありそうな感じがします。
というのも、当時の文章には一つの特徴があるのです。
それは例えば和歌でいう本歌取りで、ある場面に有名な台詞や言い回し、詩などの一部を入れることで、書かない、書けない事情や感情を託して奥行きを出す手法です。
これは聖書でも使われていると言われています。
有名な十字架にかけられたイエス様の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(神よ、神よ、何故我を見捨てたもうたのか)ですが、実は絶望から始まり神への讃歌で終わる旧約聖書の詩編の一部であり、この長い詩を静かに唱え、詠み終わると共に絶命されたとされています。
このことで、紛うことなき救世主の死の場面として、ドラマティックなイメージが生まれてきます。
現代とは違い、昔は時間の流れがゆったりとし、読み物も限られていた為、世代間の文化、教養の共有があり、こうした奥行きを持たせることが出来たのですね。
こうした手法は、後世になると本歌取りの本歌自体を学んでいなかったり、そこと結びつけることが難しかったりで、最悪意図するものと反対の意味になったりします。
これらは度々【信長公記】でも見られ、幾つかは拙作「深読み信長公記」の方でも紹介させて頂いておりますが、やはり本歌を押さえると通説とは違った風景が展開されることになります。
しかし、私の論が正しいかは分かりませんので、ここでは【信長公記】の、はっきりと分かりやすい場面を取り上げてみます。
これは村木砦合戦に出陣した信長公が、冬場の突風の中、船を出すことを渋る船頭たちを叱りつけるシーンになります。
『昔の渡辺、福嶋にて逆櫓争時之風も是程こそ候らめ。船を出し候へ』
これは分かりやすいですね。
『逆櫓争時』というのは、【平家物語】にある、源義経と兄頼朝の寵臣梶原景時の逆櫓の論争のことです。
平家のいる屋島を襲う折、櫓のことで2人は言い争い、終いにはお互いの将としての資質までこき下ろします。
【吾妻鏡】によると、翌日は村木砦の頃と同じような真冬の暴風雨の日だったようです。
前日、猪突猛進と罵られた義経は、出港を見合わせる景時を振り切って、少人数で船出をし、3日かかる処を6時間で渡海し、まさかこんな日に来まいと決め込んでいた平家の隙をついて、見事、勝利をつかみました。
その後、義経は景時を「六日の菖蒲」(時期を逸して役に立たない)【平家物語】と罵ったとされています。
実は村木砦合戦の頃、【信長公記】の著者である太田牛一はまだ信長公に出仕しておらず、この台詞は創作の言葉の可能性が高いのです。
ですから、この時、義経と同じく、こんな日に織田軍は来まいと油断していた今川軍の隙をついて、知多半島に上陸し、更に村木砦の周辺の道を塞いで孤立させて勝利を得たことのみならず、当時の情勢……例えば非常識にも本城の留守居に他国の武将を呼ぶ事で、隙をついて内乱を仕掛ける予定の信勝派を牽制し、罵られても勝機を掴んだ信長公に義経を、6日の菖蒲になった林たちを景時に重ねて、この台詞を言わせた可能性もあり、この一言で痛快さを演出したと考えられます。
さらに、もしかすると出陣の日は暴風ですら無かったかもしれません。
連歌が流行していた戦国時代では、特にこうした物語、和歌、漢詩を念頭に置いた本歌取りのようなものが、普段の会話にも使われていた可能性は高いと思われます。
細川家に残っている【藤孝公譜】では、有名な安土城見学ツアーで、天主の黄金にはしゃいだ細川幽斎と、人を驚かせることが大好きな信長公との会話が残されています。
『さてさて夥しきことかな!』
(うわ!むっちゃギラギラしてる!)
と幽斎が驚きの声を上げると、ドヤ顔で信長公が返しました。
『八幡金三千枚もった』
(神に誓って、金三千枚分、貼り付けちゃった)
それを聞いた幽斎が
『あやかりまするように』
(俺もそんな風になりたいや)
と手を伸ばすと、信長公は
『
(触ったらあかんで、このボケ!)
と笑いながら嗜めました。
このあつや坊の意味は、分かりません。
狂言、幸若舞系の演目で、山伏(◯坊)の部分の本歌取りかな?と探しています。
そうだとすれば、この会話は「いらうまいぞ」の部分からして、もう少し深みがあり、幽斎と信長公の関係性がもっとはっきり分かりそうな気がします。
もしご存知の方がおられましたら、ご教示願えるとありがたいです。
この辺りは、当時の肉声が残っている気がしますね。
当時の人たちは、学習期に必須で沢山の過去の読み物や詩を学び、その後も学びを深めて行きますから、私たちからすると、とても教養が深い会話をしていたように思います。
血で血を洗う戦国時代と言いますが、実は文化水準の高さ、教養の深さは重要視されていました。
しかし会話においても常にマウントを取られるのを意識せねばならないという意味では、血で血を洗っているかもしれませんね。
どちらにしても、大名というのは、なかなか厳しそうな商売です。
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