秀吉の父親2

 秀吉の父親2回目です。


前回、木下家の家格が現代に伝わるほど、下の階級だったのか疑問だという話で終わりました。


 木下家の家格を追求する前に、木下家と家紋問題を見ていきます。

家紋から見ると、羽柴兄弟は非常に不思議な行動をしています。


羽柴兄弟が尾張時代に使用した家紋は、「沢瀉おもだか紋」と言われています。

これは藤原秀郷系統の藤原青木氏の流れの紋になり、源氏や平氏の家が持つ紋ではありません。


この家紋は、藤原青木氏の流れになる水野一族も使っていました。


源氏を標榜する知多水野氏も、平氏とも言われる尾張水野氏も使用しており、そうなると当然水野筑阿弥も元々使用していたと思われます。


それに対して木下氏というのは古くからある姓ですが、遡れば加茂氏、大江氏、桓武平氏となっており、決して藤原氏ではありません。

そもそも近江の木下氏は、佐々木源氏と名乗っていますね。


小谷の主となった浅井氏は、藤原氏、しかも秀郷流を標榜しています。

しかしそれは信長公の織田氏の平氏の詐称と似たり寄ったりのようです。

事実、小谷浅井氏三代の誰も澤瀉紋を使用しておらず、浅井長政の祖父の像を見ると「井桁」紋で浅「井」に通じ、おそらく浅井氏の元々の家紋はこれなのではないでしょうか。



 僧が還俗したり、関氏娘が70歳近くの老爺に嫁いだり、或いは昌吉が亡くなった後も仲さんが木下家にいたり、水野氏が家を捨てて婿に入ったりしている由緒正しそうな木下家の割には、その家の紋をつけず、血のつながっていない継父の家紋をつけるなんて、木下兄弟はどういうつもりなんでしょうか。


そもそも「藤吉郎」の「藤」というのは、知多緒川城主水野藤次郎信元のように、藤原氏系の嫡男の通称につけることが多い通字です。

由緒正しい木下家の嫡男が、紛らわしく名乗ってていいのでしょうか。


秀吉は水野家の家紋や藤原氏であることや藤の通字は大事にしていましたが、木下姓を大事にしていた話は寡聞にして聞きません。


もしかして木下兄弟は、継父と伝えられる水野昌盛の息子ではないかとすら思えます。


つまり「昌盛法師」と「昌盛」の韻を踏んだ伏線ですし、【塩尻】の「実父昌吉」は、よくある偽名のパターンの「昌」盛+秀「吉」でしょうか。


おや、そうなると秀吉は母方でも、父方でも家康とつながってしまいます。

徳川家の改竄に繋がるポイントですね。


しかし、秀吉は水野姓を使った形跡はなく、歴史に登場した時より木下姓を名乗っていたことは事実です。

となると、どういうことでしょうか。

 

 では木下家の家格問題に戻ります。


ここは、よくある江戸期に作られた制度とそれ以前のものの違いの混同があります。


木下家は、「水呑」だったといわれています。

この単語が、木下家貧困説の傍証になっています。


ところで、この「水呑」という身分は、皆様はどういう境遇の人を想像するでしょうか。

社会で習った、土地を持たない農民の小作人で、非常に貧困に喘いでいる感じではないでしょうか。


ところが戦国期の「水呑」は、単に課税対象になる田畑などを持たないという意味でしかなく、大名家と通婚するような豪商も、その中に含まれるのです。


同じ「水呑」という名称ですが、江戸初期に改められた事実さえも時の流れに消えて、同じ単語であるが故に、誤解されている例です。

当時の身分制度は、項を改めて、説明させて頂きたいと思っている部分です。


つまり木下家は貧農ではなく、課税対象の田畠は持っていないものの、関氏、水野家と同等であると織田家では考えられる家だったと言えます。


となると木下氏は「水呑」ですから、秀吉の居住地だったと言われている中村に土地を拝領していたのは、近習の水野筑阿弥で、そこになんらかのビジネスを始めて成功していた国吉氏が来たという流れが自然かもしれません。


すると水野昌盛の筑阿弥が、木下家の取次を担当しており、木下家は子が居らず、天文2年(1533)頃、織田家の政策上の都合で、名跡を継いて木下姓水野氏になり、還俗して仲さんと結婚し、秀吉たちが生まれた。

ということになるのでしょうか。


 ところでその中村には、「中村氏」がおられます。正確には「尾張中村の中々村の中村氏」ですが、ちとくどいですね。


 この尾張の中村氏は、那古野今川氏に従属していた土豪で、秀吉に出仕し、のちに信長公の乳兄弟池田恒興の娘の池田せんを娶る中村一氏を輩出します。


 ご存知の方も多いでしょうが、池田せんは再婚で、前夫は信長公の忠臣森可成の跡をとった寵臣森長可で、かの有名な森蘭丸の次兄です。

勿論「長」は偏諱で、鬼武蔵の二つ名を持った猛将でした。彼は長久手の戦いで、舅の恒興と共に討ち死をしています。


ということで、池田せんと中村一氏の婚姻は、秀吉の采配によるものになりますね。


ところで、主人の乳兄弟は連枝格になりますから、その娘は主人の姉妹、娘、姪と同じ扱いになり、信長公、そして恒興の生前であれば、股臣になる中村氏に嫁ぐことはまずあり得ません。

織田家中において政権簒奪、樹立中で、娘のいない秀吉にとって、信長公の乳兄弟の娘は、政治的価値が高い手駒だったはずです。


そんなせんを、まだ公の威信(怨念の畏れ)の残る時期に、尾張の土豪で、元々織田家の家臣ではなく、自分の家臣の中村氏に嫁がせるとは、非常に危険で意味深な行動ですね。


一つには、恒興の娘といえども、もはやその地位は下落し、権力は秀吉の手中にある、というみせしめもあるのでしょうが、その相手に中村氏が何故選ばれたのか。


 中村氏の公式的な記録には改竄が入っていて、尾張中村の土豪で、那古野今川氏に所属していたという所から、秀吉に出仕までが消えています。

何か史料などが残っていそうな中々村が棄却されたのは、関ヶ原以降だそうですから、徳川家の方の改竄になるかもしれませんね。


ではなぜ改竄をしなければならなかったのか。


それはそもそも中村に、木下氏も水野筑阿弥たちも中村一氏もいなかったからではないか。


よく言われている秀吉のあだ名の「猿」「中村の猿」ですが、生前「猿」と信長公や家臣たちから呼ばれた記録はありません。


それどころか「中村の猿」(中村が出身地である、猿という名前の男)というのは実在の人物で、長く信長公の小者をしていた、現在喧伝されている秀吉のような身分の方でした。

中村の猿=秀吉は、徳川時代に書かれた伝記の印象操作というのは有名で、ご存知の方も多いでしょう。


 では彼らは、どこにいたのか。


そのヒントになるのは、秀吉の初期の文書と彼のごく初期の家臣団です。


秀吉の現代に残る最初の文書は、永禄8年(1565)尾張松倉の垣内家への、信長公の安堵状の添状になります。

拙作「取次」を読んで頂けると幸いですが、これは垣内家に対して「殿が言ってることの詳細はこうで、ほんまのことやってワシが保証するで!」という保証書みたいなものです。この添状がないと、殿の文書も公式のものにはなりません。


祐筆の書いた紙切れ一枚の保証をするのですから、相対する家と殿の双方に信頼されている相当な身分と人柄の人物でなければなりません。

つまり垣内家と秀吉は、懇意であるということです。

ついでに、この取次、指南と呼ばれる職務は、おおよそ宿老クラスの武家の仕事です。


垣内家は美濃近く、犬山の人で、この時保証された土地は美濃の領土になります。


そのほか安井城の蜂須賀正勝、垣内家の息子で母方の前野を継いだ前野長康など初期の家臣は、犬山近くの人が多いのが特徴です。

また元服後に信長公に小姓として出仕させた堀秀政は、元は秀吉の小小姓ですが、彼もまた美濃の尾張寄りの土地の出身になります。


普通家臣というのは、血縁、地縁で固めます。


となると秀吉が育ったのは、犬山あたりの土地だったのではないかということになります。


つまりなんらかの理由で還俗した水野昌盛は犬山付近に行き、天文2年(1533)頃、関氏娘仲を娶ったのではないか。


 中村氏の話、水野昌盛の還俗の理由を考える前に、ここでもう一度、木下弥助国吉のプロフィールを確認します。


「近江国浅井郡草野郷」出身で近江浅井氏傍流、比叡山還俗僧 中村弥助門国吉である」

「木下越中守高泰の婿養子となって木下姓を継いでいたことから、木下弥助国吉を名乗った」


おかしくありませんか?

祖先は浅井氏と書いてあります。


浅井氏の庶流に、中村を名乗った人がいるのか探してみましたが、残念ながら発見することは出来ませんでした。

ですから本人が還俗後木下氏の婿養子になったのなら、出家前は「浅井国吉」。


祖父が木下氏の婿養子になっていたのなら、出家前から木下姓のはずで、中村の姓の出所が不明になります。


何故還俗した後、「中村」姓でわざわざ書かれてるのでしょうか。


 実は木下高泰の婿養子になったのは、国吉と関係のない「浅井系木下氏」で、国吉と改竄しても誤魔化せるような、近い出身の人のことではなかったのか。


つまり近江辺りに中村氏がいて、その裔が国吉で、尾張に移動した後、木下を名乗ったのではないか。

木下姓の出所を近江にしておく為に、木下高泰を持ち出したのではないか。

そんな疑問が湧いてきます。


近江に中村氏は、おられます。

といっても、これもはっきりしない家系図の家ですが、甲賀系の武士として武を鳴らしていたといわれています。


 ここで、先程の池田せんの話に戻ります。

長久手の戦いの頃の秀吉は、確かに一定の権力を握っていました。

しかし元々戦国期当時は、江戸期のような堅固な支配権は、成り上がりの大名にはありません。

成り上がりの大名とは、守護大名ではない、いわゆる戦国大名のことで、彼らは常に絶妙なバランス感覚で、家臣団を慰撫しておく必要がありました。


いわんや、絶賛成り上がり中の秀吉をや……



つまり信長公の乳兄弟の娘で、森可成の息子の元嫁(戦国当時、経産婦は価値が高くなります)の池田せんと、中村一氏がなんらかの形で釣り合わなければ、家臣たちは秀吉に不満を持つことになります。


ということは、中村一氏は山崎合戦からはじまる秀吉の政権樹立に、追随を許さないような著しい貢献をしたのでしょうか。


確かに一氏の戦歴は立派ですが、追随を許さないというほどの事はなく、正直言って、せんを新しく来た大身の家臣に嫁がせた方が、秀吉の古い家臣、蜂須賀氏や前野氏から不満が出ず、有益な気もします。


となると、中村一氏は秀吉の乳兄弟の息子か、他の追随を許さぬ程の譜代の家で、周囲が納得できる理由があったということになります。


ということで、「中村一氏」を調べてみますと、元は甲賀に住する近江瀧氏で、瀧(多喜)孫平次だという説が唱えられています。


甲賀時代から瀧氏と秀吉の中村氏が主従関係にあったとすれば、せんの入輿は納得がいきます。


となると中村一氏の「中村」は、賜姓中村氏ではないのか。


もし秀吉が自分の素性を隠す流れで、尾張中村の中村氏と、自分の配下である中村瀧氏をくっつけて、家系を詐称させたとしたら?

それを徳川家が便乗利用したとしたらどうでしょうか。


 では次に、中村国吉が何故木下姓を名乗ったのでしょうか。

昔からよくある改名の一つに、移住した折にその地名を、名乗るというものがあります。

そして犬山には「木ノ下」という地名があります。


文明元年(1469)まだ応仁の乱の初期頃、越前にいた斯波義敏が、尾張守護代織田敏広の弟、広近に命じて築城させた城が木ノ下城といいます。


広近は平地に常御殿の木ノ下城を築き、近くの山に詰城を作りました。


何故木ノ下城なのかというと、犬山は元は木ノ下と呼ばれていたそうで、この平地に建てた御屋敷の木ノ下城の近く一帯には、「木ノ下」という地名が今も残っています。


もし国吉の木下という姓が、本来ここに由来するものだったとしたら?

犬山にいたことが隠したいポイントだったとしたら?


長くなってきましたので、ここで一旦切ります。

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