秀吉の父親3
秀吉の父親3回目です。
前回秀吉の実家の木下家の家格は、少なくとも中級クラスの武家に相当し、秀吉の出身地と言われる中村には住んで無かったのではないか。
そもそも秀吉の祖先は甲賀武士の中村氏で、後年秀吉が自分の経歴を詐称するときに、中村氏と中村を混同させ、それを徳川家が利用して、中村の猿という実在の人物と秀吉をつなげたのではないかという話をしました。
また、木下の姓は、犬山の旧名木ノ下からきているのではないかとしました。
今回はまず、国吉の還俗の理由を考えます。
延徳元年(1489)、国吉は還俗しています。
何故還俗したのか、もし彼が甲賀系の中村氏ならば、考えられる出来事があります。
長享元年(1487)9月、9代将軍義尚が、近江守護六角高頼の討伐の為、親征をしています。六角高頼は観音寺城から甲賀へ逃亡し、幕府軍が甲賀を取り囲み、小競り合いが続きました。
長享、延徳の乱ですね。
長享3年3月、将軍義尚は陣中で没し、幕府軍は京に引き揚げていきました。
そして長享3年8月21日(1489年9月16日) 、年号が延徳になりました。
この延徳になってより、国吉は還俗しました。
出家するということは、正室腹の男児ではないでしょうが、もしこの戦乱で、当主、そして跡を取れる人物が亡くなったとしたら、国吉は家の為に還俗せざるを得なくなります。
ついでにこのまま、この後の近江近辺の歴史も見ていきましょう。
更に一旦引き揚げた幕府軍ですが、義材が10代将軍に就き、延徳3年(1491)六角氏討伐を宣言、それにより再び六角氏は甲賀に逃れます。
この時、斯波氏重臣である岩倉織田氏寛広、清須織田氏敏定は揃って、この遠征の主力を引き受けた斯波義寛に付き従っています。
岩倉織田氏寛広は、木ノ下城主織田広近の息子になります。
この戦での清須織田氏敏定の活躍は目覚ましく、将軍義材より直々に刀を賜っています。
結局六角高頼は、延徳4年(1492)に甲賀から伊勢に逃げ落ち、幕府軍は京へ戻ります。
しかし、それで落ち着くことはありませんでした。
明応元年(1492)近江守護に、元服も済ませていない六角虎千代が任じられます。
彼は、六角政堯が高嶋氏より迎えていた養子でした。しかし翌年の明応の政乱で義材が失脚すると、後ろ盾を失った虎千代たちは支配力を維持できず、明応4年(1495)に高頼が守護職に復帰しました。
これより近江、甲賀、伊勢のみならず、混乱が各地で起こっていきます。
六角政堯が祖と伝わる佐々成政の佐々氏、また甲賀出身、或いは伊勢北畠氏家臣とも言われる滝川氏など甲賀、近江、伊勢の武士たちは、この長享、延徳から始まる混乱期に斎藤妙椿の美濃、斯波氏の尾張方面に移住したと言われています。
また、少し後にはなりますが、伊勢から佐脇氏、森氏などが木ノ下(犬山)へ逃れていきます。
そしてまた中村氏も延徳年間に混乱する甲賀を後にし、木ノ下(犬山)へ向かい、そして水呑ですから、岩倉織田氏に出仕するのではなく、例えば豪商生駒氏に関連した仕事に就いたのではないかと考えられます。
こうして木ノ下に居住をすることになったので、中村氏は姓を改め木下にしたのではないでしょうか。
この改めた時期は、もしかすると場所的に、水野筑阿弥を養子に取った折かもしれません。
この辺りは、証明していく資料もないので、犬山付近在住となった中村国吉と、勝幡織田氏の近習である水野筑阿弥がどういう形で縁付くかを考えてみます。
まず背景となる、犬山のこの頃の流れを見てみましょう。
実は犬山と関わった時期の尾張系の織田氏の通説には、やや疑問が残ることが多いと感じます。
以下の話は、残っている史料から組み立ててみた考察です。通説と違っています。
勝幡織田家というのは、ご存知のように、尾張守護斯波氏の家臣の下尾張守護代清須織田家の家臣です。
しかし永正年間(1504〜1521)の半ばには、清須織田氏と関係なく、上尾張に遠征して美濃と戦ったり、上尾張の寺社に制札を発給しています。
そして享禄(1528〜1532)から天文初期の辺りに、勝幡織田氏当主織田弾正忠信貞は、上尾張に進出し、岩倉織田氏傍流木ノ下織田氏元本城木ノ下城に入ります。
これらは流石に勝幡織田氏独自の動きとは考えにくく、斯波氏に命じられたものと思われます。
上尾張の木ノ下城主織田広近は、長男寛広を兄の岩倉織田氏の養子に出し、文明7年(1475)次男を後継にして於久地城を継がせ、延徳3年(1491)に亡くなっています。この広近はなかなか優秀な武将だったらしく、美濃まで勢力を拡大していたと考えられてます。
木ノ下織田氏2代目織田寛近は、於久地城を本城にしていましたから、木ノ下城は空いていたのですね。
木ノ下織田氏の寛近に男児が出来ず、家系は断絶しますが、彼らは勝幡織田氏信秀との仲は良く、最後まで共闘関係にありました。
何故、下尾張守護代清須織田氏の家臣の勝幡織田氏が、このように本来の職務を離れて、斯波氏の家臣のような動きをしていたかというと、これより少し前から、尾張上下守護代は様々な問題を抱えており、本来の守護代としての機能を発揮できる状況ではありませんでした。
その問題の中の一つが、後継者問題です。
木ノ下織田氏広近の長男を当主に迎えた上尾張守護代岩倉織田氏ですが、広近の長男もまた子供が出来なかったのか、次期当主の座が実質的に空くことが予想される事態になっていたのは事実のようです。
下尾張守護代清須織田氏では、そもそも三奉行を立てた理由が当主敏定の病で(1495病死)、その後も当主が次々と亡くなるという異常事態が、織田達勝が就任(1517頃)するまで続きました。
一家の後継者問題というのは、家の存続に関わります。
当主が病である、死んだというのでは、次代当主が立派に機能するまでは、宿老たちは当主代行として家臣団をまとめて行かなければなりません。
その様な期間が数年ならまだしも、長きに渡ると宿老が当主を上回る権力を持ち、下克上が始まり、当主が権威を取り戻す為に、家中が二派に割れる事態となります。
岩倉織田氏は、宿老たちが当主代行をしている段階で、清須織田氏は家中が二派に割れている段階でした。
更に尾張の問題点として、守護代が上下に分かれた原因によって、仲良くなく、更に守護職斯波氏と清須織田氏は反目しており、斯波氏は永正13年の今川戦で敗北し、出家姿で尾張に送還されることで権威を失墜させました。
上下守護代、守護職がこういう状況で、更に下尾張では、三奉行のうち因幡守家は断絶し、小田井織田氏と勝幡織田氏は、清須織田氏と斯波氏との争いに巻き込まれ、同僚として支え合うのではなく、奇妙な敵対関係にありました。
そのお陰で勝幡織田氏にとっては、斯波氏の了解を得れば、清須織田氏を差し置いて、尾張織田氏のトップの座(氏長者)を狙えるという絶好の機会が訪れようとしていたのです。
信長公の庶兄に信広、信時という方々がおられます。
この信広は、恐らく信秀と元正室清須織田氏娘の長男であり、天文初期に元服をもう少しで迎える歳(7歳位)だったと考えられます。
これを岩倉織田氏に入れる計画を、信貞は立て、幼い頃から信広を引き取り、教育していたのではないかと言うのが、『信長公記』の「信広は兄弟ではなく、連枝(親戚)のような扱いだった」の真相ではないかと思います。
残念ながら勝幡織田氏の躍進を嫌った清須織田氏が介入し、信安が岩倉織田氏の当主に選ばれます。
この信安の素性もはっきりとしませんが、清須織田氏の係累の方ではあるものの、斯波氏の近習だったと言われています。
そして一種の手打で、信安の正室に信秀の妹の「岩倉殿」を娶せ、後見に信貞が任じられました。
後見に選ばれた信貞は、勝幡織田家の家督を信秀に譲ると、御内室様をはじめ、次男以下の家族と家臣を引き連れて、天文6年(1537)に詰城の乾山砦の方を改築して、こちらを木ノ下城としました。
木ノ下城はのちに犬山城と呼ばれるようになり、そこに入った信貞を祖として、或いはその息子の信康を祖として、犬山織田氏と言います。
この犬山織田氏は、見ての通り、氏族としては勝幡織田氏ではあるのですが、主従関係においては、岩倉織田氏の家臣になります。
つまり、上手くいけば勝幡織田氏の躍進のチャンスですが、下手をすれば勝幡織田氏の勢力を二分することになります。
そこで犬山織田氏では、信長公の異母兄織田信時を、信秀の弟信康の養子にして、嫡男として据え、勝幡織田氏との関係を維持する手筈を立てていました。
この行動により、信時もまた信秀の元正室清須織田氏娘の腹であることが推測できます。
彼の正室は、信安の正室に勝幡織田氏娘が入ったことを受け、木ノ下織田氏かそれに準ずる家臣の娘を、岩倉織田氏の養女として入れたと思われます。
また豪商生駒氏は、信貞が犬山に来ると従属し、娘の一人を「織田六郎三郎」に入輿させ、その後その姉妹に信長公の手が付くと勝幡織田氏に転仕したことが家史に残っています。
信時の正室は生駒氏娘かもしれませんが、定かではありません。
この辺りは別項「信長公と生駒氏娘」に譲ります。
しかし予定外の事態が起こります。
信秀の父信貞(1538没)が亡くなった後、思いがけず信秀の弟信康(1544〜1547没)が若くして亡くなり、しかも肝心の信秀が病に倒れたことから、勝幡織田氏の支配力が落ち、当主信時と信康の嫡男信清の間で家督争いが勃発しました。
信清は天文18年(1549)、信長公の直轄地を横領しようとして失敗したことが記録に残されています。
この裏には、清須織田氏などの信清への調略があるでしょう。
「織田秀俊」「深読み信長公記」でもお伝えしましたように、通説とは違い、伊勢大社に残る文書から、この当時信長公は既に家督を相続し、信秀は病を公にして隠居生活に入っています。
すなわち信清は遅くとも天文17年には犬山織田氏を制し、信長公に対して「手切れの一礼」を入れて、信時を勝幡織田氏に返したと考えられます。
そして信時とその近習、或いは犬山織田氏に見切りをつけた家臣たちは、那古野に引き揚げていきました。
以上の流れの中で、筑阿弥と仲、そして木下家はどういった動きをしていったのかを推測をしていきます。
論を展開する上で問題点として、仲が結婚したのは筑阿弥か、木下氏かというところが出てきます。
私は仲と筑阿弥が結婚した後、夫婦で木下家の夫婦養子になったと考えています。
なぜなら恋愛結婚が普通ではなかった当時、少なくとも中級武家クラスの家格がある場合、同じコミュニティにない関氏娘の仲が、水呑の木下家に嫁ぐ理由や当時の記録が見出せず、更にその木下家に仲が残り、織田家の家臣の水野筑阿弥が、婿入りすることに違和感があるからです。
他に秀吉が前回述べました藤原氏であることを大切にしていたこと、家紋を当初沢瀉紋を使っていたことなど、そのほかに成長後の秀吉の行動に何点か理由があり、水野氏木下であると考えていたのではないかと思われます。
ここでは、水野筑阿弥と仲が結婚し、後に木下氏と養子縁組したということで、ここからの推論を展開します。
これは証明しきれるものではありませんので、ほんの一興とお考えください。
筑阿弥は近習として殿の近くに侍りつつも、智の生年と後の秀吉の行動を考えると、元々犬山近辺の時宗の寺を拠点として、犬山や美濃の情報を収集し、有力者と接触し、仲間を増やす活動を任じられていたと思われます。
つまり筑阿弥は信秀ではなく、当時の勝幡織田氏の当主信貞の若い近習だったのではないかと考えられます。
また出身地を考えると、筑阿弥の実家は元は清須織田氏か斯波氏に従属し、木ノ下に進出した勝幡織田氏に転仕したのかも知れませんね。
おそらく水野筑阿弥は肝が据わり、機転が効く人物で、間者としての能力が高く、更に人心掌握術に長けていたのかもしれません。
まるで秀吉のように。
仲さんは関氏娘ですが、一般に言われている美濃関氏の刀鍛冶の娘ではなく、尾張一ノ宮である
なぜなら家臣、特に当主の近習、近臣の国を跨いでの婚姻は、大身の家臣の転入、あるいは当主、嫡男の婚姻に伴うもので、この当時、美濃と勝幡織田氏にそのような事が見いだせないからです。
この真清田神社神主関氏は、一宮城の伝承によると、元は伊勢北畠家に仕える家でしたが、享禄年間、関長重が熱田神宮を頼り尾張に逃げ落ち、千秋家の人脈により、真清田神社近くに一宮城を築いて入城し、神官として真清田神社に奉職したそうです。
熱田には、伊勢から移動してきた加藤氏がおられるので、頼った先はそちらかも知れませんね。
当時の神社というのは、熱田、伊勢、津島を見ても明らかなように一つの人脈の基であり、多額の税を納めてくれる金庫でした。
とはいうものの、真清田神社は、31年間の長きに渡り長野教高により領地を押収され、その間に野盗に押し入られた挙句に焼き討ちに遭い、ほぼ全焼してしまい、その後長い年月をかけようやく再建を果たし、少しずつ権威を回復している所でした。
ですから、熱田や津島ほどの権力も財力もなかったと考えられます。
しかし、尾張で最も権威の高い一ノ宮を押さえることは、政治的に重要なことでした。
真清田神社は、元は熱田の千秋家の話で出てきた、尾張氏が建てたと言われる神社で、神職は初め大三輪氏系の真神田氏が務め、のちに佐分・関・魚松・伴野(或いは関、兼松、伴、佐分)の四家が務めたと、真清田神社の縁起に書かれています。
このトップ4の神職のうち佐分氏は、元は彼らの下の階級だったようですが、天文年間以降突如としてトップの神主の座に就いています。
伝承に、佐分清治は信長公の叔母が母親で、彼の正室が秀吉の元の主人松下家の嫡男、之綱の娘であるというものがあります。
信貞の娘か養女を娶せた佐分氏を神主として置く引き換えに、真清田神社の後ろ盾に勝幡織田氏(犬山織田氏)がなることはWin-Winの関係になったことは間違いありません。
この流れの中で、尾張一宮城主で神職の関氏娘仲と勝幡織田氏(犬山織田氏)当主の近習で、名家である水野氏出身の筑阿弥の還俗、婚姻があったのかなと思います。
還俗後も筑阿弥は、近習として働いていたものと考えられます。
以上が、関氏娘仲と水野筑阿弥の馴れ初めの推測です。
信長公は、蘭奢待の切片を家臣に分与しましたが、そのうち村井貞勝は親しくしていた一宮城主関長安に分け、関氏はそれを真清田神社に奉納をして、今に至っています。
信長公生前はこのようなやり取りもあり、大切にされていましたが、秀吉に弾圧されてふたたび荒廃し、史料は一部散逸し、その後尾張徳川家により再興されました。
では次に、当主の近習と水呑の木下家は、どうして縁組をするに至ったでしょうか。
犬山で商業系の仕事をするとするなら、生駒氏と関係をしていたと考えることが自然です。
そうなると生駒氏が犬山織田氏に従属した折、信時に生駒氏娘を入輿させる動きの中で、それぞれの家臣を縁組させるものの一つに、おそらく木下、水野のものもあったのではないかと思います。
水野氏は当主の近習ですから、それは木下家にも生駒氏にも有利な話になったでしょう。
ここで、木下家は主権が近習の水野筑阿弥に移ることで、織田家の家臣化したと思われます。
そして手切のために返される信時に従って那古野に戻った家臣の中に、瀧氏、養父となった国吉などを引き連れた、木下昌盛(筑阿弥)もいたのではないかと思うのです。
天文18年(1549)、信時に伴い那古野城に移った嫡男秀吉は元服し、その後尾張守山城に仲さんや小一郎たちは移ったことでしょう。
秀吉が尾張に帰った後、とんずらしていた割には、スムーズに木下家の家督を相続し、中級クラスの武家、その後覚え目出たく、トントン拍子に出世していくことから、こうしたことが考えられる……ということです。
尾張水野氏庶流の近習である水野昌盛が、犬山で元甲賀中村氏の木下家の家業を継ぎ、那古野に来たという推測でした。
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