信長公の出自

(公開していたものを、10月27日に間違って下書きにしていました)


織田家が越前の織田剣神社の神官で、室町幕府の守護大名だった斯波氏の家臣をしていたと話は有名です。

斯波氏が尾張守も兼任することになり、越前斯波氏の分家が尾張へ向かうのに従って尾張へやってきたそうですね。

その時に、上司の朝倉氏が三盛木瓜の家紋から、木瓜をひとつ、織田家の家紋にしてねと餞別にして、この縁は末代まで……と言ったか言わなかったか……

まさか子孫がしてやられるなんて思いませんよね。

朝倉氏も。



信長公は平清盛の嫡男、重盛の次男で嫡男の資盛の子孫と名乗っていました。

愛読書は平家物語で、時々説教にも使ってたみたいなんで、よく読み込まれていたんでしょうね。

また平氏は源氏に比べて武将化粧が厚塗り派なので、化粧をよくされていたのも、そのせいですかね。


とにかく、あの源平合戦の時に、資盛の子供を身ごもっていた女性が近江は蒲生郡津田庄に身を寄せて、そこでそこの士豪の津田何某氏と結婚したそうです。

その後、その子供か或いはその息子か孫かが、どういう因果があったのかは定かではないですが、越前の剣神社の養子になった。

その養子になった方の名前は残っていて、織田三郎親真、またの名を忌部三郎親真。


資盛の息子だと、墓碑からすると百歳を越えちゃうので違うのではないか、と言われています。

ただ、息子、孫というなら分かりませんし、織田家の連枝衆が津田姓を名乗る理由もはっきりとするので、捨てがたい話です。


また織田の守護代の二家を凌ぐ威勢を目指していた織田弾正忠家の嫡男の通称が三郎だったところも面白い気がします(大和守は五郎)


とにかく、信長公は平氏を標榜していましたから、一応津田庄へ落ちた説を取っていたのでしょうね。


その織田家発祥の地になる津田庄は、安土城の近くにあります。


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