秀吉の父親1

(長くなり三部作になりました)


 ご存知のように、秀吉本人が素性を隠そうとしていることから、父親系の一級資料はありませんし、それに関係する人たちの様々な系図や、エピソードが散乱状態でどうにもなりません。


とりあえず現在に伝わるものを集約して、大まかに調べていきます。

こういう説もあるかもね?という感じでお願いします。


 まず、実父と言われている一人、木下弥助国吉を見てみましょう。


【尾張群書系図部集】【尾張雑記】には、「近江国浅井郡草野郷」出身で近江浅井氏傍流、比叡山還俗僧 中村弥助国吉であると書かれています。


この方は文明四年(1472)出家し「昌盛法師」と言われました。

丁度、応仁の乱の末期頃です。

そして延徳元年(1489)に還俗しました。


浅井氏傍流というのは、国吉の祖先が近江浅井氏祖である浅井重政の庶流だったことに端を発します。

浅井氏は織田家と同じように公家の落胤説がありますが、年代が合わず、残念ながら土豪が発展したと思われます。


その後、浅井家庶流の一家のうちの息子の一人が、佐々木源氏である木下高泰の婿養子となって木下姓を継いだと言われています。

この木下高泰の婿養子になったのが国吉なのか、国吉の父なのか、祖父なのかすら諸説あり明らかではありません。

とりあえず木下弥助国吉を名乗り、尾張で大政所仲さんを娶ったということですね。


なぜ還俗して尾張に来たかも、定かになっていません。


 まぁ、しかしどうですか?

秀吉の出生の年は、1537年が現在有力です。

国吉氏の出家が、最少年齢の卒乳する5歳だったとしても、1468年に生まれたことになり、秀吉が生まれた頃、既に数えで70の老爺です。


ある?


 彼は天文12年1月2日(1543,2,5)に亡くなり、戒名を「明雲院殿栄本虚儀」というと書いてあります。

最短で享年75歳の長生きですが、無い話ではありません。

しかし、見るべきポイントはそこではなく、弟の秀長、旭共々、彼らは秀吉と同父、同母兄弟ということになります。


秀長、1540年生、父72歳、数えで73歳。

旭、1543年生、父75歳、数えで76歳。


いやはやなんとも、御達者ですな!

しかも、これは最少年齢です。


 いやいや流石にそうではない。

『塩尻』を書いた江戸中期の武士、天野信景は否定します。


そうですよね、栄養事情のあまりよくない当時、老境に至っての子作りは過酷です。

【中興武家家系図】(宮内庁所蔵)によると、木下家に婿入りしたのは国吉で、その嫡男は長助吉高、吉高の嫡男は弥右衛門昌吉、それから昌吉の嫡男が秀吉としています。


分かります!

5歳で出家したなら、還俗したのはまだ22歳です。

何も65過ぎて結婚、子作りしなくても!


となると国吉の孫の木下昌吉が秀吉のお父さんで、昌吉が若くして亡くなったので、筑阿弥が還俗して入り婿になって、木下家を継いだということでしょうか。


しかし、それではまた、少しばかり分からなくなってきます。


戦国期では、旦那さんが亡くなった場合、お嫁さんがまだ出産可能な年齢なら、子供は置いて実家に戻すものです。

妊娠中ならば実家に戻って産み、子供が一定の年齢になった時に、夫の家に戻します。

家が途絶える場合は、子供は連れて帰られて、お母さんの再婚先の家の家来になります。


では仲さんは昌吉さんが亡くなった時に、出産可能な年齢を過ぎていたのでしょうか。


仲さんは永正13年生(1516)と伝わります。

長女の智さんを産んだのは天文3年(1534)でおおよそ18歳、数えで19の年になります。

そこから、秀吉は21歳(数22歳)、秀長24歳(数25)、旭27歳(数28)です。


秀長と旭が筑阿弥の子供なら、23歳あたりで寡婦になったことになります。

これは完全に実家に戻るパターンですね。


旭を産んだ後なら28歳ですし、どうでしょうか。

江戸時代であればそろそろ「お褥滑しとねすべり」※の歳になるので、婚家に残って家を維持するために再婚もあり得るかもしれませんね。


※お褥滑り

旦那様と事を致すのをやめること。

体力、免疫力の低下を考え、妊娠、出産を避ける為の慣習、制度。


ところが、正室が全ての男児を生みあげたとされる森家、前田家を見てわかる通り、戦国期の女性は、よほど公家系の貴種でない限り、武将の奥様も男性に混じって戦働きができるほど、また大名の奥様も馬に乗って走るほど、活動的で体が丈夫なせいか、そうしたお褥滑りの風習があったとは聞きません。


となると仲さんは実家に帰らず、なんでまた江戸時代のように、木下家にいて再婚しているのでしょう?


実家との折り合いが微妙だった?

それとも木下家は、余程家格が高い家だったのでしょうか。


 とりあえず、なかなか資料もないことですし、お父さんは置いておいて、養父と伝わる筑阿弥さんを見ていきましょう。


 阿弥というのは、時宗の僧侶が名乗る名前です。


彼らはその家の文化的側面を支える家臣の一団で、普段は小姓や祐筆と共に仕事をしました。

また秘書的な仕事をされてない方は、殿の御子息たちをはじめ、殿の城に家族で住んでいる家臣の息子たちの教育を担い、菩提寺を運営していれば葬儀などを執り行い、外向き活動としては宗派のネットワークを活かして、間者として他国に赴き情報収集。

戦さとなれば陣僧として、拙作「戦国時代の死生観」でも紹介いたしましたように家臣達の福利厚生、また敵陣への使者などを相勤めます。

滞陣となれば、唄を歌ったり、能を舞ったりして殿たちの無聊を慰めました。


つまり「筑阿弥」が自称でない限り、元の身分が余程宜しからぬか、問題行動をされていない限り、殿の近習である可能性が非常に高いということです。


では筑阿弥の実家は何処でしょうか。


【百家系図稿】を見ると「筑阿弥」は「水野氏支流 水野藤次郎為春の子」と書いてあります。

さらに為春の息子の筑阿弥氏は、昌盛という諱であると書かれています。


おや?


実父とも伝わる弥助国吉の「昌盛法師」と養父の「水野昌盛」。

面白い偶然ですね。

諱として受け継いだのでしょうか。


 尾張に関係する水野氏は、織田氏が台頭するまでは、尾張の覇権を争う有力な家でした。


 まず彼らは平氏長田氏の裔であるとされ、尾張の水野氏は、当時三流ありました。


最後の土岐氏嫡流の美濃守護土岐持益に仕えた水野頼政の裔、水野致正の系統。

彼の先祖は尾張山田荘水野郷を本貫とし、致正の時代に野尻に入ったとされています。


その傍流である水野貞守が知多の小河氏と婚姻関係を結び、文明7年(1475)頃に「清和源氏小河氏末裔」水野氏を名乗って緒川城を築いたとしています。

この緒川水野氏貞守の弟の流れが尾張に戻り、春日井に領します。


貞守と同じ系統で一族ですが、知多へ向かわず尾張に残った水野雅楽頭宗国の本貫は尾張、美濃あたり(川の氾濫によって境目が変わるので)で、仲さんのご実家のあたりにあり、応仁の乱の頃、尾張守山まで攻め込んで領土を広げました。


どの家も織田家の記録に残り、徳川時代に家を残しています。


一応平氏とお伝えしましたが、この水野家は上記の詐称のせいで源氏とも書かれています。しかし、本当のところは藤原氏であると思われ、藤原氏の系図も残っています。

これは家紋のところで、言及します。


 さてこの三流のうち、筑阿弥はどこにおられるのでしょうか。


【百家図稿】によると、緒川水野氏の祖貞守の弟、甚五右衛門為善の孫が藤次郎為春で、尾張春日井の狭間村を領しました。その息子の一人が筑阿弥こと昌盛であるとされています。

因みにご存知のように水野貞守の嫡流が水野信元であり、その妹が家康の母の於大の方になります。


ということで、公式に残っているものを踏襲すれば、名家水野家の傍流である近習の筑阿弥は、木下国吉が天文12年1月2日(1543,2,5)に亡くなると、木下家に嫁いで4人の子持ちの寡婦の仲さんと結婚し、婿養子になったと。

あるいは国吉氏の孫の昌吉氏が亡くなって、木下家に婿入りして、仲さんと夫婦になった後、国吉氏が亡くなったと。


 ところで当時の武家の縁組は、殿の管理下で、同じような、少なくとも隣接した家格で結ばれます。

家格差があった場合は、上の家格の家族、家臣たちが納得する、実績や客観的な理由が縁組先の家や本人にあるものです。


例えば、幕臣佐脇氏と前田氏の良之です。

この場合家格自体は圧倒的に、佐脇氏の方が上ですが、当時佐脇家は落ち延びてきていた立場であること。

そしてその先の主家の譜代の家柄で、しかも本人が当主の小姓であるという点で、辛うじて、佐脇氏が納得をする家格差だったのでしょう。


これは同じく幕臣岩室氏も、熱田加藤本家の恐らく嫡男(正室の三番目までの息子)ということで手を打ったと考えられます。


 ということは、木下氏(国吉、昌吉たち)、美濃関氏(仲)、水野氏(筑阿弥)は、似た家格同士であるか、家格差があったとしても納得できるものがあったということになります。


つまり近習である水野筑阿弥が、水野の名前を捨てて、木下になりなさいと言われて、元筑阿弥の昌盛のみならず、実家の方々が納得するだけのものが、木下家にあったはずです。


戦国当時では、身内が近習や殿の身の回りにいる上級侍女になると、実家にとっては何かと便利で有利になることでした。

実家の水野家が他に近習を出したのかもしれませんが、筑阿弥が還俗して結婚するのは、損失になるのは事実です。


その理由として足を怪我して戦働きができなくなり、と言う話もありますが、そもそも兵士ではなく僧ですから、例えば祐筆や先生役など職務はある訳で、わざわざ還俗する必要は有りません。


そもそも名家水野氏の人が、還俗して世間に喧伝されているほどの貧しい家の婿養子というのはどうでしょうか。


かくして尾張木下家極貧説には、疑問が積み重なることで御座いますなぁ。

ということで、1回目は終わります。

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