豊臣藤吉郎秀吉の出自

 初名「木下藤吉郎」後の天下人です。


彼も前半生が謎に包まれている人のうちの一人です。


彼は「農民」の出であるというのが定説ですが、違うのではないか、という話もありますよね。


 文書による初見は、永禄8年(1565)11月3日付の坪内利定宛の信長公の知行宛行状ちぎょうあてがいじょうの副状の発給です。


坪内家に伝わるこの文書は、信長公から坪内宗兵衛兼光(武功夜話では為定)、源太郎勝定、喜太郎利定連名宛てで、二通。

それぞれ、美濃に領地を宛てがう旨記したものです。


この前日に、秀吉の宛行状が発給されています。

それは秀吉から、六百二十二貫文の地を宛行ますよというもので、翌年8月23日には百石を宛てがう書状を発給したものが残っています。


秀吉が信長公の書状に添状を発給しているわけです。


大名が出す書状はあまり細かいことは書いておらず、その詳細を書き記し添えられるものを「副状、添状」と呼び、この添状がある事で「正式な書状である」と公式に認められます。


 大名書状の末文には「〇〇申し越すべき候也」、詳細は〇〇が書く書状を見ろと書かれています。

知行宛行状の場合は指南と呼ばれる重臣格の取次が副状を発給することが多く、坪内家に対しては秀吉が担当していることが知れます。

つまり、秀吉が同意をし、保証をしているということで、秀吉が坪内家にとって信用できる相手であり、保証をすることのできる立場にあることを示しています。


桶狭間から5年後、天下人への道を進む織田家で、秀吉はこうした保証ができる立場にいたということになります。


そしてこれより前、秀吉の軍功すらを書き記したものはありません。

突然彗星の如く現れたことになります。


 これ以前で言われているのが、遠江頭陀寺城主松下長則の元に出仕していたという話です。この松下長則は槍の名人で、今川家の槍指南をしていたと言われています。


 城といっても、寺町の中に建っている小さな、堀も一重にしか無かったのではと言われている館城でした。

同じく遠江の曳馬城主で今川氏の古くからの家臣である飯尾氏、当時の当主が飯尾善四郎連龍に組み込まれている、弱小大名です。

しかし、信長公下の生駒氏や加藤氏が交易で身代を肥やしていたように、松下氏も遺構からの出土を見ると商人国主であった可能性が指摘されています。


この嫡男が嘉兵衛之綱です。生年が1537年と言いますから、信長公の3つ下。まさに秀吉と同年代と言っても間違いない年頃です。


 桶狭間の戦いで義元が討死をすると、飯尾氏は永禄5年(1562)に徳川氏を通じ、徳川、織田家に誼を通じます。

(井伊家の伝では井伊家こそ曳馬城主で、飯尾氏は家老だったと書かれています。この頃、城主の直平を殺して、城主になったと書いてありますが、真偽は今ひとつわかりません)

今川氏と飯尾氏の争いが始まり、その中で、頭陀寺城は攻められ、永禄6年(1563)火をかけられて落城します。


松下氏は徳川氏の元へ逃げ込んで、暫く禄を食んでいましたが、長浜城主になった秀吉に召し出されます。

その後、秀吉が亡くなると、徳川家に舞い戻っています。


天正18年(1587)九州遠征の際、秀吉自身が発給した「松下嘉兵衛の事 先年 御牢人の時 御忠節の仁にて候」という朱印状が残っています。


これを考えると、確かに秀吉と松下之綱の間には確かな縁があったことが分かります。


 尾張一ノ宮は真清田神社と言いますが、ここの神主である佐分清治は信長公の叔母が母親で、正室が之綱の娘と言われています。

学者さんの中には、落城の際、この姫を秀吉が託されて、尾張真清田神社近くへ落とし、暫く匿った後、佐分家に嫁がせた。

という説を唱えておられる方もいます。


 この真清田神社ですが、【美濃國諸家系図】に拠ると美濃関氏が神官として出仕しています。

美濃関氏と言えば、秀吉の母親、仲が関氏娘です。


永禄6年、之綱は数えで27、満で26歳なので、元服前後にできた娘ならば考えられることではあります。


落城で之綱の娘を連れ尾張一宮へ逃げ落ちたとすれば、秀吉の初期からの仲間である前野氏、蜂須賀氏、または杉原氏といった尾張北部の面々との繋がりもわかるような気がします。


主君の娘を託すほどの一定の身分の者の出仕なら、織田家において2年で重臣まで出世するのもおかしく無く、前の軍功が記されてなくてもおかしくありません。



 また、秀吉といえば、「猿」と言われますが、主君信長公が「猿」と呼んだという明確な資料は存在しません。

秀吉の正室寧々に対して「ハゲネズミ」と称した手紙は残っています。


しかし、「猿」と記してある信長公の(祐筆に書かせた)書状は残されています。


 肥後は熊本、細川家に遺る【綿考輯録めんこうしゅうろく】というタイトルの「細川家記」と一般に呼ばれる家史があります。

ここに天正5年(1577)か6年(1578)3月15日付の信長公が細川家に宛てて出された書状があります。


「猿 帰候 夜前之様子具言上候  先以って 然るべく候 又 一□差し遣り候」

□に入る文字は、この文書の末文にある「徳若申し越すべく候」の徳若の若から「一若」であるとされています。


この書状は細川(長岡)氏以外、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀に対しても出してあります。


ここの「差し遣り」「申し越すべき候也」というのを現代語訳すると、「使者として一若を遣りますので、一若に質問したり、返事をしたりしてください。副状は徳若に書かせています(実際に書くのは祐筆の場合もある)」


文書の格によって、小者が伝令として相勤めます。

他家への文書では、副状発給は取次が行い、使者を立てたり、返信の場合は来た使者に託したり、出す方向に行く人がいればその人についでにお願いしたりします。

届ける人は、交渉をされることもあるので、頭の回転が早く、弁舌爽やかな僧侶や大名のことを理解している小者が選ばれることが多いようです。


一若は信長公の側近くに侍り、小人頭を務めたと伝わっています。

この後、一若は信長公に気に入られ続け、天正9年(1581)天覧馬揃えで8番目の行列の奉行を務めるまでになっています。


 さて、この時期、秀吉は一軍を率いて播磨攻略の真っ最中です。


その一軍の将を「猿」呼ばわりするか。

そして信長公の場合、殆どの書状が祐筆が書いていますから、その祐筆が他の小者と並べて「猿」と書くか。


信長公は、非常に自己コントロールの出来る頭の良い大名です。


有能で有用な秀吉が、他の武将に出す正式な書状に「猿」と書かれて、面目を潰されたと怒って転仕するような危険を犯すか、非常に微妙だと思います。



【太閤素性記】に、この一若は尾張中村の出身であると書かれています。そしてその縁を辿って、同郷の「猿」が信長公に出仕したと書かれています。


この書は徳川家忠に仕えた土屋知貞によって書かれています。

また、仲の方であげました「祖父物語」も徳川政権下で書かれたもので、「猿」=秀吉として出自について一定の情報操作を行おうとしたものと見られています。




最後に秀吉と将軍の関わりを書きたいと思います。


永禄11年(1568)9月 足利義昭は信長公に推戴され、上洛しました。

その直後、将軍義昭は、数多いる織田家臣の中から秀吉を指名して、京へ置くように信長公に言ってきます。

この願いを受けて、秀吉は京都奉行になっています。

この時代に秀吉は幕府、更には禁裏との仲を深めます。


禁裏の中でも実力者である覚音女王が、山科卿を呼びつけて秀吉に伝言をさせたり、秀吉を呼んで自ら酒を振るまったり可愛がっている様子が当時の公卿の日記から分かります。



本当に卑賤の出であれば考えられない事です。


また近衛前久と仲が悪く、信長公の威を借りて、前久を追い落とした義昭でしたが、信長公に見捨てられると、今度は義昭が京から追放されます。


すると、義昭とのつながりを断ち切るように、その姓を捨て去り「羽柴」と改名します。


後に一般には義昭から猶子になるのを断られたと言いますが、実は秀吉の方が断ったという説もあり、前久たちが先手を打って将軍職よりも上の関白職を内示したともあります。


また初期の秀吉の紋は家康の母の実家、水野家と同じ「沢瀉紋」で、通称、藤吉郎の「藤」も、水野家と同じ「藤原氏」系の嫡男がよく付けている文字です。


決定的な証拠はない秀吉の謎に満ちた出自は、いつか解明されるのでしょうか。












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