戦さ場に参る殿と近習たち

 さて今回は、いかめしくかつ神々しく、勇んでご出陣なされた殿の道中でのお姿を拝見して参りましょう。


さても、さても戦というのは、わりと初夏と冬場に起こりやすいものでございます。


そのうち初夏と申しますと、夏に近く暑い季節になり、となれば、殿の颯爽たる出で立ち、残念ながら重いし、ちと暑いということになります。


いくら月代を作ったとて、遮るもののない晴れた初夏の田舎道をポクポク参れば、直射日光が兜を直撃し、空気穴があるとても兜の中は気温と湿度で、不快指数が上昇間違いなしです。


その上に顔には頬当てという、マスク状の鉄の仮面が目から下を覆っています。

その下の喉の部分は、喉輪と申します鉄製のネックウォーマーがはまっています。

胴体部分には、ベストの重装版の鎧が重々しく身を守り、腕には腕で肩から指先までみっしりとアームカバーがつき、腰にはデラックスなスカートの草摺りが二重にかかり、足は足で……


なんとも想像するだに恐ろしい。

戦さ場に着く前に、熱中症で倒れそう。


しかも呪術的なことが常識な戦国時代では「敵の呪いにしてやられた!」と不吉なことになり、鳴弦の儀が執り行われ、焼いたヒキガエルと唾を入れた変な水を飲まされ、砂を撒かれるやもしれません。

そうなっては殿はお腹まで下し、更に士気が更に低下して、不戦敗になってしまい、家運が危うくなってしまいます。


 ということで、まあ、その時の気温と戦さ場までの距離もあるでしょうが、暑い日であれば、殿はおもむろに兜を脱いでいたそうです。

そして戦さ場が近くなると、兜を被り直したそうです。


更に鎌倉、室町初期には、兜のみならず鎧まで脱いだそうです。

お城で着た時に、鎧を固定する紐を切って、不惜身命を神に誓った筈なんですけど……

まぁ戦う前に倒れるよりは、ねぇ?

その頃には殿の脱いだ鎧を預かる専属の武者がおられたと言います。

その頃の鎧兜は、戦国時代に比べると更に重装備ですから、日頃から鍛えた殿でもやはり、ちょっと……


まぁ戦国時代になると、鎧は当世具足で軽くなりましたので、脱いだ殿もおられれば、脱がなかった殿もおられたかもしれません。

しかし、まぁ、高温湿潤な日本の気候と鎧兜の関係は、あまり相性が良いとはいえません。


この道中武装解除の下支えをしたのが、基本的に現地に着いて、戦を始めるよ!とお互い認識するまでは、開戦しないという礼儀正しい不文律のお陰というものがあるでしょう。

勿論奇襲という戦術もありますし、一旦開戦してしまえば、不意打ちというものもありはしますが、それでも武士たちは基本的に天道思想に則って、卑怯なことを忌みきらい、礼儀正しいもので御座います。


 さて、さてそれでは、殿の道中を見てみましょう。


 まずは隊列の中央におられるのが御殿おんとのにあらせられます。

その殿(あるいは大将)の周りには騎馬兵が従っています。現代的には親衛隊で、「旗本」、「馬廻」、古式床しくは「馬打」と呼んだそうです。この「馬打」の中でも、殿の前を進むのが「先陣」、後ろを行くのが「後陣」と呼ばれます。

この「先陣」では、殿の側になる後ろの方にいる騎馬兵が上位者になり、その中でも左側(左打)が一番立場の重い人(上手)になります。次いで右打の下手。前に行くほど立場が軽いものになります。

「後陣」でも、殿に近い前方が上手で、後に行くに従い下手。こちらも一番身分が高いのが殿の左手にいる人物で、次が右側となります。


総大将の御殿はもちろんですが、この「馬打」たちにも歩兵や従者たちが付き従っています。

これも見ていきましょう。(『随兵之次第事』)


 まず騎馬兵の前には、二列になった4人の従者がおられます。

最前列の左手にいるのが「兜持」です。正面を向けた兜の中に左手を入れ、右手で軽く支えた後に緒を抱えています。その右手にいるのが、皮敷物をもった従者です。彼は「敷皮持」と呼ばれ、獣の皮を四つに畳んで両手で持って運んでいます。この皮敷物は、長さが三尺(約91㎝)幅二尺(約61㎝)で、麻の白布で裏を打ち、菖蒲革( 小文こもんの藍革の一種。地を藍で染め、草花の文様をところどころに白くおいた鹿の皮)の縁をつけたもので、古来将軍家は虎、豹を使い、その他は鹿皮を使っていましたが、幕府の力の衰退とともに、虎を好んで使う大名が増えてきました。馬打クラスでは、熊や鹿などが多かったようです。この敷皮は歩兵クラスでも持っており、彼らはお尻の辺りに紐で結びつけており、そのまま座っていたそうで、これを「引敷ひきしき」と呼んだそうです。


二列目には兜持ちの後ろに、弓を持った従者が進んでいます。弓は白い布袋に入れて右手で持っておられます。その隣が太刀持ちで右手で鞘を取って、肩に担いで持っています。

騎馬兵の後ろには槍持ち2人、鉄砲持ち、布袋と竿を持つ旗指、鎧櫃持ち、小荷駄、替え馬を曳いた者、それから遠距離になる場合は食糧などを持つ者が従うこともあったそうです。

主人の武器を持った従者の順番は、家や殿、また時代によって変わっていったものと思われます。

しかし、御殿の周りだけではなく、騎馬兵の周りにこれだけウロウロ人がいるのは結構な大所帯で、更にここに馬の口取りとお付きの小姓と従者の兵が身分によって数人つくわけで、非常にゾロゾロ感が否めません。


さてこうして、ゾロゾロと行きまして、戦さ場が近づいてきますと、御殿はおもむろに馬を止めさせます。

御殿や馬打の殿が止まると、兜持ちが進み出て、恭しく左手に兜を持ち、右手で緒を持って殿の右側から差し出します。

殿は兜を受け取ると、ヨイショと頭に被って、緒を締めます。


それを見たそれぞれの旗指たちは、先ほどから持っていた布袋から旗を取り出して、竿にくくりつけて、左手で捧げ持ちます。

これは個人的には意外で、旗やら馬印はたなびかせて城から出て行ったとばかり思っていました。そのほうが格好いいですしね。

まぁそりゃあ、領地内の小競り合いはまた違うのでしょうけど、道中が長くなると、風に煽られたり、難所でもたついたり、木の枝にひっかかったりで地に落ちては不吉かぎり無しですから、当時的にはその方が合理的ですね。


しかし旗指の辛いところは、なんと一度立てた旗は左手一本で支えてはいけないところです。強風の時にも、足で挟むなりして耐え忍びます。

まぁ、戦国時代も深まって旗が大きくなり、馬印も巨大化していくと、流石に1人ではなく、複数人で持つようになりますが、やはり右手は、いざという時の為に、空けておいたのでしょうか?

とりあえず、これでどこの誰か、はっきりとして、「確かにこれから戦をする相手だなぁ」と、相手の方が人間違いする危険がなくなりましたね。


馬印の作り物(物の形をかたどった物、千成瓢箪や纏)は物によっては、そのまんま持って行ったのかもしれませんが、強風の時のことを考えると、やはり組み立て式だったかもしれないですね。


もちろん、家や時と場合によるのでしょうが、案外戦さ場に着くまではのんびりとした感じがいたしますし、見た目重視のドラマや小説とは違い、当時は戦というのが生活の一部だったのだなという気持ちになりますね。






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