本能寺の変

本能寺の変、光秀を考える(領地編)

本能寺の変で御座います。

怨恨説の一つに、信長公に居城坂本城とその領地を召し上げられ、その代わりに敵陣である出雲、石見の地をやると言われて困ったと言う説があります。


例があります。


本能寺の変の時点で、秀吉の家族の住んでいたのは長浜城です。

ここは浅井攻めで軍功著しかった秀吉が信長公より賜り、信長公の「長」の字を頂き改名し城を築きました。

ここで初めて一国一城の主になった秀吉の思いいれたっぷりの土地です。

実は、ここは本能寺の変の前年、天正九年九月(1581)、既に、信長公寵愛の側近、堀久太郎秀政の物になっています。


と言っても実は秀吉の領地は、堀秀政の物になるよりも前に長浜ではなくて、播磨になって居ます。


秀吉の播磨拝領は随分前から構想としてあったようで、永禄十三年頃(1571)から毛利家との交渉役(取次)の一人に任命され、天正五年(1577)には播磨に入国しています。

天正八年四月(1578)に居城を姫路城とし、色々手を入れています。

でもまだまだ家族は、長浜城に居ます。


いつ城を明け渡すのでしょうね。


本能寺の変のちょっと前あたりに、長浜周辺の商人へのあれこれをマメに承認したりしているところをみると、まだまだまだ収益も秀吉の物のようです。


もし本能寺の変が起きなかったら、秀吉はいつまで長浜城を占拠しておくつもりだったのでしょうか?

本能寺の変までで、約5年。

他の人の物になって早9ヶ月。


堀久太郎かわいそう。


私が久太郎でしたら、「そろそろどうでしょう?」とお願いしてしまいそうです。



それは他の将も同じで、追放でもなければ、いきなり放り出されるようなことはされていません。



元々褒賞の形態は「その戦場で一番軍功の著しかった者がその地を貰うという結果主義」という形でした。


 光秀も悪名高い「比叡山焼き討ち」で一番の軍功を立てて、比叡山の付け城のごとく、坂本の地に「安土城に継ぐ」と言われるほど、壮麗な城を建てています。

信長公の比叡山焼き討ちの残虐さに心を痛める説が絶賛崩壊……ですね。


一応、信長公は神社の神主さんたちに事の是非を何度か相談して、かなり悩んだ末に焼き討ちをしています。

しかも、比叡山は山の上で修行にはもってこいですが、住むには適していなかったので、山麓の町に妻帯をしないはずの僧侶の皆さんは妻子を住まわせて共住みをしていたそうですね。


比叡山焼き討ちではなくて、坂本焼き討ち……


それが、柴田勝家の越前拝領の辺りから、そこの領地ねと言われた人が責任者になって、加勢を受けながら平定していく形になって居ます。


光秀ともあろうものが、自分だけはこの坂本にずっと居られると思ったのでしょうか?


自分だけが、お膳立てされた土地に入れると思ったのでしょうか。


だもので、少なくとも「領地の件で理不尽説」はどうでしょう?


という話でした。







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