桶狭間 今川義元軍の人数の考察②
さて次に、軍構成を見ていきます。
北条氏の軍構成を中心に研究され、当時の軍隊の研究家の第一人者である新垣恒明氏は『戦場における傭兵』の中で、部隊を
「Ⅰ、給人クラス、Ⅱ、奉公人クラス、Ⅲ、陣夫百姓クラス」
の三つにわけています。
給人クラスは大名から直接給金、領地をもらっている、つまり知行を宛てがわれている家臣で、鎧兜を
例として池田家を出してみましょう。
Iに当てはまるのが、池田家当主勝三郎恒興ということになります。
Ⅱは、いわゆる
また恒興自身の小姓、馬廻、足軽、小者もここに入り、その中で小姓、馬廻が「武家」になり、足軽が雑兵、小者がそれ以外の「下人」になります。
与力から池田恒興の宿老になった傅役森寺藤左衛門秀勝という方がおられますが、与力時代は1になり、恒興の家臣になった後は、織田家から見るとIIの騎乗の股者になります。
Ⅲは「村々から徴発された百姓が中心で、」「兵粮など必要物資を戦場付近まで運搬する作業に従事した。」と書かれています。
「雑兵たちの戦場」(藤本久志著)によると、Ⅱのうち、倅者、若党、足軽は「侍」で戦うことを許された戦闘員であるとしています。
Ⅱの小者、中間、
とはいうものの、稲生の戦いで彼らも戦に参加し、首級を上げていることが書かれていますので、「侍」ではありませんが、準戦闘員であることがわかります。
では、IIはどれほどいたのでしょうか。
室町後期では「百貫一騎」と言われ、北条氏では「五十貫一騎」、明智光秀の「明智軍法」では百石で6人を基本とし、細かく規定を出しています。
騎馬兵が一人いると、少なくとも旗持1、鉄砲持1、槍持2、口取1がつきます。そこに替え馬、替え馬の口取、具足持ちなどが別枠で必要になります。
しかし、これだけでは全容を私程度では推測するのが難しいので、専門家の分析による軍構成を見てみます。
『図解日本戦陣作法辞典』によりますと、一万石の動員数は二百三十五人で、その内訳は
「騎乗侍十、徒歩侍十六、十騎の口取り十、若党十、槍持十、具足持十、手替五、小者六、数弓十、手替三、鉄砲二十、手替五、槍持三十、手替十二、旗差九、宰領一、立弓二、手筒二、手替一、長刀二、甲冑櫃持四、雨具持二、草履取一、馬の口付六、沓箱持三、手替一、押足軽六、挟箱持二、玉薬箱持二」「主人直属の供は二十八人で総員の約十二分の一」で、「騎士、数弓、鉄砲、槍、徒歩侍など戦闘員は主人を合わせて百六人で総員の約二分の一に満たない」としてあります。
この内訳を見ますと、十人の騎乗侍(給人)に対する従者であることがわかります。
彼ら、主人直属の供は「戦闘協力員」と位置づけており、合わせて百三十四人が戦闘員と戦闘協力員、残りが足軽だったり、あらしこだったことになります。
またこれ以外にも、主人の給人たちが自腹を切って連れて行く独自の「主人直属」ではない「供」、つまり中間や小者も「数の限りでは無く含まれていた」そうです。
難しいですね。
そして
「この他に、こうした一部隊となると小荷駄備えの戦闘員や、医師(内科、外科)、書役、勘定方、大工、金堀(工事人夫)を入れると、徴発した陣夫を含めて、三百人は必要である。陣夫、夫丸は領内の農民や、行軍中に人取して集めた者たちであるから軍役規定外の人数であり、浪人の御陣場借りを含めるとかなりの人数になる」。
というわけで、この二百三十五人の中には、Ⅰ、Ⅱが含まれ、Ⅲは含まれないということになります
それではⅢの数はどれくらいだったのでしょうか。
徳川の統治下の三河では、百石で一人の陣夫を供出することになっていました。
ということは、今川家が1600年頃にあれば、百万石で人口65万人。
そのうち23500人のⅠ、Ⅱ。及び10000人のⅢの陣夫。合計33500人を出したことになります。
これの3分の2程度であれば、戦闘員、準戦闘員15700人と陣夫6700人で、22400人ほどが今川軍の人数になり、5分の3ならば、14100人と6000人で合計20100人となります。
先程の計算から、今川家の武家はおおよそ4万人前後でしたから、武家ではない方を含む(1とII)15000人前後の動員というのは許容範囲ということになります。
また人口は40万程度で、そのうちの21から60歳の兵役で駆り出された男性が6700から6000人を含む2万人前後(1、II、Ⅲ)の動員も許容範囲と思われます。
では、太田牛一の「四万五千の大軍」というのは、兵役該当者が6万ですから、ちょっとどうなのかなという気がします。
では、やはりこれは盛りすぎなのでしょうか。
ところで、この桶狭間の場合、ただの遠征では無く「大高城への補給」という命題がある以上、Ⅲが更に増えていたことになります。
一説によりますと、家康隊は2500人ほどであったと言います。この2500の内訳はわからないのですが、ただでさえ足が遅く、狙われる荷駄隊の上に、数ヶ月分の兵粮を運んでいる訳ですから、かなりの人数の護衛と運搬人を必要としたのはたしかでしょう。
そしてその上、この永禄3年という年は、実に大変な年だったと申し上げました。
戦国時代における飢饉と戦争の関係を、藤本久志氏が詳しく研究をされ、『雑兵たちの戦場』に1450年から1590年までの災害のデータベースを載せておられます。
それによると、この永禄3年、つまり1560年は、越後「水損不作(水害による不作)」甲斐「旱魃、長雨、三年病流行」
更に前三年でも、1557年は「天下旱魃、近年無双の大飢饉」1558年「天下大旱魃、餓死」1559年「大旱(京)、長雨、二年荒亡(越)大洪水、三年病流行(甲斐)」と目白押しです。
江畑栄郷氏『桶狭間』でも、「今川領国においても例外ではなく」と『静岡県史、通史編』の記載をあげ、「近年、ひどい水損ゆえ不作」と、苦しい状況を書いておられます。
また藤本氏は、その著作の中で田村憲美氏が過去帳を分析し、中世の人々の死には、はっきりとした季節性があることを突き止めたことを記しています。
それが平作の年でも「早春から初夏にかけて死亡者が集中し、初秋から冬にかけて低落する」というパターンです。
特に関東では、毎年、端境期であるその時期には、食糧が底をついていたという現実があり、以上のことからこの永禄3年の「早春から初夏にかけて」という桶狭間の時期は、飢饉や流行病で、関東の国々は国難のピークを迎えた時期だったのです。
この永禄3年は上杉謙信が、初めて関東侵攻した年です。
謙信は「転がり込んだ関東管領の大看板を掲げて戦争を正当化し、越後の人々を率いて、雪の国境を越えた。」(藤本久志氏 前掲書)
勿論、戦に勝って乱取りをする為です。
飢えた民にとっては、戦さは食料確保の絶好の機会だったのです。
また荒れた農地や貧しい家を放り出し、他の国へと流れて行く牢人、一僕の人も居ました。彼らは、戦さ場で走り回り、戦功を挙げ出世を狙い、戦さと聞けば、馳せ参じました。
そして、しばらく食いつなぐ為に、やはり乱取りに参加をしました。
ということで、この時の今川の軍隊というのは、大高城補給隊と飢えた人々や一僕の方々によって、Ⅲの人達が普段より多く、また行く先々で膨れ上がった可能性が非常に強く、更に大大名の行軍ならば、勝ち馬に乗る状況ですから、想像をはるかに越えた人々が今川正規軍とともに桶狭間に存在していたはずです。
ですから、太田牛一の「四万五千の大軍」というのは、確かに戦闘員、あるいは正規の今川軍は2万前後+補給隊で、盛っているかもしれませんが、兵以外の尾張を犯そうとする庶民を含んだ集団という意味では、あながち誇張とは言い切れないところがあったのではないかと思います。
またこの四万五千にも見える大人数の集団であったことこそが、打倒義元の信長公の作戦の肝であったのではないかと考えられますので、尾張側の太田牛一からすれば、嘘偽りなく『信長公記』に明記するべく「四万五千の大軍」だったのだということになります。
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