本能寺の変を考える。犯人はだれか①
いきなり結論ですが、私は、光秀がやったと思っています。
光秀は、非常に頭の良く、織田家きっての切れ者でした。
しかも戦も上手ですし、調略もできます。
天下人の側近として朝廷とお付き合いをするのにも、ソツがありません。
ワンマンな信長公が唯一策を献じることを許していたと言いますから、余程だったのだと思います。
こうした人が日々ボーッとして生活している筈がありません。
あ〜したら、こうなってと、人の3歩も4歩も先を読む習慣がない訳がありません。
なので、その中で本気でするつもりは無いんだけれど、もし信長公をやるとしたら、どういう手があるかというのは、散々シュミレーションしているとしてもおかしくありません。
趣味でね。
信長公は小牧築城辺りから、自分の居住空間から人を遠ざける傾向が有りました。
安土城に至っては、家族も奥御殿に住まわせ、自分は天主に住んで居ます。
その天主では、自分の居室空間、3階から有名な六角形の5階は基本的に立ち入り禁止にして、自分の手足である小姓と自分だけの空間になって居たようです。
3階の茶室には色々人を招待して居ますが、それ以上には宿老筆頭の林と僅かな者にしか、見学にすら上がらせていません。
それも政治的な匂いがする駆け引きとしての招待です。
そうした信長公が、非戦闘時の宿泊施設で、馬廻を外に配して、小姓や小者、献上される添臥の女、侍女など僅かな手勢で泊まることはあったでしょう。また本能寺は京滞在中の決まった宿で有ったようですね。
そうしたら、こう……そう考えていたよりも尚、ほとんどの武将が側にいないと言う好条件が揃っていて、智謀の将としてはついつい手を出したら、予想を上回る首尾になってしまった。
そうじゃないのかな、と思います。
本当にやる気が前々からあったのなら、調略の上手い光秀ですから、もう少し細川氏や他の大名に手を打っていそうなものです。
あの後のグダグダ感はそうとしか言いようが有りません。
どこかで、上手くいくはずない。
どこかで破綻するはず。
この唆される衝動というのは、味わった事がない方というのは少ないのではないでしょうか、
信忠の本陣を、本能寺と同時に攻めなかったのも、そうだとすれば私としては納得がいきます。
当時の織田家の当主である信忠は、光秀が戦勝祈願の連歌会「愛宕百選」をしている丁度その時、その場所へ、武田攻めのお礼参りをして居ます。
当主としては、戦勝祈願に顔を出さない筈がないでしょう。
面白いですよね。
「時は今ぁ〜」
私が天下を取るぞよ〜
「二本手に入るぅ〜」
せや、せや、あんたが天下人やでぇ〜
ってやっている最中に、殺す予定の人の嫡男が
「やってる?」
って顔を出すわけです。
信忠公は織田家の当主ですから、単騎で行動致しません。
当主は自宅のトイレに行くのにも、小姓達が当主の刀を捧げ持ち、四方八方に警戒の目を投げかけながら、ノシノシとついてきます。
腹を下して走っていく時には、彼らも走っていくんでしょうかね。
勿論、用を足している時にはトイレの前で待機しています。
落ち着けませんが、そこはそれ、慣れというものでしょう。
外出先の室内でも、刀持ちの小姓とそれ以外の小姓に、今で言うスマホの役目の御伽衆、AlexaかSiriのような物知りの右筆、護衛の馬廻りがついています。
天下を統べる信長公を擁する織田家の現当主です。
小姓、馬廻りの近習、それに付随する小者達で、どんなに少なく見積もっても300人は下らない人数にはなって居たと思います。
そんな人達がゾロゾロ、広いとはいえ、愛宕神社にやってきます。
計画をしていたなら、むしろここで「あかん。信長公に言われる」って決意したんでしょうか?
ここから、信忠は家康とともに堺に行く予定を、信長公と話しがしたいということで、予定をキャンセルしています。
何の話があったんでしょうか。
そして光秀はいつこの予定変更を知ったのでしょう?
愛宕百選が終わった日は大雨で、光秀は山を降りれなかったのではないかという話もあります。
光秀、出兵に遅れる説ですね。
これは良い題材だなあと思います。
光秀は兎も角、文化人の方々は降りれなかったんじゃないか。
それを放って光秀は帰れるのかということを論じている方もおられますが、こっちはそりゃあ、置いて降りただろうと思います。
家臣を付けておけば良い話です。
出兵の準備をしているわけですから。
そして六月二日、太陽が昇った後、呆然と平服で本能寺の戦の跡地に立ち尽くす光秀の姿が、公卿の日記に記されてるという話があります。
どれか分からないのですが。
出兵に遅れた説に使える良い話ですね。
自分の仕出かした結果に驚愕し、遺体が見当たらないと言う予想外の事態に天命を感じたのでしょうか?
それとも、愛宕神社から降りてきたら、偉いことになってた!と驚いていたのでしょうか?
光秀じゃないかと言っていながら、違うこと言っていますね。
でもまぁ、もし、ここを使って小説を書こうかという方がおられたら、ということで書いておきます。
現在ドラマや絵で見る鎧兜姿とは違い、当時は頬当て、喉輪を付けますので、体格が似ている人が身代わりになることは可能だったと思います。
それから、この天正十年六月二日前後の公卿たちの日記は非常に不自然で検閲が入って、場合によって改竄されているという話があります。
『御湯殿上日記』(宮中女官の日記)
天正十(1582)年四月から七月までが欠けています。
『兼見卿記』(吉田兼見の日記)
兼見は京都の吉田神社の神官で、公家の末席にいる方です。
日記は、天正十年の日記が二冊もあり、しかも本能寺の変の記事は当たり障りのないことしか書かれていません。
『日々記』(観修寺晴豊の日記)
六月二日早朝に袖岡越中に叩き起こされて、明智光秀の手勢が本能寺を取り囲み、侵入し、信長が横死したことを聞いたと書いてあるのみです。
『日本史』(宣教師ルイス・フロイスの本国宛のレポートを纏めたもの)
南蛮寺と本能寺とは近く、六月二日未明、大爆音が聞こえ、十数人の修道士たちは外に出て、本能寺の方を見ると、多数の兵が寺を取り囲んでいたそうです。しかし、旗は伏せられており、何者の軍ともわからなかったと書かれています。
それ以外では、当時ほうき星が到来したり、天変が多発しており、それを信長の死と関連して書いています。
また愛宕神社へ信忠がお礼参りにいって多額の布施をしたことが憎々しげに書かれています(悪魔に布施をした。だから死んだんだ!みたいな)
「雪辱を果たした」というのを「雪で体を擦った」(愛宕神社のお礼参りの信忠の行動)と記すなど、伝聞録的な部分が多く、様々な家中に信者をつくり、そこから情報を取っていたことがよく分かります。
『信長公記』(信長公馬廻太田牛一・あまり身分は高くない。伝聞録)
書かれたのは秀吉の時代の後半で、本能寺の変については、光秀の謀反とのみ書かれています。
『大かうさまくんきのうち』
秀吉の時代に書かれた秀吉の軍記です。執筆者は上記、『信長公記』と同じく太田牛一です。
やはり、本能寺の変の実行犯は明智光秀と書かれているのみで、詳細は不明です。
『武功夜話』
江戸前期、前野将右衛門縁者執筆の『武功夜話』は記述はありません。
『川角太閤記』
江戸初期、宮部継潤や豊臣秀次、家康、秀忠に仕えた田中氏の家臣川角氏が関係者に聞いて纏めた伝聞録です。
光秀が犯人であるということが書かれています。
光秀の生存説は数多く残っています。
有名な家康の元へ逃げ込んだ説。
岐阜県に落ちた説。
あの比叡山には大阪合戦後に光秀が奉納したという石灯籠が遺されています。
私は、光秀も嫌いじゃないです。
光秀は、信長公を支えられる貴重な人材だったと思います。
本当に残念ですね。
ちなみに山崎合戦の後、秀吉の元に届けられた光秀の四つの首級全て、生皮を剥がしてあったそうですよ。
光秀はどこへ消えたのでしょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます