戦国時代の城の区分とその前史

 皆様は「戦国時代の城」と言った時に、どういった物をイメージするでしょうか。

私は、現在残っているような殿の本城部分か、最大でも家臣たちの武家屋敷が連なる辺りまでの物を薄ぼんやりとイメージしていました。


これは城の総面積が、方十六町強以内の小さな城の風景だそうです。


面積としての一町はおおよそ1ヘクタール強なので、約17ヘクタールほどの広さになります。

これは東京ドームが3.6個分。または、イオンモール幕張新都心の敷地面積が大体これくらいになるそうです。

お近くのかたは脳内で、「ここが外堀で」と縄張りを考えつつ歩くのも良いですね♡


しかし、この広さで「小城」と言われると戸惑いを感じます。

当時の城の大きさが偲ばれます。


戦に備えて作られた城や砦は、基本的にこの「小城」に入ります。

戦の為の砦は、家臣の大きな屋敷地や寺社、町屋はありませんものね。例えば、ある戦に向けて築かれた砦のうちには、騎馬武者が百人も入れない大きさのものもあったと言います。

年単位の長期戦というのか、常に相争っている敵に向けて築く砦城は、家臣団の入る屋敷も作り、QOLを考えられていたでしょう。

場合によっては殿の居城を支える、支城がこのクラスであることがあります。


小さな城は、大きな城に比べて防衛力が劣るかと言えばそうではなく、虎口や土塁に細かい工夫が凝らされおり、例えば、土塁の上に壁のある半円形のバルコニーのような物を沢山並べて設けました。このバルコニーの壁には、銃眼が設けられていたと言います。

敵が攻めてくれば、ここから一斉射撃が出来ます。

こうした工夫は、東国の方が進んでいたそうです。


 これより大きな城は、総構え、城郭都市になります。


本城(主郭、二廓など)と武家屋敷の城郭、寺社仏閣町、町家や店の城下町。

これらを堀と土塁あるいは石垣などで囲んだ物を、「総構」と呼びます。


総構は、総面積が方十七町十間(外堀を入れない大きさ)約18ヘクタール程度以上の城が構えるものだそうです。これを「中城」と呼びます。

実際にはこれに外郭を設けますから、もう少し大きく25〜7ヘクタール程度になるようです。


戦国時代の平均的な城はおおよそ、イオンレイクタウン規模が最小という感じですか。

イオンレイクタウンが分からないので、西国民には大きさが今ひとつ掴めませんな。


更にこれが方二十二町四十間以上の城は「大城」と呼ばれ、外廓を設けて、方二十二町四十間程度の城であれば、方三十六町ほどの広さを持つ城郭都市になるそうです。


36ヘクタールというと、ほぼ江ノ島くらいになるようです。ネットで大きさを検索しただけなので、今ひとつ分かりませんが……


北条氏の本城、小田原城は大変な巨城で方五十町以上あったそうです。

おおよそTDLくらいでしょうか?

バチカン市国もすっぽり入って余るほど、大変な大きさです。


いやいや、鎌倉幕府の執権殿に相応しい、錚々たる巨城で、見る人に威圧感を与えていたのではないでしょうか(脂汗


当時はさほど高い建物も、大きな建造物もありませんでしたから、北条氏の威勢を強く感じさせたことでしょう。


因みに比叡山延暦寺は、山ってこともありますが、500ヘクタールだそうで、すごいですね。高い、高い山ですけど。

夜遅くに眺めると、延暦寺(推定)の灯りがお星様のように空高くに光ってて、大変寂しげです。



 また総構の内、人工的に掘ったお堀で囲むのが「総堀」、自然の川を活かして囲ったものを「総河」と言います。

そして、その大手門(表門)を「総門」と呼ぶそうです。


 総門の中に入ると城下町が広がり、道沿いには町屋が並び、塩屋、古着屋から武具屋など日用品を売っている店があります。更には市場が設置されて、決まった日に「市」が立ちました。あの内助の功で有名な山内一豊が名馬を購入したのも、この城下の市だと言われています。

各国から連雀商人が集まり、薬や蚊帳などが売られていました。


足軽たちの住む足軽長屋、中級武家の住む屋敷、上級武士たちの住む堀を伴った屋敷町、本城が近くなると、どんどんと厳しい建物が増えてきます。

寺社仏閣は、あちこちに点在しつつ、主人の菩提寺は城の近くにあります。


 さて、こうした城は「四神相応」で建てられていたというのは有名ですね。

これは武将たちが習う、中国の古典『礼記』に記された、政治、経済、宗教を統一した都(城)の選地原理です。

またこれは、城自体だけではなく、城の主郭にある殿の屋敷自体も(出来る限り)四神相応で造られていたそうです。



 城や城壁、城下町には戦国の世に至るまで、成り立ちに歴史があります。ざっと見ていきます。


 帝都に初めて四神相応が使われたのは、『日本書紀』によると、例の大化改新の難波宮(大化元年(645))であるとされています。

難波宮は碁盤の目のような「条坊」と周囲に巡らせた城壁「羅城」で出来ており、それらは大津、飛鳥、藤原、それから平城京へと受け継がれていきます。


延暦13年(793)中国陰陽学に照らし合わせ、天然の要塞を持つ山背国が、都に制定されました。

これにより、外郭である羅城が取り払われ、羅城門だけが残り、内郭である大内裏を囲う土塀だけがあり、更に羅城門から朱雀門までどどん!と、まっ直線という防備力に不安の残るつくりになっています。


建設当時の帝の威信の凄さが、感じられます。


それは明治を迎え、帝が「ちょっと行ってくるね」と、東国にお出かけなされるまで、連綿と続く日本の御座所の完成でした。


 元々「」とは、国(領土)を護り、民を肥す為に築かれたものですが、それが強く「軍備」として意識されて造られるようになったのは、天智帝の時代になります。


 大津に都を築いた天智帝は、白村江の戦いの大敗(663)を受けて、『日本書紀』天智帝10年(671)正月の条によると、百済より迎え入れた「兵法」の名人4人、「陰陽」1人に叙位します。

彼らは兵法により、筑前に城郭施設「太宰府」並びに水城などの築城の指導を行い、彼らの積んだ石垣は「百間石垣」と呼ばれるほど、壮大なものだったそうです。

この城郭施設には、四天王を祀る寺もあり、中世日本の城に至る「国を護り、民を肥す」思想が見ることができます。


そして太宰府のみならず、対馬に金田城かねたのき、肥後に鞠智城くくちのきを築くと、そこから長門、屋島、坂出の城山、備中の鬼城きのじょう、それから高安など、大和に至る九州、瀬戸内ルートの標高400mの山々に城を築きました。

これらには米倉、兵舎、寺院など70を越える建物が居並び、水源になる貯水池、高楼が建てられ、土塁や石塁による城壁、外濠があるものもあるそうです。


このように西日本の城の原点は、山城になります。


その後天平8年(736)吉備真備が唐より戻り、孫子の九地戦法などを披露し、それにより天平勝宝8年(756)より筑前怡土城ちくぜんいとじょうを築城しました。(途中から佐伯今毛人が引き継ぎ、完成は神護景雲2年(768))


 また律令制の整備と共に、東国にも「城」が築城されていきます。


大化3年(647)、越国に渟足柵ぬたりのきが造られました。柵の中には国府が設置されていました。

その後200年に渡り、多くの柵(城)が東国に築かれ、天平9年(737)には外郭と内郭を持つ多賀城が築城されました。

特に東国の日本海側では、沼垂柵の名前が示すように平地に柵を巡らせた城が多く作られ、当時の城は「磐舟柵いわふねのき」「出羽柵でわのき」などのように、ではなくの漢字が使われています。

更に秋田城に名前を改めた出羽柵は、元慶2年(878)までには、城櫓に、柵櫓、兵庫つわものぐら櫓、郭櫓を何十と備えた壮大な城郭都市を築いていたことが記録に残っています。


戦国期に至るまで、東国の城は城壁に防備に長けた工夫が多いのは、原点が平城、平山城で城壁で防御力を高めたことに起因していることがわかります。


平安期も末期になっていくと、大陸との対立も減り、段々と中央集権の律令制が緩み、それぞれが武士を雇い、武力を高めていく時代になっていきます。


 その土地、土地を領する者が、国府に代わり、権力を握る時代の到来です。


このことにより、権力者とその家族が住まう「館」がまず出現します。

東国は「たて」、近畿、西国は「たち」と読みます。


13世紀には、城郭内の最奥に、一辺が一町(120m)四方の台地を作り、2〜4mの高さの柵(土居)を回して、堀を巡らせた寝殿造の館が完成し、全国各地に広がりました。この様子は、『一遍聖絵』に見ることができます。


※一遍上人は鎌倉中期の僧侶で、時宗の開祖になります、

Wikipedia 『一遍聖絵』

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%81%8D%E8%81%96%E7%B5%B5


鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』を見ると、この時代、「館」とは別に堀を作り、城壁を築き、逆茂木で櫓を立て、佩楯を並べて、臨時の要害をあちこちに作っていたようです。

それは西国の覇者平氏も同じで、一谷要害を摂津福原に築き、実用的な砦を「館」の城郭とは別に作っています。


それが一つのものになるのが、南北朝時代が終わった15世紀半ばになり、その頃最も有名なのが太田道灌の江戸城になるそうです。


この頃から、ようやく城下町が現れます。


道灌は高台にある「(根)」の城には、道灌の「館」である静勝軒の他、家臣団の屋敷、厩、櫓などがあり、同じ高台の「中」の城には同じく家臣団の屋敷や倉、櫓、そして軍事施設や下級武士の家があった「外」の城が並んでおり、その高台の麓に城下町の「根古屋」があります。


甲冑屋さんのショップからお借りしました……

道灌、江戸城図

https://katuuya2012.shop-pro.jp/?pid=144324938


後日差し替えたいと思います。


向かって左手が海で、そちら側が「根の城」になります。


眺めが良さそうなお城ですね。


この頃の主郭の主人の屋敷は、公家たちと同じ四神相応の形式の寝殿造で造られていたそうですが、徐々に書院造に移り変わり、主郭の造が左右対称なものから、非対称で雁行形のたがい違いの形になっていきます。

しかし、その敷地に於ける区分は、基本的に四神相応に沿っています。


また段々と郭が増えていき、様々な施設が置かれるようになっていきました。


さらに安土桃山時代になると、社交的施設を備えた郭を持つ城が増えていきます。


相変わらず、風呂などもありますが、数奇屋、囲炉裏の間(囲炉裏を囲んで密談や商談などをする部屋、数奇屋の囲炉裏ver)、焚火の間(小姓たちの囲炉裏の間、主人が密談中に控える)などが造られるようになっていきます。


しかし陰陽道や兵法を元に組み立てられる築城術は、安倍晴明の選とされる『簠簋内伝ほきないでん』を基本として、大江匡房を開祖とする上泉流を産み、甲斐武田家の甲州流へ、そしてその門人の小幡景憲が天下を取った家康に登用され、江戸期の築城、城下町形成術として広まり、また門人である北条氏長が北条流を作り上げ、それが徳川幕府の正式な兵法となりました。

簠簋内伝と北条流とは、四神相応思想などに変化はなく、現代でも風水という形で日本人の心に残り続けているのは、すごいなと思います。

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