生活

戦国時代の庶民の一日

 戦国期の庶民の皆様の一日を、今回はおおまかにお届けしたいと思います。


限りある史料からの組み立てなので、間違っている可能性もあります。

いつものことですが、一つのエンタメとして受け取ってくださいますようお願い致します。


庶民というのか、町屋の商人たち、それから田畑を耕している人々的なザックリとした感じでお届けしたいと思います。



 さて、戦国時代の夜がそろそろ明けようとしています。


 室町時代より日の出から日の入り、日の入りから日の出までをそれぞれ6等分にする不定時法が取られるようになりました。

つまり季節と昼夜によって、一刻の長さが変わりますが、まぁ、おおよそ一刻は二時間前後になります。


また各時辰の始まりを初刻しょこく、中間を正刻しょうこく(せいこく)と呼び、正刻で鐘を撞きます。


室町初期までは午前0時を子の刻『夜半』、丑の刻を『鶏鳴』などと呼ぶ時辰法が取られていましたが、戦国時代を迎える頃には、この時鐘の数で時刻を呼ぶようになっています。


時鐘は、太陽が正中する牛の刻に9つ打ち、一刻ごとに1つずつ減らして、4つまで来ましたら9つに戻ります。


夜中の0時は子の刻で、夜九つ

2時は丑の刻参りの夜八つ

4時は、神君家康が生まれた寅の刻の暁七つ

6時は、日の出の卯の刻の明六つ

8時は辰の刻で、朝五つ

10時は巳の刻の昼四つ

太陽が正中する12時は、牛の刻の昼九つ

14時は未の刻の昼八つ

16時は申の刻で、夕七つ

18時は日の入りの酉の刻で、暮六つ

20時はもう寝るよの戌の刻で、宵五つ

22時は深夜で亥の刻、夜四つ


(定時法の時刻は参考程度に。日の出、日の入りに合わせるので、夏、冬は1時間以上ずれます)


 当時の町、村の造りは城郭都市外であっても、要所、要所に寺社があり、生活に密着していました。

また今のように自動車が走ったり、密閉度の高い建物はありませんから人工的な物音的には静かであり、人や自然の営みの音がナチュラルに家屋の中に入ってきました。


その鳥の声やせせらぎの音のする中、ゴーーン、ゴーーンと、撞く鐘の音は、低く遠くまで響いて行きました。


 起床の時間です。


一向宗に残る史料によりますと、寺の門を開けると、そこには信徒の皆様が並んで待っていたと言います。

たしかに武家たちも、起床して身支度を整えると、まずは先祖へのお祈りの時間を取ったと言います。


となると山門や城門が開くとされる明六つ(6時ごろ)までには、飛び起きて顔を洗って歯を磨いたり、身支度を整えていたということになります。


という訳で、皆様の起床は暁七つの寅の刻、おおよそ朝の4時頃となります。


しつこいようですが不定時法なので、実際のところ、東の山の端がちょっと色が変わってきた……かも的な非常に空気が精妙な頃で、時辰法では古式床しくその名も『平旦』と呼ばれる時刻になります。

まぁ夏なら4時前、冬場なら6時すぎから7時前??

ちょっとよく分かりませんが……


そして続々と近くの寺(自分の支持する宗派)へ足を運んで、僧侶の皆様と朝のお勤めに励みます。


 読経の後には尊い高僧の説話があり、それが終わると、ゴーーン、ゴーーンと鳴り響く鐘の音を背中に、粛々とご自宅に戻ります。


この頃がおおよそ朝五つの8時頃。


朝食の支度を致し、パクパクとご飯を食べて片付けます。

内容はその家の経済状態に依りますが、雑穀と野菜や野草などを煮た粥状のものや、米に汁や山菜や漬物などだったようです。


江戸期の庶民の調理状況は、朝のみ火を使ってご飯を炊いて味噌汁を作り、昼は買い食いや流しの寿司屋を呼んで握らせたり、夜は朝炊いた飯と屋台の惣菜などで夕食を頂いたといいます。

その火も毎朝長屋ごとに火起こし当番があり、そこから種火をもらって、各自が家の竈の火をつけました。


城郭内の足軽長屋や、町屋でも節約と安全対策の為に同じシステムを採用していたかもしれませんね。

町屋の区画については、後ほど触れます。


 また都市部では、買い食い、立ち食いの文化が既にありました。そして滞陣の折の屋台、触れ売りを考えると、城郭内では海や湖近くの城であれば早朝の流しの貝売り、干物のものを含む魚売りがやってきたかもしれません。

また昼過ぎからは熟鮓なれずし漿こんず売りなどが町屋を巡っていた可能性もあるでしょう。


その他、連雀商人たちが糸や蚊帳や薬草、漆器などを背負い、また馬商人たちが馬をひいて、城郭都市の城門が開くと入ってきます。

城郭外の村にも、連雀商人たちが足を向けました。


この頃には駅、後の宿場町もゆるやかに形成され、連雀商人たちは一晩そこに泊まって、やってきたのかもしれませんね。



 さて、こうした村や街、城郭都市には、菖蒲売り、凧(紙鳶)売りなどの季節の触れ売りも訪れたでしょう。


また流しの農機具、調理器具の販売業、修理業もあったと言います。

というのも、こうした農機具、調理器具などは、刀剣、薬などと同じで統一された呼び方が多いので、全国を巡っていたのではないかと言われています。


 さて、人々は仕事を始めます。


日中の仕事として、田畑、狩や町屋であれば、それぞれの店の家業があるでしょう。

呉服、染物、塩、酒、なめし革、鎧などの職人など城郭内、城門の近くには沢山の店が並んでいたと言います。


こうした町屋に納品をする人々もいたでしょう。

桶狭間の項で、家康の部隊の人数を算出する際に調べた限りなので、定かではありませんが、この頃まだ大八車などはなく、人が背負うか、動物に背負わせるのが主流だったそうです。


仕事が一区切りするのは、昼八つ頃だったそうです。


また洗濯などの家事もあります。


それらに使う井戸は、おおよそ辻や裏庭にあります。


 城郭都市の町屋では、信長公が町屋の製図を引き直すまでは、基本的に一区画が正方形の形をしており、四辺の上に家が建ち、中央の裏庭に共同の井戸がありました。

そこで洗濯、洗い物などをし、洗濯物も乾かしていたと思われます。


また武家たちは、下女たちが洗うものもあれば、その城郭内の染物屋に出して、洗ってもらうものも有りました。


 城郭外の村では、辻に共同の井戸があり、そこに踏み洗い用の踏石が置かれ、一人が踏み洗いをし、もう一人が井戸から汲み上げた水を柄杓でかけるという共同作業で行っていたようです。

また手で洗う方法もこの頃にはありましたが、庶民の着物は強い植物の繊維を利用したものが大半で、足踏み洗いが多かったようです。


 洗い終わると竹を細く裂いた物を着物の中に入れ、伸ばします。

また武家も公家も麻や葛の着物の時には、濡れた着物を折り目がきちんとでるように板戸に貼り付けて、乾いたら剥がすやり方が主流でした。

それは正式な狩衣などの時もそうで、絹にくらべて随分扱いやすい素材だったようですね。


ふんどし(当時は手綱、下帯)や広めの帯紐などの長いものは、短い方を細い板で挟み、木と木の間に伸ばします。

またそこまで長くない、オムツやてのぐいなどは、しっかり伸ばして、板戸に貼り付けます。


こうしたものは日向ではなく日陰で短時間、干しました。

ですから絹物や木綿を着用できるお金持ちの人々以外は、今のように午前中に、というわけではなかったようです。


こうした洗濯や家の掃除や細々とした繕い物などを何時ごろしていたかは分かりませんが、日が落ちるまでに済ませていただろうとされています。


畑仕事なども日常生活ですから、季節や時期によって、変動した可能性もあるでしょうね。


また山菜や家の庭などに生やしている薬草を干したり、漬物をつけたり、蔓を取って乾かしたりなどの仕事も、この日中にされていたとしています。


冬を迎える頃には、村では早朝から村総出め苧麻を伐採し蒸して、糸を作りました。

その他葛や楮などからも同様に糸を作ります。

蚕を飼い、絹糸をとる村もあったでしょうし、領主から言われて、木綿栽培を始めた農家もあったでしょう。


また紙を作る人々たちも、木の皮を剥いだり、蒸したりしています。


 収穫物は近隣の寺社へと運びます。

この時現物もありますが、換金してお金を納めたという話もあります。

寺社はそれを城主に納めました。


また離れた寺院の社領が領地内にある場合、領主が取り込んでしまい、訴えを起こされたりすることもありました。


また城郭内の町屋では、城郭内に店を構える代わりに、年どれくらいという税を取り決め、革屋なら革を、毛皮なら毛皮を本城へと納めていたそうです。


 また、この頃、『座』『講』と呼ばれる集まりが頻繁に行われていました。


例えば女性たちは「女座(女房座)」「女講」と呼ばれる集まりが待たれます。


「女座」は神社の管轄で、中世の始まりあたりに村単位で集まり、五穀豊穣を祈り、そのなぞらえもの(供物)を子供のいない女性が食べることで、子宝に恵まれるという事になったり、更に安産祈願、子供の無事な成長への祈りの会と進んでいったようです。

男性たちは商売の繁盛や、天候などを祈り、子どもたちの成人儀礼や祭や町など運営を話し合ったとされています。


反対に「女講」は寺で行われ、死から生者を守り、死者への供養をしました。


当時は寺と神社は一体化していましたが、「講」と「座」は集まっているメンバーによっては話が流れてついでに話し合うこともあったでしょうが、一応きちんと分かれていたようです。


 こうした集まりは、行事や季節の節目、節目にありましたが、風呂講と呼ばれる入浴と宴会は、日常的に行われていました。


それぞれが家から食べ物と薪を持ち寄り、寺の風呂施設で入浴をして、ご飯を食べます。


夏はほぼ毎日と言いますから、もしかすると私たちが思っている「庶民の夕食」というのは、現代生活からの推測で、当時の様相は違う物だったかもしれません。


 またこの頃は、大人と呼ばれる選ばれた成人男性と、若衆と呼ばれる青年とが村や地域、つまり惣の運営会議を行いました。


この頃のことは余り記録に残っていないのですが、女性の地位は江戸期に比べ決して低くなく、一家の主人として女性がいたり、この決議による一揆を含む戦さ場に、惣の一員として男性と対等に参加したり、惣の裁判によって裁かれる時に女性だからといって、猶予を与えられることはなかったようです。

また当時の裁判の一種である起請の折、主人が留守にしていて、土豪の女房や老母が代行して行っている姿もあり、勇ましく焼いた鉄を握り、煮え滾る湯に手を突っ込んでいます。


 さて日が西に傾いてきました。


 ゴーーン、ゴーーン


城門や山門が閉じる合図の、暮六つの鐘が鳴り響きます。


 家に戻ると、草鞋を編んだり、蔓で籠を編んだり、家でできる仕事をこなします。

また糸をお洒落な紐にするのも流行っていました。

こうしたものは、もしかすると座や講でもしていたかもしれません。


お金に余裕がある家であれば、灯りをともして本を読んだり、仕事をすることもあったでしょう。


そうでない家は寝る支度をします。


夏であれば、干したよもぎやガマを焚いて煙で虫を燻し、蚊帳をつります。

当時は蚊を媒体として病気になることが、わかっており、弱い子供たちが犠牲になっていたようです。

ですから、一般に蓬やガマを挙げられていますが、蓬もガマもよく使う草だった為、それがない場合は、他の草を利用したかもしれません。


辺りはもう暗くなり、戦国の人々を静かに星が見守っています。


外から聞こえる人の立てる物音は、急用の人か怪しい役目の人くらいでしょう。


馬や牛の鳴く声、犬や鶏の声もしたでしょう。


そのような中、静かに宵五つの鐘が響きます。

火を灯すことができるお家では、夜四つ。


 戦国時代の庶民に、ゆたりと夢が訪れます。

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