戦国時代の厩と厩番(ジオラマのリンクを追加)

 拙作「信長公の兄弟、織田喜六郎秀孝」でも話題に致しましたが、当時の厩はよくドラマで描かれているような、質素なものではありませんでした。


百聞は一見に如かずということで、まずは以下の東京国立博物館の画像をご覧ください。

「厩図屏風」

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0021066


これは室町時代のものですが、本能寺の変などの安土桃山時代の記述を見ても、多少戸の作りやらが変わりつつありますが、その基本構造と使用法には変わりがないようです。


 当時の床の高い屋敷の板張りの房に馬を入れ、手前に二列に敷かれた畳の上で、楽しそうに囲碁だか将棋をし、小姓がお茶を運び、犬が放し飼いになってますね。

その上、犬猿の仲と有名な猿までおられるので、また驚きです。


畳の部分と馬房の間の板の間は、廊下に当たるのでしょうか、少々段差があるようでそこを利用して居眠りをしている人もいます。

御側衆のような僧体の人もいれば、城郭内の菩提寺の和尚さんでしょうか、身分の高そうなお坊さんもおられ、大変くつろいで、皆様居心地が良さそうですね。


 見て頂きました絵図は、六間と呼ばれる「御厩」で、六つの馬房に六頭の馬がいますが、中には二間、三間、または十二間と様々な大きさの厩もあったそうです。

二間、三間の規模の御厩は、戦国時代で言えば、軍役で騎馬兵(自分)が一人程度の身上になるでしょうか。


御厩は、外に別棟として別にあるものと、屋敷と繋がっているものがありました。


『洛中洛外図屏風』では、室町時代の邸と繋がった形の、一の厩「御厩」を拝見する事ができます。


国立歴史民俗博物館 「洛中洛外図屏風」細川管領邸(庭園など、水落の地蔵)

https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakutyuu/base+16/l336.html


この画面向かって左上の、黒っぽい着物の男性が胡座をかいて座っているところが、厩になります。

このズーム図を見ておじさんの姿を目に焼き付けた上で、「洛中洛外図屏風」「細川管領邸」と画像検索していただきますと、室町期の武家屋敷の厩の全体像を確認できるかと思います。


※以下は、宗秀斎氏が製作公開されているブログの「細川管領邸」のジオラマです。厩だけではなく、室町、戦国期の由緒正しい武家屋敷の構造が、そこに建っているかのように分かります。

また製作過程も解説と共に拝見できるので、詳細も分かりお勧めです。

(宗秀斎氏の承諾を得た上で、リンクを貼らせて頂いています)

https://ameblo.jp/sousyuusai/entry-12329632755.html?frm=theme


これ以外でも今川義元の屋敷や、武田信玄の躑躅ヶ崎館などのジオラマも製作されており、戦国小説を書かれる方、戦国ファンの方にはお勧めしたいブログです。



実際の厩の間取図に関しては、安土城の羽柴秀吉邸の現地の看板がわかりやすいかと思います。

申し訳ありませんが、「安土城」「秀吉」で画像検索されますと、醒めたオレンジ色で着色された秀吉の館の間取り図の写真があると思います。


櫓門入ってすぐの建物が「御厩」です。これは別棟として建っているものですね。

秀吉の厩は、再現図や模型もあり、非常にわかりやすいです。


 細川家などは十三間、将軍家では十五間の御厩を持っていたそうですから、馬の本場である武田、上杉家あたりは似たり寄ったり、天下が手に入る頃の織田家もそれくらいの規模かもしれませんね。


 しかしよくお城の縄張り図を見ていましても、厩がないぞ?ということになりますが、実は「遠侍」、「詰所」と書いているところ、馬廻とかが詰めているところですね、ここが御厩の場合もあります。


馬廻が普段、普通に詰めている所が厩というのは、意外かもしれませんが、馬というのは実用品にして、超が付くほどの高級品でしたから、殿も馬も守れて一石二鳥なのかも知れません。


 また御厩は、ただ馬がいて馬廻が控えている場所というだけではありませんでした。


確かに最初の絵図には、僧体の方も居ますし、将棋をさしたり、居眠りもしていて、武者がいかめしく詰めている交番的なイメージより、スーパー温泉のリラックスルームな風情が致しますね。


 では当時の厩の使用法は、どんな感じなのでしょうか。


御厩というのは、殿に付いてきた従者たちが控えていたり、領地内で不審な人物を捕まえた場合、尋問したりする場所でもありました。

それだけではなく、殿が来客と面会したり、左義長などのイベントがあった時、この座敷で殿が見物することもあったようです。


更には、本能寺の変の折、寺の御厩から馬廻たちが討って出、またここで24名が討死した記録が残っています。


警備と厩のみならず、多目的に使う所だったのですね。


 ところで秀吉は下っ端の足軽になった頃、信長公の厩番を務め、口取をしたという話を読んだことがある方もおられるかと思います。


しかし厩番という職務は、上記の御厩の造りを読むと、下っ端の足軽の仕事ではない事をわかっていただけるのではないかと思います。


鎌倉初期には、源頼朝の寵臣梶原景時が「馬別当」に任じられ、室町幕府では政所執事伊勢氏が「厩奉行」として君臨しました。


殿の足であり、財産である馬を押さえる厩奉行、厩頭には、殿の信頼の厚い譜代の上級武家が任じられるのがお約束です。


そして実際の馬の世話も、小者や御半下などの下人、或いは足軽の仕事ではなく、立派な武士の仕事でした。


つまり馬の体を拭いたり、湯で洗ったり、たてがみを切ったり結ったりの手入れや、餌やりをするのも士分の仕事であり、「下職に心得てハ恥たるべし」(『今川大双紙』)とされていました。

つまり、厩奉行の小姓、馬廻など家臣の近習たちや、役として詰めている殿の馬廻の小姓、あるいは彼らの小者ならまだしも、そもそもヒラの足軽が、大名家の当主の厩に入れたのかは、甚だ疑問です。


ただ大名、国衆の当主の口取は、士分の足軽頭なので、秀吉がヒラの足軽ではなく、足軽頭なら話は別です。

秀吉の次の職務の台所頭は、包丁と呼ばれる中級以上の譜代の武家の料理人を取りまとめる上級武家、台所賄は譜代の宿老の役目ですから、案外職務の方が、秀吉の本当の身分を示しているのかもしれませんね。


そうそう、厩奉行の下には専属の馬医師が傅いていて、馬の健康には気を配っていました。


また一の厩だけではなく、二郭、三郭、安土城の秀吉の拝領屋敷のように、家臣用の厩はありました。

当時の厩は大変広々とし、馬具も整理整頓されて興味深い建物ですね。
















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