あの人のうつけ時代

あの人のうつけ時代・甲斐の虎武田信玄

 信長公が「うつけ」と呼ばれていたとかいうのは、結構、有名な話ですが、他の大名の皆様は、どうだったんだろうなと思いました。


今回は、甲斐の虎、信玄公を見ていきましょう。


 甲斐の虎、信玄公といえば、天下兵馬権を握った鎌倉殿の父が始祖で、武門棟梁と名高い源頼光の直系の子孫にして、将軍になった足利氏よりもずっと「武家エリート」の家柄です。

風林火山の旗印を押し立てた、勇ましい武田軍団を率いた、甲斐守護、武田信玄公の勇猛な姿に、多くの大名が震え上がったものです。


 守護大名、武田氏の居城、躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたとそれを取り巻くの城下町の構造は、室町幕府の花の御所をなぞらえたもので、それを囲むように背後の北、そして左右の東西には天然の要害である高い峰がそびえ立ち、敵が甲府に攻め込むなら、南しかないという護りに堅い城でした。


何故躑躅ヶ崎「館」で城ではないか、というと、これは戦国期の様式の一つで、平地に京風の昔ながらの格式ある武家の本拠地の形式の館、そして近くにいざ戦となった時に詰める詰城を作ったというものです。


その詰城、その名も要害山城で後の信玄、太郎が生まれました。(「甲陽軍鑑」では、信玄を英雄化する流れで「『勝千代』と名付けられた」としています。)

立場は正室の長男。信長公と同じく、武家の嫡男です。

跡取嫡男が、なんでそんな所で生まれたのかと言いますと、折しも今川家家臣、福島正成が攻め込んで来ていたからです。


まさに戦の中で生まれるという、何とも勇ましい信玄公にぴったりの出生です。



 ところが、信玄公は信長公と同じく、4歳下の実弟、次郎くんが溺愛され、家督が脅かされる状況でした。

こちらはお母さんではなく、お父さんの方で、ここの下りは、後の伏線となっています。この伏線のはりかたも、よく似ています。


 家臣たちは次郎くん、後の信繁の方がいいんじゃないかと噂します。織田兄弟と違ったのは、この信繁くんとその近習たちは静観の構えを崩さなかったところです。この信繁くんは本当に賢く、謙虚な人柄だったらしく、感じ入った知将真田昌幸は、我が子が信繁にあやかるようにと、その名前を付けました。これが真田信繁、後の幸村です。


天文10年(1541)。その年は歴史的な飢饉が甲斐を襲った年でした。


 信玄公は、お父様の信虎を追い出し、家督を相続しました。これは家臣からの突き上げと、自分の家督問題とで、色々あったようです。

現在、信虎が極悪非道な人柄だったように残されていますが、これはほぼ当時の「天道」という宗教観からくるでっち上げでしょう。

とにかくいかに相手が悪く、自分たちが正しいか、罵詈雑言をかまし、大義名分を勝ち得ることが、当時は非常に重要なことで、かの有名な「第六天魔王」事件の信長公との手紙によるバトルもそれですし、秀次事件も同じですね。


しかし、追い出されたお父さんの信虎は、今川氏に迎えられ、「重責から逃れられて、ご飯も美味しくモリモリ食べられるようになって、太っちゃった!」と近習にボヤいていたらしく、信虎としては気楽な隠居生活が送れてハッピーな晩年だったのが幸いです。



そんな風にお父さんを追い出して家督を継いだ信玄公ですが、ふと気がつくと、ヒキニートにジョブチェンジをしていました。


元々信玄公は、教養人で、文学大好きな芸術家肌の青年だったようで、家督相続で、お父さんが悩んだのも、その辺りが関係していたようです。


さて、ここでお屋形様、甲斐の虎、信玄公の素晴らしい和歌を拝見いたしましょう。


残雪

春ながら 眺めにまがふ 我が宿の 花の梢の 雪むら消え


夜郭公

うちつけに それとも聞かじ 杜鵑ほととぎす 人待つ夜半に 一声ひとこえ


初秋露

秋来ぬと 幹の忍に 風さえて 袖に知られぬ 庭の朝露


時雨

降りそふる 袖の涙に 夕時雨ゆうしぐれ さらでも寂し 冬の目覚めは


ランダムに『武田晴信朝臣百種和歌』写本から四首書き写しましたが、いや、もうどれを取っても言葉の美しさ、繊細さに驚かされます。


オトメン?



 大名、武将たちはおおよそ、夜明け前に起き、武芸の鍛錬、定例の評定や外交などの政に精を出していました。


しかし、信玄は正午過ぎた頃にようよう目を覚まし、まだ陽が高いというのに、戸を閉めたまま、蝋燭ろうそくや、灯明をつけさせ、美少年に美青年、そしてまた美しい侍女たちをはべらた宴会を、連日連夜、それこそ空が白む頃まで、繰り広げたそうです。

この頃から、生涯にわたって、信玄公は男色のトラブルも絶えず、股をつく羽目に陥ったり、出奔してしまった恋人を恨んで、のろいをかけてみたりしています。

どうやら、色恋に耽溺しがちの人柄のようです。


しかも、たまに出かけるといえば、馬攻めでも、鷹狩でもなく、連歌の会などの芸術方面の集まりだけ。

政務も戦も放ったらかしで、遊興にふけるだけの生活で、当主としてというより、人としてどうでしょう?な状況でした。


あまりの体たらくに業を煮やしたのが、傅役の板垣駿河守信方、あるいは金丸筑前守です。


ここでガツン!と正論を突きつけても、聞きっこないのは世の習い。

考えた板垣氏、あるいは金丸氏、どっちか分かりませんが、信玄公の傅役は、せっせと和歌制作の勉強に励んだそうです。


そして、決戦の日は来た。


「お屋形様、私と歌の詠み合いをましょう」と持ちかけられた、若き日の信玄公は

「お前ごときに予と同レベルの歌が詠めるものかは」とわらいます。

そして、難題をふっかけました。

ところがどっこい、傅役殿はサラサラと超絶技巧な句を作って、披露しました。


「え!どうして?実は歌を詠む趣味があったのか」

信玄が驚いて問いかけますと、傅役殿は涼しい顔をして応えました。

「いいえ、二十日ほど、嗜みまして御座候」

これには、信玄公もうろたえました。

何しろ、長い間手間暇かけて、和歌を嗜み、それにプライドを持っていた自分より、二十日ほど勉強しただけの傅役殿の方がずっと上手でしたから、もう堪らぬものがありますよね。


「行儀を改め下され!」

傅役殿は、真摯に信玄公に訴えます。

一家の主人とは思えぬ振る舞いを、このまま続ければ、武田家は滅びるのが必至。しかも親を追い出したという上に、これでは天道に叶うはずもなく、悪因悪果、信玄公の行く末はロクなことには成らず、更には亡くなって後は、地獄に落ちる事間違いなし!


これには人一倍、迷信深……信心深い信玄公はしょんぼりして、後日「ごめんなさい。改めます」と誓いを立てました。


この頃、信玄公は二十歳を過ぎた頃。そして、後の活躍は皆様ご存知のことでしょう。


と言っても、なかなか人の性癖というものは変わるものではなく、親しい大名から珍しい本を贈れれば相変わらず、篭って読み耽ったり、ついつい好みの男がいれば、吸い付いて、恋人の近習から怒られたりして、股を突いたりしていたようです。


という事で、あの偉大なる信玄公も、一時期は和歌ヲタのヒキニートだったという事で、なんだか親近感が増します、よね?


























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